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「第14回 ローマの休日」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 一九五三年に制作された映画「ローマの休日」の印象はとても愉快で楽しいものだった。某国のアン王女を演ずるオードリー・ヘップバーンのようにスクーターの後ろに乗って颯爽とローマ市内を巡れたらどんなにかいいだろう。グレゴリー・ペックと一緒に、とは言わないが。残念ながら少々疲れ気味で、自分で計画する気力に欠け、私が乗ったのは「ローマ、チボリ、アッシジ」を謳うパッケージツアーだった。アッシジの地名は若い時から知っていた。一四世紀の初めに描かれたジョットのフレスコ画「鳥に向かって説教するフランシスコ」を見ていた。彼は当時禁止されていたという托鉢で食べ物を得、「金銭」と「所有」を避けたという。壁に直接描かれ動かすことの出来ないフレスコ画のように私の心の壁の隅にも残って来た。ガイドブックも読まず地図も見ないままの出発となった。

 とはいえ、旅行が決まってから私は和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫、 一九九一年)と竹山道雄の『ヨーロッパの旅』(新潮文庫、一九六四年)を手近に置いていた。和辻のイタリア訪問は一九二七(昭和二)年のことで百年近く前のことになる。彼は旅の一部始終を奥さんへ旅日記代わりに書いて送っていた。それを基に本にまとめて出版したときにはその旅行から二十年以上が過ぎていた。和辻はインド洋を通っての船旅、一方、竹山は一九五五(昭和三十)年、終戦から十年経って南回りの空の旅だった。

 私が参加した一週間ツアーの基地になるホテルはローマから九〇キロ離れたフュージ(Fiuggi)という町にあった。南イタリアの四月であり、アイルランドより暖かいことを期待していたが高度のせいだろう、ダブリンとほとんど変わらなかった。淡い新緑を透かして黒い木々の枝や幹が見える。葉と木のシルエットの両方が見える稀な時期だ。銀色のオリーヴの木は春の靄の中に溶けているように見える。

 ダ・ヴィンチ空港に着いたとき、ツアーは四十人の大所帯だと初めて分かった。初日の古代ローマの遺跡巡りは、観光客の溢れる中、早足の現地ガイドを見失わずに従いて行くことだけで精一杯だった。翌日は自由な日で、再びローマに行き、自分のペースで歩き回った。

 和辻の『イタリア古寺巡礼』には絵画やフレスコや彫刻が白黒の写真で多く紹介されている。その中で最も印象に残ったのはギリシャのレリーフのオリジナル「ルドヴィチの王座」だった。紀元前五世紀の制作で、別名「海の泡から生まれるアフロディーテ」である。和辻が百年前に撮った写真のあるページに付箋を付けてあった。これが展示されているパラッソ・アルテンプスは外の喧騒が嘘のように思え、見学者がいないと錯覚するほど静かだった。予約なしで入館できるのかどうか覚束なかったので入場料を払ってチケットを貰うまで、私は祈るような気持ちでいた。
 アフロディーテはいた。硬い石でもって、流れるような薄物の衣文と愛の女神の若いしなやかな肢体が表されているのは驚くばかりである。彼女は和辻が見たままで少しも年を取っていない。彼の本ではローマ神話の名称にならって「ヴィーナス」となっていたが、展示室の説明ではギリシャの言い方をとって「アフロディーテ」であった。ローマ帝国は征服した国々から戦利品として多くの美術品を持ち運んだ。もともと制作された国の名で呼ばれるのはいいことだと思う。

 ダブリン発のこのツアーにはアイルランド各地からの参加があった。皆、退職者とおぼしき人たち。最初の夜のディナーのテーブルで一緒になった四人の人達と最後まで一緒である。私は廊下ですれ違った時にいい印象を持った二人の女性が既に席についていたテーブルを選んだ。二人は姉妹ということだった。
「貴方は日本人ですか」私が席につくなり姉妹の一人が言った。唐突な質問で驚いたが、私が「そうです」と答えると「実は、DNAの検査をして、私は日本人のDNAを持っていることが最近分かったのです。私の両親はアイルランド人ですが、それ以前のことを私は考えたこともなかったのです。でも、このDNAの事実が分かって以来、私は、祖父、曾祖父のことを調べ始めました。祖父はニューヨークで育ち曾祖父はカナダへゴールドラッシュの時代にアイルランドから移住したのです」
 あらためて彼女たちの顔を見てみると、札幌にいる私の叔母によく似ている。自分は両親の子だと思っているが実は連綿と過去の人達と繋がっていてたくさんの親がいるようなものだ。こうして初日の会話が始まり、ツアーのない自由な日にどこへ行ったかを交換することになった。

 ツアーではコロッセオをはじめとする古代ローマの遺跡を早足で巡り、凝った噴水で知られるチボリのエステ家別荘を訪ね、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂へ。自分で計画した旅行ではないので従いて行くという感じが強い。現地ガイドの説明を聞けるというのがパッケージツアーの特典だ。自由な日にはホテルのある町で、スーパーを覗いたり、屋台のようなカフェでコーヒーを飲んだりした。カプチーノの値段はダブリンの三分の一だった。

 六日目にはすっかり疲れて家に帰りたい気分が募った。それでも帰りの機内で竹山道雄の『ヨーロッパの旅』を開き「イタリアめぐり」の章を読み始めたのは旅がまだ続いていたのだった。竹山は、あるタクシー運転手との邂逅で「イタリアめぐり」を終えている。彼はナポリにいて方角が分からなくなったときタクシーをつかまえ、ナポリ料理の食べられる海の見えるレストランへの連れて行ってくれるように頼んだ。そこへ着くと運転手が料金を取らない。竹山がなぜと聞いても、運転手は「お前は日本人だろう」と言うだけだった。それで竹山は運転手に食事をおごることにした。

 運ちゃんは背の低い骨太の男で、張り出した頤が青く目がきつく、人相がいいようでもあり悪いようでもあった。私は「ことによったら雲助が何かたくらんでいるのかもしれない」と思って、用心しながら様子を打診した。

竹山道雄『ヨーロッパの旅』(新潮文庫、一九六四年)

 竹山は単語を並べただけのたどたどしいイタリア語を話した。運転手は首にかけていたロケットの中の写真を見せた。亡くなったお母さんだった。それから彼は、シャツのボタンをはずし、胸毛の中に入れ墨された日本娘の顔をみせた。シンガポールで日本娘と同棲していたことがあったのだった。運転手は竹山が乗るローマ行きの汽車の時間まで、夜の海岸をドライブし続けた。駅で竹山はガソリン代として五百リラを受け取らせようとしたが、彼は拒否し、二人で格闘にもなったと著者は記している。竹山が「キエザ(教会)で……ペール・マドレ(お母さんのために)……フィオレ(花を)……」と言うと運転手は頭をうなだれてついに金を受け取った。二人は固い握手をして別れたとある。

 この箇所を私は既に読んで憶えていたが、目がうるんだ。旅に疲れて心が脆くなっていたのだろうか。ホテルでの最後の夕食の日、日本人のDNAを持っているという例の女性が「今回のイタリア旅行のハイライトは何ですか」と私に聞いた。「カラヴァッジョの絵を六点も、見たことです」即座に答えたにも拘わらず私は何か違う気もした。飛行機の中で、私は思っていた。戦争で教え子を失った悲しみから『ビルマの竪琴』を書いた竹山とナポリの運転手との邂逅と別れ、これを読んだことが今回の旅のハイライトだと。人間の儚い出会いがもたらすものは儚くない。このような話を私は絶えず求め、この世をさまよっている。

 帰宅してスーツケースを空にする作業と心理は全く奇妙なもの。茶碗を洗ったり洗濯物を干したり、家事は新鮮になる。それが旅の魔法というものなのか。自分の家ほど落ち着くところはない。それでもまたどこかへ行くことを考えている。スーツケースはどうかすると、一週間もそのまま放っておかれることがある。怠けもあるがその中にまだ言葉にできないものが詰まっているからなのだ。

津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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