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7.172024
森達也のフェイクな世界「第5回 ゴッド・ブレス・アメリカ」
NHKの仕事でニューヨークに行ったとき、ジョン・F・ケネディ空港のイミグレイション(入国審査)で、半日近く拘束されたことがある。朝8時くらいの着陸だった。僕のパスポートをしばらく見つめていた係官は、指で合図をして数人の係官を呼んだ。まるで昼飯用にビッグマックを買ってきてくれとでもいうような表情と仕草だったので、ほとんど緊張感がないまま、僕は数人の係官に誘導されてイミグレイション横の部屋に案内された。
それから金髪をクルーカットにした係官に尋問される。アメリカには何をしにきたのか。日本ではどんな仕事をしているのか。帰りのチケットは持っているのか。
もちろん僕は正直に答える。日本の公共放送であるNHKの仕事でここに来た。ただし僕はスタッフではない。僕の職業は作家だ。映画監督もやっている。今回はレポーターとインタビュアーの役割だ。番組のテーマは「同時多発テロから十年が過ぎたアメリカ社会の変化」。ちなみにインタビュイーの一人はジョン・ダワーだ。
最後にジョン・ダワーの名前を出した理由は、係官の表情がとても険しくて高圧的だったからだ。しかも数分で終わるだろうと思っていたのに、もう30分近く解放されていない。少し焦ってきた。ジョン・ダワーの名前を出せば係官の態度も変わるだろうと考えたのだ。
でも係官の表情は変わらない。というか、ジョン・ダワーの名前を知らないらしい。著名な歴史学者でマサチューセッツ工科大学の教授でもある。1999年に彼が発表した『敗北を抱きしめて(EmbracingDefeat)』はピューリツア賞を受賞して、戦後の日本社会の新たな解釈として日本でも大きな話題になった。そう説明しても無反応のまま、「おまえはドラッグを常用しているか」といきなり係官は訊いた。
「まさか」
「嘘をつけ」
「嘘なんて言ってない」
そんなやりとりをしていたとき、部屋の小さな窓の外に、日本から同行してきたNHKのクルーの姿が見えた。何人かはきょろきょろしている。突然いなくなった僕を探しているのだろう。ここにいるよと知らせるために椅子から立ち上がって窓に近づこうとした僕に、係官はいきなり「Sit down. Don’t move!」と怒鳴り、腰のガンホルダーに右手を当てた。
アメリカのイミグレイションの係官は武装している。そしてこの金髪クルーカットの男はかなり興奮しやすいようだ。僕は椅子に座り直す。なぜこんな目にあっているのかわからない。
それから一時間が過ぎるころ、扉がノックされて日本人女性が顔を覗かせた。僕が乗ってきたJALのスタッフらしい。乗客の一人が拘束されているとの情報が届き、あわてて駆けつけてきてくれたのだ。
「森さん、英語は?」
「不十分です。通訳してください」
係官に僕の言葉をあらためて通訳しながら、彼女は早口の英語で説明も加えている。係官はちらちらと僕の顔を見る。どうやら彼女は僕の冤罪を主張してくれているようだが、係官の表情は変わらない。
「ちょっとまずいかもしれません」
彼女が僕に耳打ちした。
「まずいって」
「もしかしたら、というかこのままでは、日本に強制送還となる可能性が高いです」
「なぜですか」
「よくわからないんです。森さんはドラッグは所持していないですよね」
「所持どころか吸ったことも、……マリファナは何回かあるけれど、アメリカで吸ったことはないです」
「この男は自分に嘘を言ったと彼は言っています」
「嘘なんか言ってません」
「何かの誤解であることは間違いないと思うのですが」
この会話の途中に僕はトイレに行った。でももちろん、勝手に行くことはできない。撃ち殺される。金髪クルーカットの係官に「トイレに行きたい」と伝えれば、プロレスラーみたいな体格の黒人と白人の係官二人が僕の両側に立った。そのままトイレに行く。小便便器に向かっているあいだも二人はすぐ後ろに立っている。もちろん二人も銃を装備している。なんだかハリウッドアクション映画の主演俳優になったような気分だ。ただしこれは現実だ。強制送還なんて冗談じゃない。ならばもうアメリカに来れなくなるし、何よりもNHKのこの番組に大きな迷惑をかける。困った。部屋に戻るとJALのスタッフの姿はない。誰かに応援を頼みに行ったと思いたいけれど、30分以上が過ぎても戻ってこない。金髪クルーカットはボールペンを手にしてデスクの上に置いた書類を見つめている。強制送還の準備だろうか。
時計の針が正午になる数分前、年配の黒人係官が部屋に入ってきた。金髪クルーカットは立ち上がり、口笛を吹きながら髪に櫛を入れて私服に着替え、あっというまに出て行った。どうやら早番と遅番の交代らしい。デスクに座って書類をしばらく眺めていた黒人係官は、顔を上げて僕を見つめてから、右手を挙げてこっちに来いと合図した。
僕はおそるおそる立ち上がる。また「Don’t move!」と怒鳴られたくない。黒人係官は近づいた僕を一瞥してから、招いた右手を反対に振った。要するに「行け」と合図した。
「……もう終わりということ?」
「そうだ、行け」
手荷物を抱えて僕は部屋を出る。本当なら黒人係官をハグしてお礼を言いたいところだけど、とにかくこの場から早く逃げ出したい。
部屋の外ではNHKのクルーたちが困惑した表情で僕を待っていた。
「どうしたんですか」
「わかんない。担当が変わったらいきなり解放された」
紹介された現地コーディネーターの白人男性が、「運が悪かったんです」と僕に日本語で言った。 「911以降、イミグレイションは時おりこれをやります」
「これって?」
「外国から来た人に嫌がらせのようにいちゃもんをつけるのです」
結局のところ今に至るまで、この拘束の真相はわからない。でも現地コーディネーターが口にした「いちゃもん」という日本語は、今もはっきり覚えている。
その後にグラウンドゼロの跡地と再開発の状況を取材し、ニューヨークに暮らすムスリムたちのコミュニティとイラク戦争に従軍してPTSDで社会復帰できない元兵士を訪ね、ニューヨークのモスク建設に反対する著名な女性右派オピニオン・リーダーにインタビューし、『スーパーサイズ・ミー』発表後にムスリムとの共存を訴えるドキュメンタリー映画『ビン・ラディンを探せ!』を監督したモーガン・スパーロックに会い、さまざまな民族や宗教が共存するクイーンズの中学校を訪ねて授業に参加した。白人はクラスの三分の一くらい。あとは黒人やアジア系、ヒスパニック系もいれば、髪をヒジャブで隠したイスラムの女の子もいた。そんな彼らが、番組スタッフが提案した「現在のアメリカ」をテーマに、カメラの前で「無理解が偏見を呼ぶ」「異教徒であっても話せば同じ」などと議論する様子に衝撃を受けた。
ロケの最終日にボストンを訪ねた。ジョン・ダワーへのインタビューだ。番組としてもメインなので、まる一日かけた。戦争はなぜ起きるのか。なぜ人々は憎み合うのか。なぜ戦争の歴史は終わらないのか。そんな話を続けながら、休憩時に僕は、入国の日にイミグレイションで起きたことを話した。
「これは大きな声では言えないけれど」とダワーは言った。「アメリカは右翼の国だよ。つまりナショナリスト」
「そうなんですか」
「多くの家の玄関には星条旗が飾られている。911後には車のボンネットに小さな星条旗の旗をつける人が増えた。いたるところに国旗がある」
「そういえばグラウンドゼロ周辺のビルも、大きな星条旗がビルの壁面に描かれていました」
「これが日本ならと考えてごらん。右翼ばかりの国だよ」
確かにと頷いてから、僕はダワーに「その話をカメラの前でもう一回してください」と言った。でもダワーは静かに首を横に振った。
「最初に言ったよね? 大きな声では言えない」
「ダワーさんでも言えないのですか」
「日本人がイメージする右翼や国粋主義とは少し違う。このニュアンスを誤解されないように発言することは難しいよ」
このやりとりをここで再現することに躊躇いはあるけれど、でもダワーはテレビだから編集されるリスクがあると僕に言った。僕は(この会話については)編集していない。記憶ではあるけれどそのまま再現しているし、ダワーの意図は誤解なく伝わると思う。
帰りの飛行機で考える。アメリカは若い国だ。しかも多民族多言語多宗教の国だから、自分たちの統合に自信がない。だからこそ事あるごとにまとまろうとする。つまり集団化を起こす。ただしこれは(ダワーが補足したように)、日本の保守や国粋右翼(の一部)が主張する「日本民族は世界一素晴らしい」とか「日本は神の国である」などとは少しニュアンスが違う。
アメリカは臆病なのだ。いつも脅えている。統合されていないことに意識下で気づいているからだ。だから(911後のアメリカ社会が示すように)一体化を強調する。強さを優先する。統合の象徴である国旗と国歌が大好きだ。世界一傲慢なフレーズ「God Bless America」を事あるごとに口走る。
でも多民族多言語多宗教であるからこそ、一体化や統合は長く続かない。必ず反対意見が出る。(クィーンズの中学生のように)一人ひとりは自分の意見をしっかりと言葉にする。議論する。つまり一色になりきれないのだ。それがアメリカの強さだったはずだ。
大統領選は11月。一昨日にはトランプが狙撃されかけて支持率を上げた。再びトランプ大統領は誕生するのだろうか。分断という言葉が象徴的に示すように、アメリカ社会は本当に変わりつつあるのだろうか。しばらく行っていないので、自分の目で確かめたい。
ただしジョン・F・ケネディ空港にはもう行きたくない。
「森達也のフェイクな世界」は今回で終了します。
本連載を収録した森達也さんの時評集『九月はもっとも残酷な月』は2024年8月発売予定!
森達也(もり・たつや)
1956年広島県生まれ。映画監督・作家。立教大学法学部入学後、様々な職種を経てテレビ番組制作会社に入社。98年オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』『A2』で内外の高い評価を得る。監督作に『FAKE』、『i-新聞記者ドキュメント』、『福田村事件』。著書に『A3』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『たったひとつの「真実」なんてない』『虐殺のスイッチ』ほか多数。YA向けの著書に『いのちの食べかた』『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』『ぼくらの時代の罪と罰』がある。