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森達也のフェイクな世界「第4回 捨て猫を飼う」

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 家に猫が来た。
 生後五カ月の三毛猫。ということはメス。そもそもは捨て猫だったようだ。知り合いの知り合いが拾い、誰かもらってくれる人はいないかと友人たちに声をかけ、その声が僕のもとに届き、僕は迷うことなく手を挙げた。
 僕は広島で生まれている。でも広島の記憶はない。一歳になる前に青森に引っ越したのだ。次に新潟。小学校に入るときは富山。
 国家公務員だった父親は、数年に一度は転勤の辞令を受けていた。だからずっと官舎住まい。犬や猫は飼えない。でも欲しい。犬や猫が家にいる友人が本当にうらやましかった。
 ただし一回だけ、犬を飼った時期がある。富山県高岡市の小学校一年か二年のころに、父親が白い雑種の仔犬を家に連れてきたのだ。どこから子犬を入手したかも今ではわからないし、そもそもなぜ(規則を破ってまで)飼おうと思ったのかも不明だ。当時の官舎に暮らしている人たちは大目に見てくれたのかもしれないけれど、次の辞令でどこに引っ越すかもわからないのだ。大人の判断じゃない。
 あるいは、(実は父親も無類の犬好きなので)長男がこれほどに犬や猫を飼いたがっていると母親を説得して、飼うことを承諾させたのかもしれない。あとはどうにかなるさと。
 でも結果として、この仔犬は数カ月で死んだ。学校が終わって友人たちと自転車に乗って遊びに行こうとする僕のあとを追って外に飛び出して、車に轢かれたのだ。僕は気づかなかった。遊び終えて家に帰って顛末を聞かされたときはショックだった。母親は涙声でもう犬や猫は飼わない、と僕に言った。父親は歩いて一〇分ほどの海に犬の遺体を捨てに行ったという(官舎だから庭には埋められないし、ゴミで出すのもしのびないし、ペット葬儀場などまだないころだし、当時はマナー違反ではなかったはずだ)。
 あわてて自転車に乗って海に向かう。全速力でペダルをこいで、数分で道を歩く父親の後ろ姿に追いついた。でも布に包んだ遺体を両腕に抱えながら振り向いた父親は、来るなと僕に一喝した。
 おまえは俺が死んだら見たいのか。
 小学生に対してこの言葉は、かなり辛らつだと思う。今もはっきりとこの言葉は覚えている。僕は泣きながら、仔犬の遺体を抱えて歩く父親を見送った。
 だからその後は犬や猫は飼ってない。その代わり(官舎でも飼育できる)鳥や小動物、虫はたくさん飼った。鳥の最初はジュウシマツ。やがてセキセイインコを複数飼い、ヒナを手乗りにしたりした。オタマジャクシとイモリも飼った。つまり両生類。爬虫類はカナヘビやヤモリやミドリガメ(ミシシッピーアカガメ)。虫の定番のカブトムシやクワガタはもちろん、ダンゴムシやアリ各種、モンシロチョウやアゲハチョウの幼虫も飼った。高三のときは貯めたお小遣いで手のひら二つぶんくらいの大きさのリクガメをペットショップで買い、甲羅に紐をつけて家の近所を散歩することを日課にしていたら、母親から近所の人が変な目で見るからやめてくれと懇願された。
 東京の大学に入学してアパート暮らしを始めてからも、飼える生きものは手当たり次第に飼った。ハムスターのつがいはケージから脱走してベッドの下で子供を産んで大騒ぎになった。熱帯魚用の大きな水槽を友人からもらったのでアフリカツメガエルをしばらく飼育したけれど、馴れるわけじゃないし動きも単調ですぐ飽きた。夜店でミニウサギも買った。結局はミニじゃなくて普通のウサギくらいに成長して、ペットショップに持っていって引き取ってもらった。
 大学を卒業しても就職せずに(一応は演劇青年だった)荻窪のアパートでバイト生活をしていたころ、友人からキジトラでオスの仔猫をもらい、力丸と名前をつけた。力丸は生まれつき目に疾患があって、獣医通いが欠かせなかった。バイト生活の身としては経済的な負担が大きい。でも一緒に暮らし始めたのだから仕方がない。やがて結婚して阿佐ヶ谷のアパートに引っ越して、長女が生まれると同時に力丸は家に帰ってこなくなった。退院したばかりの妻と二人で近所を必死に探したが、やがてあきらめた。猫は自分の居場所がなくなると自分でいなくなるよ、と友人から言われて妻は泣いていた。
 それから次女と長男が生まれ、たまたま知り合いがいた盲導犬協会から黒いラブラドール・リトリーバーの仔犬をもらい、生まれたばかりの捨て猫を何度か拾った。いつのまにか大所帯だ。夕方に幼い子供たちと二匹のラブラドール犬を連れて散歩に出ると、猫二匹もピタリと後をついてきて、近所の人からはブレーメンの音楽隊みたいよと笑われた。
 それからいろいろ。とにかく犬や猫は、特に二〇代後半以降、いつも傍にいた。でも今はいない。僕は一人だ。半年ほど前に保護猫の譲渡会が駅前で行われていたので足を運んでみたのだけど、いろいろ条件が合わないことで断られてあきらめていた。
 でも今は猫が家にいる。もともと捨て猫だったので馴れるまでは時間がかかるかも、と言われていたのに、三日で膝に乗って甘えるようになった。
 名前は福寿。実は初代黒猫の名前だ。命名は当時中学生だった次女。七福神からとったらしい。だから正式な名前は福禄寿。長女と次女と長男に、ラインで猫を飼い始めたことを伝えたら、すぐに「あーあ」と長女と次女からは返信がきた。名前は福寿と伝えたら、「世襲なの!?」と次女から返信が来た。
 この齢になると、自分の余命を考えて一緒に暮らす生きものの種類を決めなくてはならない。少し前までは、オウムやインコの仲間では最も賢いと言われているヨウムを飼いたいと思っていたけれど、彼らの寿命は四〇~六〇歳。ヒナから飼ったなら、どう考えてもこちらが先に死ぬ。猫だってぎりぎりかもしれないが、友人や家族に猫好きは多いので、万が一の場合にも(たぶん)何とかなる。
 だからふと思う。想像する。子供時代に仔犬を家に連れてきた父親の心情を。きっとあのとき父親も、飼えば何とかなると思ったんじゃないかな。そう思わなければ生きものと共存できない。できればこの後に犬も飼いたい。いつになるかわからないけれど。


森達也(もり・たつや)
1956年広島県生まれ。映画監督・作家。立教大学法学部入学後、様々な職種を経てテレビ番組制作会社に入社。98年オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』『A2』で内外の高い評価を得る。監督作に『FAKE』、『i-新聞記者ドキュメント』、『福田村事件』。著書に『A3』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『たったひとつの「真実」なんてない』『虐殺のスイッチ』ほか多数。YA向けの著書に『いのちの食べかた』『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』『ぼくらの時代の罪と罰』がある。

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