- Home
- [Webマガジン]ダブリンつれづれ
- 「第22回 ある年の初めの日記」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
最新記事
1.102025
「第22回 ある年の初めの日記」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
元旦
お雑煮を食べる。この日の為に去年からとっておいた餅六つ。夫二つ、息子三つ、私一つ。糸子さんの家で新年会があったので、昨日のうちに作ってあった黒豆とうま煮を持って出かけた。彼女の家ではクリスマスを十六人の大人と一人の赤ん坊、合計十七人で祝ったと聞いた。全員揃った記念写真がパソコンのスクリーン上に映し出されている。
今日のこの新年会に日本人女性六人が持ち寄ったものは、なます、おでん、黒豆、昆布巻き、沢庵、鮭の押し寿司、おでん、中華風豚肉まんじゅう。和代さんの黒豆は大きく、しかも黒光りして風格がある。私の黒豆は粒が小さく崩れているので、ふざけて「小豆です」と言ったら、何人かは信じていた。
この頃は集まるごとに、老いていくことの実感を交換することになる。膝の痛み、歯が抜ける、髪の毛が薄くなること等々。ハワイ生まれの和代さんのお母さんは日本生活の方が長いにも拘わらず、亡くなる前は英語に戻っていたという。それを聞いて、何年も昔、ある女性から聞いたアイルランド人神父の事を思い出した。彼は長年住んだ日本を離れ、アイルランドに戻って来て所属するコロンバン会の聖職者のための高齢者ホームに入った。この神父は亡くなる前、日本語でうわごとを言うようになったが、そこで働いている看護師たちは、誰も彼の言うことがわからなかったという話。私はそれを、痛ましい例として挙げたが、傍にいた和代さんは、「それは第三者が思うほどに悲惨なことではないと思うわ」と言った。私はただちに彼女に同意できた。そうなのだ。「悲惨」などと言うのは、第三者の勝手な思い込みであることが多い。これは後日談だが、私は、この日本語でうわごとを言った神父のことを話してくれた女性に連絡を取り、その神父を訪れたいと言った。彼は既に亡くなっていた。
アイルランドへ移住して来てまもなくの頃、同じこの聖職者ホームへ、やはり日本から帰国した神父を訪ねて行ったことがある。彼は日本から戻って二、三年だったと思う。喜んで迎えてくれた。長い廊下を並んで歩きながら、「日本語をどんどん忘れていきます」と彼は言った。そして「’corridor’は日本語で何と言いますか」と私に聞いた。「“廊下”ですよ、神父様」と私は答えた。「ああ、そうでした、そうでした。“廊下”でした」と老いた神父は頷いた。
私はその廊下での会話を忘れることができない。彼はアイルランドに戻って来てから、目に入るものを絶えず日本語にしておさらいをしていたのだろう。私たちは、時間が早いために誰もいない大きな食堂で昼食を一緒にした。「ロンドンと言ってごらん」と彼は、私のエルの発音を試そうとした。舌の位置を意識しながら「ロンドン」と私が言うと「悪くないよ」と言った。「僕はね、ローマ字で日本語を勉強し始めた時、ningen(人間)をニンジンと発音したんだ」「人間がキャロットになったんですね」私たちは一緒に笑った。彼は北アイルランドの出身である。「年を取って戻ってきたら、もう知っている人は誰もいなくなってしまった」と寂しげに言った。浦島太郎によく似た話がアイルランド民話にある。神父は浦島太郎に重なった。
私がもう一度この神父を訪ねた時、かれはパーキンソン病に罹っていて、もう何も話さなくなっていた。すっかり痩せて以前の面影は失せていた。私を彼の室に案内した看護師が、「話しかけてあげてください。日によっては反応があるのですから」と威勢よく言って去って行った。私は途方に暮れ話しかけるどころではなかった。血管の青く透けた手を握ったまま、しばらく一緒にいた。手には何の反応もなく、深く落ち込んだ大きな目で天井を見ていて、そのまま凍ってしまっているようだった。立ち去る前に「さようなら、神父様」と日本語で耳元に近づいて言うと、彼が驚いたように二度三度、素早いまばたきをした。私は不意を突かれたが、神父がそのような仕方で答えたと思わないではいられなかった。
夜、テレビで「花見」(HANAMI 2008年)というドイツ映画を見る。出演の俳優たちを誰一人知らない。それが新鮮でいい。日本の舞踏ダンスを好んでいた妻に先立たれた夫が、妻が望んで果たせなかった日本旅行に出かける。彼の息子が東京で働いていたので、息子のアパートを拠点にするが、仕事中心に生きているその息子には持て余され気味になる。
そのうちに、公園で舞踏を踊っているホームレスの若い女の子と知り合い、二人で温泉地に出かける。やがて彼も顔を白く塗って舞踏を踊るのだが、その場面は深い悲しみに溢れていた。彼の踊りはこの世の壁を打ち破って妻のいるあの世へ行こうとする儀式であり、いつの間にか死んだ妻が彼に寄り添っている。ドイツ映画を見たのは久しぶり。布団に入ってからも、白塗りをした男の顔がしばらくちらついた。
一月二日
メアリーとトム夫婦に誘われ、遠藤周作の原作に基づく映画「沈黙」を見る。予告編を見ていたときからの期待でかなり興奮していたが、失望した。まず、長すぎること。神と信徒たちの命の間で板挟みになるイエズス会の神父の苦しみは伝わってこなかった。ミスキャストと思う。映画のあと、近くのレストランで軽く食事をする。メアリーが「当時の日本政府はクリスチャンに対して残酷だったわね」と言った。「生き延びるために表面的な棄教を勧めなかった宣教師も残酷だわ」と私は言った。
遠藤周作の原作を読んだのはあまりにも昔のことで、細部は憶えていない。最後は、神が沈黙したということだったか。キリスト教に限らず、どの神も沈黙しているように私には思える。
失くしたと思っていた母の指輪がコートのポケットから出て来た。ゆるいにも拘わらず嵌めていたので抜けたのだが、それがポケットの中だったのは奇跡だ。母の誕生石アメジストが付いている。見つかった時、指輪は随分ちゃちなものに見え悲しくなった。この安っぽいものを私が母に買ったのかと。もう嵌めないことにして、目立つように赤いリボンを付け抽斗にしまった。
一月三日
朝から、頭痛がするので、居間の椅子に腰かけて目を閉じていた。昨日、映画館で私の前の座席にいた人の背が高かったので、私は子供用のプラスチックの座椅子を使って腰掛けていた。座高はそんなに稼げず、すぐに腰が痛くなった。動くと周りの人に迷惑なので終わるまで我慢していた。今日の頭痛はそのせいだ。太郎がどういう風の吹きまわしか、二階から降りてきて、ロバート・フロストの詩を読んでくれるという。三つ、いずれも私に馴染のある詩。フロストの詩は、韻を含み、目を瞑って聞いていると、催眠術に掛けられたようになる。
Dust of Snow
The way a crow
Shook down on me
The dust of snow
From a hemlock tree
Has given my heart
A change of mood
And saved me part
Of a day I had rued.雪の粉
(The Poetry of Robert Frost edited by Edward Connery Lathem, Vintage 2001) /(津川訳)
一羽のカラスの
ツゲの木から私に向かって
雪の粉を揺り落とす
そのやり方は
私の心に
気分の変化を与え
悲しい一日の幾分かに
救いをもたらした
たった一文で出来ているこの詩は、一語を除くすべての英単語が短音節でできていて、俳句のような印象がある。
去年の暮れに日本から来た小包に、十月二十四日付の日本の新聞が入っていた。皺を延ばして読んだ。三つの記事が目を引いた。一つ目は、東日本大震災の時に大きな被害を受けた石巻市立大川小学校の児童達の親が起こした訴訟の判決が、二日後にあるという記事。大震災のドキュメンタリ―をいくつも見た。その中で私に強い印象を残したのはブルドーザーの免許を取り、それを自ら運転して娘の遺体を捜そうとした母親の話だった。彼女の娘の遺体は校庭から離れた浜辺から見つかったが、母親は他の児童の遺体を捜すためにブルドーザーを運転し続けていた。
二つ目は、日本では難民認可に時間がかかるという記事だった。こちらでも、つい先日、英国からイスラム教徒の若者が約八百人、ISISに加わったというニュースがあった。英国籍を持った彼らは移民の子孫であり、英国で生まれ育っている。移住一代目と三代目は、同じように考えないのだ。学校や職場で疎外され、不満がくすぶっている例も少なくない。満たされない若者はISISの集団的情念に同化し、自らを殉教者に変えることで生きる意味をみつけようとするかのようだ。
三つ目の記事は、俳優の平幹次郎が亡くなったという記事。昭和五十九年、彼と佐久間良子の離婚の記者会見を私は当時日本にいて、たまたまテレビで見ていた。その会見の終わりに、平が佐久間に手を伸ばし握手しようとした。すると佐久間がそれを拒絶した。彼女は体裁を繕うだけの握手をしなかった。平幹次郎と言えば、私はその時の彼のバツの悪そうな顔を思い出す。随分昔のことになった。
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。