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1.122024
「第10回 ダブリン、クラクフ、ガザ」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
ダブリンから西へ、イギリス、北海、オランダ、ドイツの上空を飛んでポーランドのクラクフまでかっきり三時間の飛行だった。離陸前に機長が「これはクラクフ行きです。間違って乗った方は、今すぐ降りて下さい」と言って乗客を笑わせた。飛行機嫌いの私の気分は人々の笑い声をきいて楽になった。
ポーランドは七つの国と国境を分け合っている。東の隣国、ウクライナは戦争中である。十万のウクライナ人が、アイルランドに避難し、仮生活のまま、新年を迎えたはずだ。クラクフへ行ったのは、アウシュヴィッツ記念博物館専属のガイドを予約してもらえる送迎ツアーがそこからいくつも出ているためで、私もそのツアーを申し込んでいた。アウシュヴィッツは強制収容所の名前だと思っていた時期もあるが、実は中世から続いている村の名前であり、名前は何度か変わり、アウシュヴィッツというのはドイツ占領下でドイツ語化された呼び名である。今はオシフィエンチム(Oswiecim)に戻っている。
他の国からの旅行者と一緒に九人乗りのバンに乗り込み、オシフィエンチムへ向かう。運転手のアーサーが興味深い話をしてくれた。ドイツ占領時、ポーランドには三百万のユダヤ人が居たそうだが生き残ったのは五%ということ、またオシフィエンチムの住民(六〇%がユダヤ人だったという)は、すべて退去を命じられ空になった家に、SS隊員やその家族が住んだという。
クラクフ行きを決めてから、私はN先生のことを思い出していた。小学校の時、教育実習のN先生が『アンネの日記』を私に下さった。この本の全漢字に先生が鉛筆で平仮名をふっていた。挟まれていた手紙には「きっとあなたが知っている漢字にもフリガナがついていますが、怒らないでください」とあった。先生が全漢字にフリガナをつけるのに費やした時間を思って、私は子どもながらに戸惑い、重荷に感じたのを覚えている。その戸惑いの為に先生の名を忘れることがなかった。N先生とは二度と会うことはなかった。
ほんの数年前、私は、ふと思いついてインターネットで先生の名をタイプしてみた。すると全く不思議としか思えないことが起こった。N先生の葬儀の告知が画面に現われたのである。A市の小学校で校長を務め退職したということが分かった。私が日記を書き始めたのはN先生から頂いた『アンネの日記』を読んだことによる。またこの本によって、強制収容所の存在を知ることにもなった。
自分もそこへ行ってみなければと思ったのは、児童書作家の早乙女勝元が子ども三人を連れ家族でドイツとポーランドの強制収容所へ行った時のことを書いた『わが子と訪ねた死者の森収容所』(中公新書、一九八三年)を読んだ時である。子どもたちに人間の最も残虐な面を見せるということに衝撃を受けた。子どもたちは何を見、何を感じたのか。先日、調べてみると、アウシュヴィッツへ行った時小学生だった愛さんは、二〇二二年に亡くなった早乙女氏のメモや作品を目下、映像作品として編集しているという。
「父は結論ありきの『平和』にとどまっているわけではなかった。常に別の戦争体験を取り入れながら、自分の平和観を繰り返し問い直していた」
「平和へ鬼気迫る父、反発したけど 故・早乙女勝元さんの娘、歩みを映像化」
朝日新聞デジタル2023年3月10日
ナチの強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』は、私に大きな影響を与えた書物である。私は、『夜と霧』の中の、あるページに助けを求めて戻ることがしばしばあった。一九四五年の四月にアメリカ軍によって解放、救出されたフランクルはその翌年にこの本を出版した。僅か九日間で書き上げたという。つまり、彼は強制収容所にいる間にこの本を頭の中でほぼ書き上げてしまっていたのである。驚きと共に、「発想の転換」ということで私に深い感銘を与えたのは次の箇所である。
私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な強迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりしたクッションの椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。……そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだった。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれるのであった。————このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。
『フランクル著作集1 夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、1961年
まさに、「知ることは超えること」(本書、出版社の序から)である。
フランクルのこの「トリック」は人を強くすると私は思う。見つめることの強さを私はこの箇所から学んだ。このトリックを私も使ったことがある。本書のドイツ語の原題は「ある心理学者の強制収容所体験」という学術レポートのような題名である。英語版の’Man’s Search for Meaning’ (生きる意味を求めて)の題名も特別に人目を引くものではない。一方、邦題の「夜と霧」は一九五六年に公開された、アラン・レネ監督によるジェノサイド告発のドキュメンタリー「夜と霧」から取ったというのが通説である。この題名には不穏、不吉な印象があり、人目を引く。
一九四一年、ヒットラーが「夜と霧」作戦という命令を出し、ユダヤ人ばかりではなく、ナチスに敵対する者を治安維持という名目で連れ去るようになった。ヒットラーが使ったこのフレイズは彼が宗教的にまで心酔していたワーグナーの、オペラ「ラインの黄金」中、呪文として歌われる「夜と霧になれ、誰の目にも映らないように」から取られている。闇に乗じて殺せ、と言う意味ではない。夜と霧そのものになれという意味である。こうして六百万人が夜と霧になった。
ヒットラーのユダヤ人撲滅の思想がワーグナーに発しているという説は興味深い。ワーグナー自身はナチの台頭以前に死亡しているが、音楽理論家でもあった彼は「音楽におけるユダヤ性」という論文を表し、ユダヤ人嫌悪をあからさまにしている。ではなぜ、ワーグナーはユダヤ人を嫌ったのであろう。私が知っていることで言えば、ワーグナーは、彼の貧しい修業時代、すでに国際的名声を得ていたユダヤ系ドイツ人作曲家、マイアベーアに職のことで助力を求めなければならなかったというエピソードがある。誇り高いワーグナーにとって、それは屈辱、屈服であったかもしれない。マイアベーアは銀行家であった父の遺産を相続し、生活と創作の間で苦しむことがなかった。ワーグナーはそれを羨んだかもしれない。ワーグナー作品の演奏は、イスラエルでは法律で禁止されている。
アウシュヴィッツ記念博物館はすごい人だかりだった。入り口では、パスポートや運転免許証などの写真付きの身分証明書の提示が求められ、ハンドバッグは空港のセキュリティチェックのようにエックス線を通される。日本語を含む、十七言語の専属ガイドがいるそうだ。私は英語ガイドのグループに入った。平日でも見学者は多く、人の流れに沿ってしかも自分のガイドを見失わないように歩かなければならない。一か所に長く留まる時間はない。見学者の流れの中で、私が考えていたのは、単にその場所で殺されたユダヤ人や同性愛者や、政治犯たちだけのことではない。もし、私がアフリカから連れ出された奴隷やアメリカで殺されたインディアンたちや広島と長崎の原爆の被害者等々、人類の歴史において無意味に殺された人間たちの無数の亡霊たちと共に歩かないならば、このアウシュヴィッツ訪問にも意味がないと思われた。
一日に六千人を殺害することができたというガス室のドアには直径十センチほどの覗き窓が付いていた。SS隊員は皆、背が高いのだろう。その覗き穴に私の背丈では届かなかった。私はジャンプすることも考え立ち止まったが、そうしているうちに自分のガイドを見失いそうになった。覗き窓から、重なりあう死体を見たSS隊員の目は果たしてその光景を忘れることができたのだろうか。人間の残酷さには際限がない。戦争が始まると犯罪と非犯罪、善と悪といった区別が消滅する。まるでそういうものが初めからなかったかのように。すべては「国家行為」という名目で許される。
ダブリンに戻って来た日、イスラエルに停戦を求めるデモに参加した。つい三日前にアウシュヴィッツ記念博物館で大勢の見学者に混じって歩いたその同じ私の足が、今度はパレスチナの旗の翻るデモ行進の中に混じって歩いていた。相次いだこの二つの「歩き」がもたらした感情は奇妙なものだった。強制収容所に対して長い間思いつめてきたことがはぐらかされた。なぜなら、ガザがもう一つのアウシュビッツだからだ。
人間はなぜ、人を殺してはいけないということを初めから知って生まれて来ないのだろう。赤子が乳を吸うことを知って生まれて来るように。この当たり前のことを、生まれた後で学ばなければならないのは生物的な理由があるのだろうか。皆が、殺すことはいけないと知って生まれてきたら……新しい年の初めに、私はそんなことを考えている。
参考文献
ワーグナー生誕百年、論争の的であり続けた音楽家
https://www.afpbb.com/articles/-/2944936
The Effect of Richard Wagner’s music and Belief on Hitler’s Ideology
Carolyn S.Ticker 2016
https://digitalcommons.cedarville.edu/cgi/viewcontent.cgi?referer=&httpsredir=1&article=1062&context=musicalofferings
「ワーグナーとユダヤ人」『マイスタージンガー』で考える学びの広場
https://meistersingersympo.wixsite.com/website/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E5%95%8F%E9%A1%8C
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。