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7.122024
「第16回 灯台へ」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
二〇年前の夏に泊まった小さな島のホテルの領収書が出てきた。それを捨てずに取っておこうと意識したことを憶えている。失くしたとは思わなかったので、時々、その一枚の紙きれがどこにあるのだろうと思うことがあった。四つに折られた領収書が思いがけなく出てきた時、中を外に向けて折り畳んでいたので、日付が真っ先に目に入った。二〇〇三年だった。コンピューターでプリントしたのではない、手書きの昔風な領収書だった。ある方から聞いたこんな話が思い出される。ただ時はもっと古く、その方が五〇年近く前にイタリアを旅行した時のことだった。
「一人の老人が椅子に腰掛け煙草を吸っていました。列車の到着まで手振り身振りで話をし、僕が日本人だとわかると満面の笑みになりました。その笑みを写真に撮らせてもらうと老人はその写真が欲しいと言っているようなので、紙とペンを出すと寂しそうな顔になり、文字が書けないからお前が書けと言っていました。名前と住所を何度も聞き直しローマ字で音を書きましたが、あの時の老人の写真とその時のメモはどこかの段ボール箱に入ったまま見つけられずにいます」
一枚の紙きれという話の落ちに、私の領収書と繋がるものを感じた。五十年の昔では、義務教育を受けなかった年配の人たちが、イタリアに限らずどの国にもいただろうことは想像に難くない。どのようなきっかけからか、一度会っただけの人のことを思い出すことがあるのは不思議なことだ。いや、不思議ではないのかも知れない。過去と現在は目に見えない透明な網の目でジグザグに繋がっている。過ぎた時はきっかけがあればいつでも帰ってくるようだ。
さて、ホテルの領収書から思い出すのは、アイルランドの最北の島、トーリー島の灯台の人である。アイルランドにはトーリー島より北の島が一つあるがそれは無人なので、最北というのは人の住む島としてということである。その夏、日本から三人の知り合いがアイルランドにやって来た。私たち、女四人はトーリー島へ行ったのだ。フェリーを降りて、島に一つしかないホテルにチェックインしたあと、散策に出かけた。灯台を見に行こうということになった。島の北西に向かって一本道を辿っていって灯台に着いたとき、私たち四人は、魔法にでもかかったようにそろって塀の内側の敷地の中へ入って行った。「立ち入り禁止」の札がかかっていたのかどうか。ただゲイトが空いていたこともあって、つい誘われたのだ。そこへ入っていくことが一番自然な流れに思えた。
すると灯台の傍にある別棟の事務所から男の人が真っ赤に怒った顔で飛び出してきた。防犯カメラに捕らえられたのだろう。しまった、と私は思った。驚いたことに、その人の怒った顔つきが、一瞬で変わったのだ。四人の東洋人の女性を見て、英語の立て札が読めなかったと思ってくれたのだろうか。或いは島を訪れる旅行者は、島を潤す大事な人だと思ったのだろうか。私たちは敷地に入り込んだことを謝った。すると何ということだろう、すっかり普通の顔つきに戻ったその人は灯台の中へ入れて案内してくれるというではないか。
私は生まれて初めて灯台の中へ入った。螺旋階段を上がっていく。眩暈を起こさないよう、次に踏む階段の一段だけに気持ちを集中して上って行った。最上階の狭い空間に分厚いレンズがあり花の芯のような電球がレンズの中心にあった。彼はその灯台の歴史やら、発光の間隔のことやら、随分詳しく説明してくれた。灯台が始まった時、光源はオイルランプだったという。灯台守の仕事は煤を掃除することだった。「貴方のお父さんかお祖父さんがそれをしたのですね」と私は心の中で勝手にそう思った。灯台のランプの煤を掃除した人がいる。それを憶えていたいとその時、私は思ったのだ。今はオイルで電気がおこされている。最も興味深いのはそれぞれの灯台には発光に際して、特定の点滅の長短の間隔というものがあるということで、海上の船舶はそれによってどこの灯台の光であるかが分かる仕組みである。それで船の位置も分かるのである。それが灯台のアイデンティティだ。今では無人のこの灯台は、今日の時点で二百年近く経っている。
さて、その夜、ホテルでの食事の後、バーの方からアイリッシュミュージックがけたたましく聞こえて来ていた。これを無視して自分の部屋に戻るのは不可能だ。バーの隅の方で、島のアマチュアの演奏家がアイルランドのトラディショナルミュージックを演奏している。初めも終わりもない、永遠に続くと思われるような心地よいリズムに神経の弦が共鳴する。壁に沿っている長椅子は年配の女性たちですでにふさがっていて、ほとんどの人が立っている。私たちも何とか人混みの中に割り込んだ。
しばらくして、私は、灯台の人に気付いた。私が気付いたのはその人が先に、私たち四人の方に昼間会った者として気付いたからに違いない。灯台の視線が私たちの方に向けられたのだ。彼が怒った顔で飛び出してきたとき、私は彼が怒りで顔を赤くしていると思った。だが、彼の顔は左半分がアザで赤いのだとすぐに気付いた。「怒った」と思ったのは私の思い違いだったのだろうか。あの時、彼が外へ出てきたときは随分勢いよく飛び出してきたのだった。それも私に彼が怒っていると思わせた理由の一つだった。
彼はギネスのグラスを手にして誰かと話していた。彼のアザのない方の横顔が見えた。船乗りが被る鍔付きの帽子から白髪がはみだしていた。私は傍へ行って昼間のお礼を言おうと思った。二人の会話をさえぎるつもりはなかったので、どちらか一人がビールのお代わりを注文するために場所を離れるそのタイミングを見計らっていた。だが何か別の方に私の気が逸れてしまって、そのタイミングを失った。
トーリー島へ行ってから一体何年経った頃か覚束ないが、私は、やはりこのアイルランドの北の果て、ドニゴールの海辺の民宿に泊まったことがある。部屋の電灯を消してベッドに横になった時、初めて灯台の灯りが窓を照らすことに気付いた。二つの素早い瞬きの後に来るそれよりは少し長い一つの灯り。しばらくしてそれはまた几帳面に忠実にやってくる。私は布団から抜け出してカーテンの隙間から光のやって来る方を見た。光源が見えた。どこかの半島の先端に違いない。陸にいて座礁の危険のない私も、光のおこぼれに与(あず)かっていた。光は、人の捕まえようという意志を先に素早く察知した蝶の羽のように、寸前に翻って去っていく。絶え間のない喪失。それでいて手を貸すかのように、長い光の腕はまた優しく伸びて来る。瞬間だけの灯台の光は人生のように捉えがたいものだ。
海の方へ行くということから私はその北辺への旅に、ヴァージニア・ウルフの『燈台へ』を持って行った。ペンギン社の普及版で、ダブリンの古本屋で五〇セントだった。六歳の少年が明日、灯台へ行こうと計画しているのを父親が「明日は雨でダメだ」という。それを聞いた少年は、もしこの父親を一撃で殺せるような手斧か火掻き棒があったら手をかけただろうと思う。繊細で弱々しい印象のあるウルフがこのような恐ろしい出だしをこの物語に与えた。だが、私をこの小説の最後の一行まで連れて行ったのは、幼い少年が抱く殺意の出だしだ。十年後、十六歳になった少年はついにヨットで灯台へ向かう。父親は少年がとった舵の腕前を誉め、少年は誇らしく感じる。これは父と子の和解だろうか。少年が島の岸辺の砂を踏むときは青年なのだと私は捉えた。
……人生とは、人を浮き上がらせたり沈めたりしながらいずれは浜辺に打ち寄せる一つの波のように、小さなそれぞれの出来事を生きる一つ一つが渦巻いてなんと完全に全体を成していることか……
‘Virginia Woolf TO THE LIGHTHOUSE Penguin Popular Classics 1996、筆者訳
普通の日の普通の心をちょっと観察してみよう。心は無数の印象を、取るに足らない、すばらしい、手ごたえの無い、あるいは鋼鉄の鋭さで刻印された印象を受け取っている」あらゆる角度からその印象はやってくる。夥しい原子の継続するシャワーだ。
Virginia Woolf The Common reader:Volume 1 Vintage 2003、筆者訳
平凡な日々の中にあって、人の心は無数の印象を受けてせめぎ合っていると、ウルフは言っている。過去のことがふと思い出されるのは不思議ではなく、昨日と今日に最もよく起こっていることなのだ。今、眼前に見ているものが、五十年前のことやら昨日のことやら、いつか見たもの、昔に出会った人をある回路を得て蘇らせる。その時に自分が感じた喜びや悲哀や戸惑いさえ伴って。
トーリー島のホテル「オステン・トーリー」の領収書を私はウルフの『燈台へ』の中に挟んだ。もし私が再びウルフの「燈台へ」を訪れることがあるならば、この一枚の紙きれが私を迎えてくれるだろう。
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。