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やまゆり園事件のあと、外出が怖くなりました 前編

遊歩と宇宙の「自分がきらい」から「自分がすき」になる相談室画像

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、みんなもじつは厄介者と見ているんじゃないか、という疑念がとれなくなりました。外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)

こわい気持ちを人に伝えていきましょう

私もまったく同じ気持ちになりました。数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。

遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という善意の(そして、とても身勝手で傲慢な)思想がありました。報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。

すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。ただ一つ言えるのは、私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれていることに私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。

たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。

状況は、たしかに過酷です。過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。

20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」、と年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。そして、障がいをもたない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。

決してあきらめないで。こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

こわいから外出しない、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの人間性が見えないままになるでしょう。

分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)

安積遊歩(あさか・ゆうほ)
1956年福島県福島市生まれ。生後40日目で骨形成不全症と診断される。22歳で親元から自立。 1983年から半年間、アメリカのバークレー自立生活センターで研修を受け、ピア・カウンセリングを日本に紹介。 障がいをもつ人の自立をサポートする。2011年まで、再評価カウンセリングの日本地域照会者。 1996年に40歳で愛娘・宇宙を出産。優生思想の撤廃や、子育て、障害を持つ人の自立生活運動など、様々な分野で当事者として、からだに優しい生活のあり方を求める発言を続ける。 著書に『癒しのセクシー・トリップ』『車イスからの宣戦布告』、共著に『女に選ばれる男たち』など。

安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。安積遊歩の娘。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車いすを使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学在学中。

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