ウェブマガジン〜GIFT〜

  1. 「第6回 英語は冒険」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

      若い頃、ロンドンで働きながら英語学校に一年ほど通ってみたいと思ったことがあった。英語を学ぶというよりは、違った環境に身をおいてみたいということだったろう。ロンドンに対しては人種の坩堝(るつぼ)というイメージを持っていた。

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  2. 「第5回 アイヌ語とアイルランド語」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

     昭和の三十年代に釧路市から旭川市に引っ越して来たばかりの頃のこと。韓国人の朴(パク)さんという人が時々訪ねて来て上がり框で母が話し相手になっていた。包丁を研いだり、壊れた傘を修理したりするのがこの人の仕事であったように記憶する。

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  3. 「第4回 異国での出産」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

     アイルランドは国民の九十五%がカトリックである。長い間、ローマカトリック教会によって避妊が禁止され、子沢山の国だった。二〇二二年の出生率は十一・三(人口一〇〇〇人当たり。因みに同じ年の日本は一・二である)今、六十代以上の人は十人ぐらいの兄弟姉妹がいるというのは普通のことである。

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  4. 「第3回 仕事(その2)」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

     前回(その1)はこちら 日本語を教えるということは、まず自分が生徒になって学ぶことだった。 日本語は省略がとても多い。特に二人の会話では、分かりきったこと、たとえば話し手の「私」と聞き手の「貴方」などは省略されて話が進んで行く。

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  5. 「第2回 仕事(その1)」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

    一九八九年一月七日、昭和天皇が崩御し昭和が終わった。六月、中国天安門事件のニュースを日本で見た私はその年の終わりに近い十一月に、ダブリンでベルリンの壁の崩壊のニュースを知った。天安門とベルリン、この二つの事件は、いずれも自由と民主化を求める画期的な出来事であった。

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  6. 「第1回 出国」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

     一九八九年の夏、アイルランドへ行く為に旅行代理店から私が買ったのはパキスタン航空の切符だった。十八万九千円だったと記憶している。これが一番安かった。片道だからその半分だと思った。当分帰って来るつもりはなかったのだ。ところが代理店の人に往復も片道も同じ値段だと言われて随分がっかりした。

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  7. 「第24回(最終回) 言わないこと」ケアリング・ストーリー

     ある新聞の投書が話題になっていた。もう人生の晩秋を迎えようとしている年齢のご夫婦らしい。妻の方からの投書である。夫の学生時代の彼女だった女性が、末期がんになった。

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  8. 「第23回 もうひとりのわたし」ケアリング・ストーリー

     10年住んだブラジルでは、小さな子どもや、愛しい人、親しい人に対して呼びかけるとき、”~nho”(ニョ)という、英語で言えば、diminutive、というか、「小さい」という意味の語尾をつける。パウロという男の子は、パウリーニョと呼ばれるし、ジョゼは、ゼジーニョと呼ばれる。

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  9. 「第22回 結婚」ケアリング・ストーリー

     結婚というのは誰にでもできるものだった。誰にでもできるものだった、というか、誰にでもできるように、人間はシステムを作ってきた、ということだったと思う。

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  10. 「第21回 女性の活躍」ケアリング・ストーリー

     中米のエルサルバドルに来ている。面積は九州の半分くらい、人口も650万を切るから、埼玉県と兵庫県の間くらいの人口。小さな国であるが、中米の国は、他の国も規模としてはそんなに変わらない。

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