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「第11回 もう一つの『嵐が丘』」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 ダブリンから車で真北に走ると、一時間ほどで北アイルランドとの国境を超えることになる。国境警備隊が駐在していたこともあるが、いまは知らないうちに国境を越えてしまう。北アイルランドはイギリス領であり、道路標識が変わるので、イギリス領に入ったと気づくのだ。制限速度60とあるのは60マイルのことでアイルランドなら60㎞である。この国境の近くにエミリー・ブロンテの父、パトリック・ブロンテの生まれ故郷、ラスフライランド(Rathfriland)がある。長年、『嵐が丘』を愛読してきた私は、エミリー・ブロンテとアイルランドの思いがけない結びつきを興味深く思って、ダブリンに住み始めてまもなくラスフライランドにある、ブロンテ・ホームランドのビジターセンターを訪れた。当時の館長は中年の女性で、「私はブロンテ家の血筋の者ではありませんが、血筋の者と結婚したのです」と言って自己紹介した。

 パトリック・ブロンテはアイルランドの守護聖人、聖パトリックの祝日、三月十七日に生まれたのでその名がつけられた。セントパトリックスデイはニューヨークで始まり、世界各地でアイルランド系の人達によって祝われている。東京でもパレ―ドがあるそうだ。パトリックは十人兄弟の長男として生まれたので、アイルランドでブロンテ家の血筋が続いているのは自然なことである。

 パトリック・ブロンテの両親は貧しい、文字の読み書きのできない小作人だったそうである。パトリックの父、ヒューは子どもが生まれて出生届をする時に、プロンティ(Prunty)ともブロンティ(Brunty)とも記入しているそうで、そのためにどちらが本当の姓なのか未だに分かっていない。いずれもアイルランド姓、オプロンティ(O’Pronntaigh )から派生したものである。
 エミリーの祖父、ヒューはその辺りではよく知られたストーリーテラーであったそうだ。パトリックは鍛冶屋として働き麻織り職人の見習いもしたが、独学し、十六歳で教区の学校の教師になった。その並外れた頭脳を教区の牧師に見込まれて推薦され、ケンブリッジ大学に奨学生として入学している。彼の元の苗字は、ケンブリッジの入学時にこのアイルランド姓の音がイギリス人には滑稽に響いたことで嘲笑され、それを契機にもう少し洗練された響きのあるBrontëに変えたということである(’The Brontë Myth’による)。Brontëにはギリシャ語で「雷」の意味がある。ブロンテ姓への変更に関していくつかの説があるが、大学ではラテン語とギリシャ語が必修科目だったことを考えると、パトリックが自分の姓に近いギリシャ語から取ったとしても不思議はない。

 彼はケンブリッジでは神学を学び、卒業後は牧師になりヨークシャー州で結婚し、六人の子の父となった。妻は六年の間に六人の子どもを出産していて、三十八歳という若さで亡くなっている。その時、エミリーは三歳にも達していなかった。
 長女と次女は牧師の子弟を教育する寄宿学校に入り、不衛生な環境の中、栄養失調になり、チフスに罹って十一歳と十歳で亡くなった。パトリックは子どもたちを自分で教育するようになった。
 パトリックは牧師の仕事の合間に、小説、随筆、詩などを手掛け著書もある。彼の三人の娘、シャーロット、エミリー、アンの三人姉妹が小説や詩を書いた。物語を語るアイルランド人祖父の才能との結びつきを考えないわけにはいかない。
 早くにそのことに注目した作家がいた。カㇵル・オバーン(Cathal O’Byrne)は ‘The Gaelic Source of the Brontë Genius’(「ブロンテ家の才能のケルト的な源」)という本を一九三三年に著わしている。残念ながら今は入手が困難な本だ。
 パトリックは、子どもたち全員に先立たれている。先にあげた長女と次女に続いて長男が三十一歳で、エミリーは三十歳で、末っ子のアンは二十九歳で亡くなった。小説家として最も成功し、唯一結婚したシャーロッテは結婚直後に三十八歳で亡くなった。結婚した相手がアイルランド出身だったこともあり、新婚旅行でアイルランドを訪れている。

『嵐が丘』はエミリーの亡くなる前年、彼女が二十九歳の時、エリス・ベルという男性名、あるいは中性的ペンネームで出版されている。一般には、ヴィクトリア朝の保守的な風潮の中で、女性の書いたものは公正に判断されないため、女性作家は男性名を用いたと言われている。出版社が女性作家に男性ペンネーム強要したケースもあったようだ。エミリーの場合は、ペンネームはむしろ、一人を好む性癖の彼女が世間の注目や好奇の目を避けるために、自ら選んだことのように私には思える。エミリーの三十年間の生涯の大半は牧師館で費やされた。彼女は死ぬ直前まで、家族の為にパンを焼き、家事の分担を全うすることに強くこだわったそうで、自己を律する禁欲的な性格が想像される。

 彼女の人生経験はかなり限られたものであった。彼女が親しく付き合った人間は少ない。田舎の牧師館で生涯の大半を過ごした若い女性が描いたのは、復讐、裏切り、嫉妬、暴力、取り憑かれたような愛憎劇だった。私はここで人間の持つ「想像力、創造」ということを考える。作家が登場人物を創造し、彼らに話をさせ、行動を起こさせるとき、それらはどれも作家にとっての経験と等しいものになると私は思う。日本語に「言霊」という言葉があるが、言葉がそれ自体で力を持つからである。「創造」はヨークシャーの牧師館という限界を容易に取り払う。

 英国の女流作家ヴァージニア・ウルフは『嵐が丘』をこう評している。

『嵐が丘』には「わたし」というものはいない。家庭教師も雇い主もいない。愛はあるがそれは男女の愛ではない。エミリーはもっと普遍的な概念に動かされている。彼女を創造へと駆り立てた衝動は、自分自身の苦しみや傷ではない。彼女は巨大な無秩序に裂けた世界を眺め、それを一冊の本にまとめる力を自分の中に感じたのだ。その巨大な野望は、この小説を通して感じられる。……人間性の幻影が根源的にもつ力、そしてそれらを偉大な存在へと引き上げるこの暗示こそが、他の小説の中でこの本に大きな地位を与えているのだ。

Virginia Woolf  ‘The Common Reader: Volume 1’ Vintage Classics 2003

 ウルフが「家庭教師も雇い主もいない」と書いているのは、エミリーの姉、シャーロットが書いた小説『ジェーン・エア』『ヴィレット』『教授』など、どれも、彼女が家庭教師として働いた経験が反映されているからである。実際、この時代の中流家庭の女性の仕事はかなり限られていて、住み込みの家庭教師や寄宿学校の教師であった。ウルフは、エミリーの『嵐が丘』は作家が自分の経験に依存しないで書いていると言っているのだ。それは卓見であるように思われる。エミリーの祖父、ヒューが知られたストーリーテラーであったことを思い出したい。

 アイルランドのストーリーテラーの話は話し手の人生経験には関係がない。言葉そのものが与える即興の力によるものである。創造力である。一つの話には、いくつかの違ったバーションが存在するのは、ストーリーテラーが暗記したものを繰り返しているのではなく即興で創造しているからである。話し手は言葉と言霊との媒介者となっているのだ。エミリーは祖父のストーリーテラーとしての能力を受け継いだのではないだろうか。現代人には二%のネアンデルタール人のDNAを持っているそうである。彼らが絶滅した四万年まで遡らないとしても、人間の過去は創造力を通して語り継がれていく。言霊というのも過去の人間が言葉に託した意識だろう。
 『嵐が丘』の舞台となったというヨークシャーのムーアと呼ばれる荒れ地の風景はアイルランドでも見られる。私の家から車に乗って二十分で辿り着く隣県、ウイックローとの境界の荒地は、八月の終わりには、見渡す限り紫色やピンクのヒースの花で覆われる。それはヒースクリフとキャサリン、二人でありながら一つの魂であった、を生みだした風景であり、私がそこに想像でアイルンド人の祖父母と父を持つエミリーを立たせても、充分許されるだろう。

 サマーセット・モームは『嵐が丘』を「世界の十大小説」に含んでいる。

『嵐が丘』は類まれな驚くべき作品である。……同時代の他の小説とは、いささかの関係も持っていない。出来栄えはひじょうに悪い。だが、ひじょうにすぐれてもいる。醜く忌まわしい。だが、同時に美しくもある。

(サマセット・モーム、西川正身訳『世界の十大小説』岩波新書、1960年)

 エミリーの死後、彼女の机の抽斗から二つの新聞の切り抜きが発見された。それは『嵐が丘』の書評だった。その書評にはいいことは何も書いてなかったそうである。

参考文献
‘The Brontë Myth’ Lucasta Miller, Vintage 2002  
 ‘The Common Reader’ Volume1, Virginia Woolf, Vintage Classics 2003
Newsweek 日本語版 2018年9月25日 ネアンデルタール人のDNA(https://www.newsweekjapan.jp/stories/technology/2018/09/2dna.php

津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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