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「第24回 英語が話せるようになったとき」 少女のための”海外へ出ていく”話

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ザンビアで教師として働く

 不自由だ、下手だ、どうしてもうまく話せない、と思っていた英語が、話せるようになったじゃないか、と思えるようになった時は2回あって、そのことをよく覚えています。今思えば、2回あった、ということは1回目と2回目はレベルがちがった、ということなんですが。とにかく英語を話すことに自信を持てたことが、2回ありました。
帰国子女でもなければ、話す英語のトレーニングを学校教育で受けることもなく、学校で英語を勉強する、とは、読んだり書いたりするのを学ぶこと、というのが私たちの世代の英語教育でした。英語を話すことを初めて学んだのは、25歳のとき、青年海外協力隊員としてザンビアに赴任することになる前の訓練です(そのことについては連載第3回に少し書いています)。少人数で、イギリスから来た先生に合宿してずっと習う、という贅沢な環境で、英語が話せるようになるという感覚を初めて身につけ、それはとても楽しかった、ということも、その回に書きました。
 ザンビアのお隣のタンザニアでは、現地の言葉、スワヒリ語が公用語になっていて授業もスワヒリ語で行われていますが、ザンビアはなにぶん、現地の言葉がたくさんありすぎて、どれかを公用語にすることができなかったため、公用語として使われていた言語は英語でした。ザンビアでは、学校で習う言葉が英語なので、ほとんどの人は英語を流暢に話します。

Photo by Adrianna Van Groningen on Unsplash

 英語の訓練が楽しかったとはいえ、それだけの英語の訓練で、任地のザンビアでは専門学校の先生をしたのですから、生徒になった人たちに対して今思うと申し訳ない限りです。それでも、なんとか授業もしたし、生徒たちの言うことも理解できましたし、ザンビアの首都ルサカでも、生活に困らない程度の英語は使えましたし、私は自分は「英語ができるようになった」と思い込みました。かりにも、英語で授業をしているのだし、周囲の国に行っても通じるし、だいたい周囲のザンビア人のみなさんはみんな私の言うことをちゃんとわかってくれて、会話がなりたっていました。これが1回目の「英語ができるようになった」と思った経験です。

ロンドンで英語が通じない

 ところがそれは、私が英語が上手だったわけではなく、ザンビアのみなさんが優しくて、私の言うことを理解しようとつとめ、私がわかるように話してくださったのだった、というのがわかったのはそれから数年後、ロンドンに留学したときのことでした。30歳になる少し前、勉強するだけのお金もたまったし、周囲の状況もそれなりにととのったので、ロンドン大学の衛生熱帯医学校に留学します。(このことも連載第6回に少しだけ書いています。)イギリスに住み、ロンドン大学の大学院に通いました。
 すると、英語がさっぱりわからない。大学の授業どころか、街で話をしていても、何度も聞き返される始末。聞き取れないし、自分の話していることもわかってもらえていないみたい。あれ? 英語はできているはずだったのに……と思い、愕然とします。ザンビアの人たちは、わたしの日本語訛りの英語も理解しようとしてくれていたし、自分たちもゆっくりわかるように話してくれていたんだな、とそのとき初めてわかったのです。彼らにとっても英語は、自分たち自身の言葉ではなく、学校で習い覚えた言葉であり、また、アフリカの多くの原語の発音は日本語と近いところもあって、英語のアクセントもお互い少し似ているようなところもあり、「第三の言語」同士で話しているというわかりやすさもあり、それよりなにより、ザンビアの人は私を理解しよう、とする共感的な態度に満ちていて、それに助けられていたのです。
 ロンドンではそうはいきません。ましてや、ロンドン大学の大学院、英語ができないのは、できないものが悪いのであって、心を寄せて私の言うことを聞こうという態度には、あまり出合わないことが多かった。イギリスやアメリカなどでは、基本的に英語はできるのがあたりまえ、ということになっているうえ、大学院なのだから、話せて、プレゼンテーションができて、議論できて、なんでも書けて当たり前だと思われているわけです。
 とにかく、イギリス人の英語が、聞きとれません。彼らはきっと素晴らしいクイーンズイングリッシュで明確に話してくれているのだろうけれど、テンポが速すぎて聞き取れない。議論にもついていけず、自分が発言することはとても気後れしてしまってできない。すっかり自信をなくして、何も喋れない。こんな大学院生は、本当に落ちこぼれです。ザンビアで、せっかく英語が使える、と自信を持っていたのに、あれは周りのみなさまがやさしくしてくれていただけだった、ということに気づいても、もう遅い。イギリスでの一年目は本当に英語に苦労して過ごし、どうやって上達したらいいのかもわからないくらいでした。

Image by Наталия Когут from Pixabay

伝えたいことができたら、話せるようになった

 イギリスの大学院の一年間の修士課程を終えて、ブラジルに行きました。ブラジルの大学に籍を置いて、ブラジルの中でもっとも貧しいと言われている北東部セアラ州の州都フォルタレザ、という街に向かい、子どもの肺炎などの調査をしていました。公衆衛生研究者として現地調査をしている私の耳に、驚くようなことが入ってきます。「不完全な流産」で病院に来る人が急に増えていると言うのです。
 カトリックの国、ブラジルでは妊娠中絶はご法度です。妊娠中絶を喜んでやる人もやろうと思う人もいません。しかし女性の人生のうえでどうしても産めない、ということはある。さらに妊娠中絶の手術は合法的な環境で行われれば、もっとも安全な外科処置の一つでもある。だから世界の方向性としては、できるだけ妊娠中絶を合法にすることが、妊娠中絶を安全にすることだ、と認識されていました。
 妊娠中絶が違法の国でも、女性たちが、妊娠中絶しなければならない、というニーズが減ることはありません。ブラジルの女性たちは、子宮収縮作用を起こす胃潰瘍の薬を薬局で買って服用し、でもその薬だけでは、出血はするけれど完全に妊娠中絶するには至らないので、病院に行っていたのです。病院は妊娠中絶はできないけれど、出血している女性の治療はできます。つまりは「不完全な流産」の処置として妊娠中絶を、病院でしてもらえることになります。そういう女性たちが一年間に4000人以上、病院に来ていたのです。そのひとりひとりを調査し、妊娠中絶の状況について研究しました。たいへんなことが起こっている、と思い、女性たちの話を聞くのに必死でした。女性たちからとったデータを真剣に分析し、世の中に問いたい、と論文にしました。ここで起こっていることを報告しなければならない、と思ったのです。
 ブラジルでの調査を終え、ロンドンに戻ると、英語が話せるようになっていました。私には話したいことができたのです。このブラジルの女性たちの状況を伝えたい、私が見てきたことをみんなと共有したい、そして、自分がやってきたことをベースにして、いろいろな人と議論をし、新しい考え方を得たい。そう思うようになると、なぜだか英語が使えるようになっている自分に気づいたのでした。これが「英語が話せるようになった」と思った2回目の経験です。
 英語の勉強が進んだのではない。経験が増え、私には話すべきことができた。伝えたいと思うことができた。そうすれば、話せるようになった。外国語を学び上達する一つのステップは、その言葉で、話したいこと、話さなければならないこと、ができるようになること、なのですね。基礎的な英語力は、話したいことがあって初めて、自在に使えるようになるものなのだ、ということがしみじみとわかったのでした。

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学国際関係学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』、『昔の女性はできていた』、『月の小屋』、『女が女になること』、『女たちが、なにか、おかしい』、『死にゆく人のかたわらで』、『五感を育てるおむつなし育児』、『少女のための性の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。
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