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6.142024
「第15回 チェルシーフラワーショーと漱石」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
毎年五月、ロンドンのチェルシーで開催されるチェルシーフラワーショーに初めて出かけてみた。ロンドン三泊の旅行をリュックサック一つで済ませることが出来たのは、一緒に出掛けたダブリンに住む友人がロンドンにも家を持っていてそこに泊まることが出来たからである。彼女は夕食の買い物にでも出かけるような気軽さでロンドンへ出かけて行く。私は三十年前に出版されたロンドンのガイドブックを棚から抜き取って行ったが実際は彼女が生きたガイドブックになってくれた。
チェルシーフラワーショーはその規模や歴史から言って世界の五つのフラワーショーに数えられるだろう。五日間で十七万人が訪れたと聞く。花よりも人の方が多い。会場はローヤル・ホスピタルという退役軍人のホームの敷地なので、赤い軍服に身を包んだ好々爺の退役軍人が入り口で入場者を迎えてくれる。車椅子の方もいる。ガーデンショーはいくつかのセクションにわかれているが私の関心は、ショーガーデンだった。限られた地面に十九日間で庭を作るショーガーデンはまずもって厳しい書類選考があり、デザインの提出ばかりでなく、ショーの終了後、使用された植物や造園の建築材をどのように処分するかということも明確にしなければならないと聞いた。これに関してはチャリテイとして寄贈されるケースが多いようだ。
いつかこのフラワーショーに行ってみようと思ったのは、二十二年前のこと。(「思う」というのはまことに恐ろしいことだ。なぜならそれが起こるのだから)それは庭園デザイナーとしては全く無名のメアリー・レイノルズがアイルランド人として初めてゴールドメダルを取ったことをニュースで知った時のことだった。彼女の庭は、テレビのニュースの短い映像では石灰岩、シダ、苔、野の花の組み合わせであり妖精が出てきてもおかしくない雰囲気があった。その庭の圧巻は中国の庭によく出てくる「ムーンゲイト」だったと思う。平たい石を外縁に沿って何重にも重ねて作られた全円形の門はそこをくぐる者を別世界に招いていた。
造園に関してレイノルズは初めからバイオダイヴァーシティ(生物多様性)を提唱してきた。地球全体の多様な生き物が関連し合って生きているということであり、毒性のある化学薬品の除草、除虫剤に反対してきた。かつてチェルシーでもそれらが販売されていた時代があったという。今、それらは姿を見せていない。
フラワーショーではまず花の数より人の数に圧倒される。目当てのショーガーデンを人々の肩越しに見る。蜂の羽音も聞こえない庭と人混みは矛盾する。主催者はなぜこんなにたくさんのチケットを販売するのだろう。栽培者の展示のあるパビリオンの方に移動する。これほどの花を一度に見るのは初めてで自分が蜂のようになって動き回っている。私が一番好きだったのはクローバーだった。
一緒に行ってくれた友人は庭にバラをたくさん持っていて、バラの名に精通している。こんな話を聞いた。新しく開発されたバラには名前が付けられる。名付けの権利がナショナルトラスト基金のチャリテイでオークションにかけられたことがあった。ある富豪の婦人が落とし、夫の名を付け、それを夫に贈った。そのバラはモーティマー・サックラーと言い、私もそのピンクのバラを持っている。今、そのバラは別の名で呼ばれている。サックラー氏が経営に関わる製薬会社が強い中毒性のあるオピアㇺ系の鎮痛剤を販売し、その収益によって彼はアメリカで十九位の富裕者になった。その一方で夥しい数の人が亡くなった。五十万とも言われている。アメリカで深刻な社会問題になった。この事件に関するドキュメンタリー映画も作られている。バラの名が変わったのはそのような事情だ。
さてチェルシーという言葉を初めて私に紹介したのは夏目漱石である。漱石は一九〇〇年の十月にロンドンに到着してから二年ちょっとの間、五か所に住んでいる。四回目の最後の引っ越しで彼が落ち着いたのが、チェルシーに近いクラッパムコモンで、そこに彼は帰国まで一年と四か月住んだ。チェルシーには哲学者カーライルが生前住んでいた館が保存され「カーライル博物館」となっている。漱石は同館への訪問記を書いている。
余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁(かわべり)の椅子に腰を卸して向側を眺める。倫敦(ロンドン)に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。
毎日のように川を隔てて霧の中にチェルシーを眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名な庵を叩いた。
余は倫敦滞留中四たびこの家に入り四たびこの名簿に余が名を記録した覚えがある。
(青空文庫、底本は「カーライル博物館」『夏目漱石全集2』ちくま文庫、1987年)
ここで出て来る「川縁」とはテムズ川であり、「公園」とはテムズの南に面しているバタシー公園のことである。漱石の最後の下宿から歩いて行ける距離である。百年以上前に漱石が下宿した五か所のうち四か所が残っているということで、そのようなロンドンでは私が三十年前に買ったロンドンガイドブックも新しいのではないだろうか。
漱石が帰国後に書いた『永日小品』にはロンドンでの実経験が反映されている。なかでも「クレイグ先生は燕のように四階の上に巣をくっている」で始まる『クレイグ先』はユーモアたっぷりに書かれ、クレイグ(William James Craig 1843-1906)先生がアイルランド人だけに私はこの作品に特別な愛着を持っている。
先生は愛蘭土(アイヤランド)の人で言葉がすこぶる分からない。少し焦(せ)きこんで来ると東京者が薩摩人と喧嘩をした時くらいにむずかしくなる。……先生の得意なのは詩であった。詩を読むときには顔から肩の辺りが陽炎のように振動する。
(青空文庫、底本は「クレイグ先生」『夏目漱石全集10』ちくま文庫、1988年)
読めば読むほど、私は漱石がこの変わり者のアイルランド人に愛情を持っていたように感じられる。ロンドン大学の聴講を一か月で諦めてしまった漱石が、「言葉がすこぶる分からない」クレイグ先生の所に一年も通ったのは先生に大いに惹かれるところがあったのだろう。
ある日クレイグ先生は窓から首を出し、下を通る人を見おろしてこう言った。
君あんなに人間が通るが、あの内で詩の分るものは百人に一人もいない。可哀想なものだ。いったい英吉利人(イギリス人)は詩を解する事のできない国民でね。そこへ行くと愛蘭土人(アイアランド人)はえらいものだ。はるかに高尚だ。――実際詩を味うことのできる君だの僕だのは幸福と云わなければならない。
(同上)
チェルシーフラワーショーの会場から一番近い橋でテムズを南へ渡ると、漱石が散歩したバタシー公園の近くに出る。その中をゆっくり通り抜け住宅街の通りの名を読みながら漱石が住んでいた「ザ・チェイス八十一番」を探す。ザ・チェイスは閑静な落ち着いた通りだった。八十一番の壁には漱石が住んでいたという青い銘板が架かっていた。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」
(青空文庫、底本は「文学論」序『漱石文芸論集』岩波文庫、1986年)
百二十年前のことではあるが私は大いに漱石に同情する。大英帝国が世界の四分の一の領土を持って、そのどこかでは絶えず日が照っていたことから「日の沈まない国」と呼ばれた。その驕りの頂点にアジア人漱石はいた。
私が泊めてもらった友人のアパートは公営住宅だった。日も沈む庶民の地域。サッチャー首相の時代に公営住宅を買うことが出来るようになって、彼女は買ったのだという。大きな四階建て赤レンガ造り。私がそこで住み暮らしたる四日は尤も愉快の四日なり。それを証明するかのように初日に友人と一緒に赤ワインを一瓶開けてしまった。会話に勝る酒の肴はないと思われた夜。
アパートから近いバス停で見かけた人たちの肌の色はまちまちだった。アジア系、アフリカ系の人達。やはりロンドンは人種の坩堝だ。ダブリンでは稀なニカブ(眼だけを出す)やヒジャブ(頭だけ覆う)のイスラム教徒の女性たちも多く見かけた。毎朝、一人で散歩に出かけた。ダブリンへ帰る日の朝、アパートのゲイトで散歩から戻って来たらしいアフリカ系の年配の女性とすれ違った。彼女は立ち止まって「おはよう」と言った。私をアパートの新しい住人と思っただろうか。「おはよう」と言うそのためにだけ立ち止まったという印象があった。私は挨拶と微笑みを返してそのまま歩き続けたが、人なつっこいその人の後ろ姿を見るためにちょっと振り返ってみたい気持ちにさせられた。誰のでもない、それが私のロンドンだった。
参考文献
出口保夫、アンドリュー・ワット編著『漱石のロンドン風景』中公文庫、1995年
「全米で50万人以上が亡くなった「オピオイド危機」を描く社会派ドラマ「ペイン・キラー/死に至る薬」:オンラインの森」https://hitocinema.mainichi.jp/article/poe2y4whgw
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。