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「第6回 英語は冒険」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

  

 若い頃、ロンドンで働きながら英語学校に一年ほど通ってみたいと思ったことがあった。英語を学ぶというよりは、違った環境に身をおいてみたいということだったろう。ロンドンに対しては人種の坩堝(るつぼ)というイメージを持っていた。下見と言うわけではないが八〇年代、ロンドンに短期間、行く機会があった。坩堝の中味を私は明らかに知らなかったが確かにそこは人種の坩堝であった。

 忘れることができないのは、ある駅構内の混んでいるトイレに並んで順番を待っている間のこと。このトイレの隅の方にあるお盆が目に止まった。それには、大きな魔法瓶、マグカップ、ビスケットそしてタッパーに入ったサンドイッチがおさまっていた。なぜ、と私は思った。トイレでは黒人女性がゆっくり動きながら掃除をしていた。ここは彼女の職場なのだ。

 彼女の物憂げな眼差しは今も、脳裏に残っていて強烈だ。人間の文明というものはどこに辿り着いたのだろう、というのがその時私の思ったことだ。文明は多くのエキスパートを生み出し、皆、その恩恵を受けている。同時にトイレを職場とするこのような分業というものもまた生み出した、そう思い呆然とした。奴隷制は廃止された。ところが違った形でそれは続いている。

 混んでいて誰もが沈黙しているロンドンの地下鉄の中で、私の近くにいたイギリス人の若者が周囲に聞こえるような声で隣の友人にこう言った。
「知っているかい。日本人はL(エル)の発音ができないんだ。だからlice(ライス、虱のこと)もrice(ライス、コメ)も同じなんだよ」
 二人の若者は声高く笑った。聞いていたのは私だけではない、周囲にいる人たちもそれを聞いたはずだった。私は心の中でこう言っていた。「私たち、日本人が英語を良く話せない、それで何千人と言うイギリス人が教師として日本で働くことができているのよ。そして英語を学ぶために世界中からロンドンや他の都市にある英語学校に夥しい数の人たちが通っていて、イギリスの貴重な収入になっているはずです」
 英語が話せたとしても、結局、こうは言えなかったに違いない。私は、自分の意見を即座に口にする構えと言うものができていなかった。同調することは即座にできるが、反論するには心がぐらつく。ぐらつかせているのは心理的なものである。何か言おうとして言えなかったことと言うのは記憶に残るものである。

 ロンドンの英語学校には行かなかったが、ダブリンで英語学校に通ったことがある。短い期間だったが学んだことは非常に大きかった。私にとって英語を学ぶということは、翻訳者や通訳者になることではなく、英語を道具として様々な国の人とコミュニケーションをとるということ、原書を読めるようになるということだ。私のクラスには、イタリア人、スペイン人、スイス人、フィンランド人、フランス人、ドイツ人、ブラジル人らがいた。英語という言語を一つ話すことができれば、これらの国々の言語を話せなくとも会話が可能になる。このことを実際に経験したことは大きかった。

 次に思ったのは、話すためには何についても自分の意見というものを持たなければならないということ。咄嗟であってもその場で何か思いつかなければならないのだ。先生に、どう思いますかと聞かれても、私は急には自分の意見というものが出て来ないことが多かった。

 たいていの日本人学生は文法が気になって話せないと言うが、私の場合、まず先に自分の意見を言うよりは、その前に他者の意見を確かめたいという心理が立ち塞がった。それは地下鉄の中で、ジョークのネタにされても黙っているのと同じことなのかも知れない。他者の意見の中に同調できるものを探すという態度である。その場で何か言う、それは日頃から鍛えられた一種の技術であり、一貫性にこだわり過ぎると自分の意見というものが言えなくなってしまう。「かつてはこういう考えを持っていたが、今は違う」という風に訂正してよいのではないか。変更は人の成長であることが多い。つまり一度言ったからといって、それに命を捧げる必要はない。

 アイルランドに住むようになって感じたことであるが、他者の意見を否定することは直ちにその他者個人を否定することではないということ。パ―ティーなどでは、会話を継続させるために、相手の意見に対して別の角度からの見方を示す、ということが絶えず行われていた。傍からは喧嘩のように見えることもあるが、それは議論が終われば蟠りはない。

 ある日、英語学校でこんな授業があった。数人が気球に乗っているという想定である。この気球にトラブルが起こり重量を減らさなければならなくなり、たった一人だけが気球に残ることができるというもの。残りの人は気球から飛び降りて死ななければならない。それで自分はこの世界にいかに必要な人間であるか、いかに自分がそのたった一人の助かるべき人間かを、生徒は一人一人述べなければならないのである。特定の有名な人に成り代わってもいいという。私は一番先に手を挙げてこう言った。「先生、私を気球から飛び降りさせてください」みんなが笑った。実際、自分こそが残るべき人間だとはゲームでも言えず、しかも英語で他者を納得させるというのは全く不可能に思えたのだ。
 学生たちは皆、楽しんで「自分こそは生き残るべき」と弁舌を振るい、私は大いに感心した。一人はこう言った。「僕はウォルト・ディズニーです。子どもたちに夢を与える者です。考えても見て下さい。ミッキーマウスやドナルド・ダックのいない世界を」
 あの日、生き残ったのはこの人かも知れない。

 私は、日本では英語の原書は一冊も読み終えたことがなかった。英語の勉強には自分の好きな分野の原書を読むのがいいと以前から聞いていて、全くそうに違いないと思っていた私は、文学と同じくらいかそれ以上に好きな探検記関係を読み漁ることにした。
 まず、イギリスのサンデータイムズ紙が主催した1968年から1969年にかけてのヨットレース、単独無寄港世界一周を最初に成し遂げたノックス・ジョンストンの‘A world of my own’ を読んだ。GPSもない時代のヨットレースだった。これを三カ月かけて読み終えた時の満足感を忘れることはできない。
 ジョンストン氏が、航海で直面する困難を一つ一つ克服し、ヨットを修理しながら三一二日かけた世界一周を一週間かそこらではなく、単語を調べ地図で航海者の居場所を確かめながら三カ月かけて読んだというのは、全く正しい読み方だった。次元は違っても耐久戦であった。彼のヨットは「スハイリ号」という名前である。船というものは女性名詞。「彼女」と記述されている。全くこの航海は「彼女」次第だった。主語が「彼女」や「私」や「私たち」になったりするので初めは戸惑ったが、ヨットがジョンストン氏と運命を共にする生きた人格として感じられた。

 ほんの数年前に、’A world on my own’ は英語版の出た翌年、一九七〇年に、『スハイリ号の孤独な冒険』として翻訳されていることが分かり、私はすぐ取り寄せて読んだ。二度目も大いに楽しんで読んだ。
 ジョンストンがイギリス最南端のファルマスを発ち、大西洋を南下してアフリカの喜望峰を通過し、インド洋と太平洋を横切り南アメリカのホーン岬を廻って七カ月後に再び大西洋に戻って来た時の気持ちをこう言っている。

 ホーン岬を回ったとき、わたしが最初に覚えた衝動はこのまま東へ走りつづけてやろうということだった。最悪の場所を通過しおえたという気持はすさまじいばかりだったから、この衝動は、南太平洋そのものに向かって『お前に勝ったぞ、これからそれを証明するためにもう一度回ってやる』とでもいわんばかりに、ばかにしてやる手だてだったのだろう。幸いにして、この局面は急速に過ぎた。寒い不快な天気がつづいて、たちまちまっとうな物の考え方にもどった。

(『スハイリ号の孤独な冒険― われ単独無寄港世界一周に成功!』R・ノックス・ジョンストン、高橋泰邦訳、草思社、1970年)

 このレースについてのドキュメンタリーを見ることがあった。レースには九人が参加し七人が棄権し、一人がヨットを残して消息を絶った。消息を絶ったクロウハーストはブラジル沖に留まって時間を潰し航海を偽ろうとしたが、良心との板挟みになり自殺したとも考えられている。ジョンストンはレースの賞金五千ポンドを全額、クロウハーストの遺族に寄付した。彼は勇気ばかりでなく人間として他者への思いやりに溢れていた。彼のような人間がいるということを知るとき、自分自身の生き方や考え方に影響を与えないということがありうるだろうか。私はこのような人と三カ月間、英語を通して付き合う幸運を持ち、勇気を分けてもらった。その後、台所に居ながらエヴェレストに登ったり、ナイルの源流を探したり、南極探検に出た。英語は冒険だった。

 語学を学ぶということは結局、人間の多様な世界、多様な発想を学ぶということに尽きると思う。好きな分野の原書を読む、これは最高の英語の学び方と思う。旅の好きな人は旅の本を、音楽の好きな人は作曲家の伝記などを。いつか自分の好きな分野のことを英語で話す機会が巡ってくるはずだ。英文の文学書に関しては、既に日本語の翻訳で読んだことのあるものを私は読んだ。筋を知っているので、知らない単語はある程度、推測に任せあまりこだわらず読み進めていくことができる。読むほどに、調べる必要のない単語と調べた方が良い単語の区別がつくようになってくる。

 英文学だけではなく、日本語で既に読んだことのあるフランス文学やドイツ、イタリア、ロシア文学を英語で読み、改めて、日本語で読んだ外国文学書の翻訳のすばらしさを感じた。日本の優れた外国文学の翻訳者に私は恩がある。そして多くの海外の書籍の翻訳は日本文化のすばらしさの一つだと信じる。
 さて、ダブリンには「ペラペラ」という英語学校が存在したことがある。東京で英語学校の経営に関わっていた方が始めたようだった。この学校は長く続かなかった。私自身、まだペラペラからは程遠いが、ペラペラになったとき、そのペラペラで何を言えるか、それが問題だといつも思っている。語学にはゴールがない。一生続く冒険である。世界と人間と自分自身の心を探る絶え間ない冒険である。

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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