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森達也のフェイクな世界「第3回 パレスチナ問題を語るときの僕のジレンマ」

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 パレスチナ問題について考えるとき、ずっと僕はひとつのジレンマを抱えている。ただしそのジレンマは、今のイスラエルやネタニヤフ政権(シオニズム)を批判することは反ユダヤ主義になるのではないかとか、2000年以上にわたって辛酸を舐めてきたユダヤ人がなぜこれほど攻撃的になるのかとか、そんなレベルの煩悶から派生するものではない。
 上の二つについてざっくりと書けば、今のイスラエルやネタニヤフ政権を批判することと、反ユダヤ主義はまったく別物だ。ユダヤ人の知り合いはたくさんいるし、彼らの多くは今のイスラエルやシオニストたちの思考は決して正しくないと考えている。そもそもユダヤ人に対するフォビアは(多くの日本人と同様に)僕の中に一ミリもない。
 被害の側にいたユダヤ人が加害の側に反転していることについても、得心はできないがとりあえずは納得できる。駆動しているメカニズムのひとつは、長く差別され迫害されてきたからこそ、剥きだしとなった過剰な自衛意識だ。そしてもうひとつの要因は、ナチスドイツによるホロコーストが明らかになったとき、長く差別して迫害する側にいたからこそ西洋社会(キリスト教文化圏)が共有したユダヤ人に対する後ろめたさだ。だからこそ国連決議案を守らないイスラエルに対して、欧米を中心とした国連安保理は強く諫めることができなかった。
 イスラエルは事実上の核兵器保有国でありながら、中東地域で唯一のNPT(核兵器不拡散条約)非加盟国だ。アラブ二二カ国からなるアラブ連盟は何度もIAEA(国際原子力機関)の査察受け入れなどを求めてきたが、イスラエルはこれに応じようとしない。二〇一三年のIAEA年次総会でアラブ連盟はイスラエルに対してNPTへの加盟などを求める決議案を提出したが、これに反対したのはアメリカとヨーロッパの国々、そしていつものようにアメリカに追従する日本だ。
 このときもやはりアラブ連盟の訴えは否決された。ちなみにNPTに加盟するイランは大規模原子力施設の建設に着手しただけで、核兵器開発のための二〇パーセント濃縮ウランの製造が狙いではないかと欧米から批判され、今も経済制裁を受けている。イランの真意はともかくとしても、核兵器を持つことが公然の秘密となっていて制裁などまったく受けていないイスラエルに比べれば、あまりにアンフェアだと言いたくなることは当然だ。二〇二四年六月九日にイスラエル軍が人質四人を奪還する作戦を決行したときに巻き添えとなって死亡したパレスチナ住民二七四人が示すように、イスラエルとアラブの関係はずっと不均等であり、イスラエルはアメリカの庇護とヨーロッパの負い目をメカニズムとして特権的な位置にあり続けてきた。
 ホロコースト発覚から六九年が過ぎるけれど、ヨーロッパは相変わらずユダヤ差別の過去に委縮しているし、アメリカにはユダヤロビーが政治に対して行使する圧力もある。だから(もう一度書くけれど)、イスラエルの現状に対しては、得心も肯定もまったくできないけれど、過剰な自衛意識が周囲からの干渉がないままに肥大すれば、これほど攻撃的になってしまうのだろうなと納得はしている。ジレンマなど感じていない。
 ここまで書いたのだからさらに書けば、今回のガザ侵攻で、あるいはもっともっと前から、批判されるべきは常にイスラエルの側だ。パレスチナの民が六六年前のイスラエル建国以来、どれほどの過酷な状況に置かれてきたか、それはここに書くまでもない。最初から現在まで一貫してイスラエルは加害者であり、パレスチナは被害の側にいる。怒りや苛立ちはあるけれど、ここにもジレンマなどない。

 ならば僕は何を悩むのか。何と何が二律背反しているのか。何が定位で何が反定位なのか。
 それを一言にすれば、国と命だ。
 自分たちの国を取り戻して自分の祖先が生まれた土地で暮らしたいと願うパレスチナの民の心情はわかる。そもそも一方的に強奪されたのだ。泣き寝入りなどできるはずがないとの怒りは当然だ。
 でも同時に、その願いはこれほどに多くの命を犠牲にしてまでも達成しなくてはならないことなのか、との思いもある。
 昨年一〇月七日以降、ガザ地区へのイスラエル軍による攻撃で三万五〇〇〇人以上が虐殺された。ならばイスラエル建国のナクバ以来、いったいどれほどの数のパレスチナの民が殺害されてきたのだろう。おそらくは数十万じゃきかない。百万単位かもしれない。命を数で数えることに抵抗はあるけれど、でもこれほどの数の命に見合うだけの価値あるものは、世界のどこにあるのだろうと考えてしまう。
 そしてこの(僕自身の私的な)ジレンマは、今のウクライナ領土で行われているロシアとの戦争についても同様だ。もしもこの戦争にウクライナが負けたらロシアの帝国的野心を肯定することになるとか、その後の欧州はさらに不安定になるとかの論点については理解しているけれど、でも同時に、人の命を天秤にかけるのなら領土なんか渡してしまえばいいと、意識のどこかで思っていることも確かだ。
 今日(これを書いている六月一六日)昼のワイドショーか情報番組なのかわからないけれど、どうしたら世界はひとつになれるのかと命題に対してビートたけしや他のパネラーたちが、宇宙人が攻めてきたらいいんだと今さらの話をしていたけれど、この命題に対して僕はずっと、人類が国家という概念を捨てればいい、と思っている。
 村があって町がある。その町を包摂して市があって県があり、さらに国家がある。行政単位はこのように同心円を描くけれど、国家をさらに包摂する地域(ヨーロッパならEU)も含めて、この境界の中では国家というラインが突出して太くて濃い。

 国民国家の発祥が一七世紀のヴェストファーレン条約以降なら、それから三五〇年以上が経過して、人類はそろそろ次のステップに移行してもよいのでは、と時おり本気で思う。国境線は消えました。だからヴィザやパスポートも廃止。もちろん行政単位として国家の枠組みは残るけれど、それは村や県の境界と同じです。好きなときに好きな場所に行ってください。居住する場所ももちろん自由です。あなたはカナダ地方に住んでいるんですか。私たちは来週パプアニューギニア地方に引っ越します。
 そんな世界を時おり夢想してしまう。オリンピックも当然様変わりする。国家単位の競争ではないのだ。南半球と北半球の対抗戦。いやそれでは北半球が有利すぎるか。ならば4年ごとにクジで紅組と白組を決めればいい。最終日にはマラソンのあとに紅組と白組に分かれて綱引きだ。
 ……百数十年前までこの国は、藩の境界には関所があって、簡単には移動できなかった。いまは自由に行き来できる。国境も同じだ。消滅させることは決して不可能ではないはずだ。ならば国民という概念も消える。国家間の戦争など起こりえない。

 だから自分でも思う。言われる前に言う。まさしく僕は非国民だ。

 もちろん、仮にその状態になっても、民族や宗教の争い、地域間の紛争は続くはずだ。でも今よりはマシだ。爆撃や砲撃で死ぬ人の数はずっと少なくなる。
 パレスチナに連帯したい。ウクライナを応援したい。でももしも目の前で、「祖国のためにこの命など惜しくない」「自分の家族や同胞、愛する人たちのために戦うのだ」などとハマスの戦士やウクライナの兵士に言われたら、もちろん彼のその思いや覚悟を正面から否定することなどできないけれど、僕はきっと曖昧にうなずきながら、湿ったため息をつくはずだ。臆病者と言われればその通りですと答えるだろうし、二度と俺の前に現れるなと言われたらわかりましたと退散するはずだ。
 僕のこの煩悶やジレンマを共有できる人は、きっととても少ないことも承知している。おまえは偏り過ぎだと言われれば、そうですよね、と同意する。でも偏ってはいるけれど、こんな視点もあるのかと思いながら読んでほしい。ここまで書いておいて今さらだけど、実は炎上がいちばん怖い。


森達也(もり・たつや)
1956年広島県生まれ。映画監督・作家。立教大学法学部入学後、様々な職種を経てテレビ番組制作会社に入社。98年オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』『A2』で内外の高い評価を得る。監督作に『FAKE』、『i-新聞記者ドキュメント』、『福田村事件』。著書に『A3』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『たったひとつの「真実」なんてない』『虐殺のスイッチ』ほか多数。YA向けの著書に『いのちの食べかた』『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』『ぼくらの時代の罪と罰』がある。

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