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「第17回 小学校」ケアリング・ストーリー

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 子どもの頃はよかった、とか、若い頃はよかったとか、おっしゃる方が少なくないのだが、ちっともそう思っていない。子どもの頃は、全然、楽しくなかった。何がそうさせたのか知らない。人のせいでも時代のせいでもないと思う。徹底的に不機嫌な子どもだった。写真を見ても笑っている顔がほとんど、ない。特に一人で写っている写真は、見事に全て仏頂面である。機嫌が悪い。憂鬱であった。この世はひどいところのように見えた。
 親の名誉のために言うけど、親のせいではない。親は普通の両親で、学歴も大したお金もなかったけれど、働いて、できうる限りのことをして、けんめいに初めての子どもである私を慈しんで育ててくれた。衣食住で不自由をしたことも、惨めな思いをしたことも何もないのに、それでも不機嫌であった。
 2歳くらいの頃、小児喘息を発症した。発症したらしい。つまりは2歳の時のことは覚えていない。喘息なんか見たこともなかった母や祖母は、本当に仰天して、この子は死ぬのかと思ったらしい。幸い、死なないで還暦も過ぎた。ネコやラクダの毛布や、風邪をひいたことなどを引き金にして、喘息の発作が起きるのである。8歳くらいまで続いたので、苦しかったことも覚えている。息ができず、苦しい。でもしかたない。お医者さんがくれた、メジヘラーイソという吸入剤をシュッとすると少し楽になった。この子は体が弱い子である、と周囲も思い、本人もそう思った。不機嫌で体の弱い子。全然、元気に外で遊んだり、しなかった。ずっと家にいた。
 そうは言っても、1950年代後半生まれの私の世代は、ほとんどが幼稚園というところに通っているのであって、私も幼稚園に一年だけ行った。仏教系の幼稚園で、送迎バスがついていた。毎朝送迎バスが来ると、つーっと涙を流していたそうだ。行きたくなかったのだ。当然。なぜ行かねばならないのだ、幼稚園なんか。お弁当も作ってもらっていたが、食べられなかったらしく、いつも先生に、もうちょっと食べましょう、とか言われていたけど、食べたくない。終始不機嫌で、無口で、無愛想であった。
 幼稚園の授業参観に行って母が見ていると、私は男の子に押されると、押されたままの姿勢になって、起き上がりもしないで、じっとしていたのだそうである。反撃しなくてもいいから、せめて、起き上がってくれよ、と、母は思っていたそうである。私が母でも、そう思うであろう。
 今もよく覚えているのだが「将来の夢はなんですか、大きくなったら何になりたいですか」と卒園の前に聞かれて、無性に腹が立ち、先生に不機嫌に「幼稚園の先生」と、おうむ返しに言ったことを覚えている。ちっともなりたくなんかなかったし、将来など、思い描けるはずもなかった。不機嫌な6歳の私に。
 小学校に入学したが、さらに、行きたくなかった。不機嫌さは、いや増すばかり。小学校の教室に10分と座っていられない。トイレに行きたいとか気分が悪いとか言っては教室を出て行った。最初の頃は教室を出て行ってトイレとか保健室とか行っていた気もするのだが、目的はそこにはない。教室にいられないんだから、出て行ってるだけなのである。校舎と運動場の間の踊り場に呆然と立っていたりしたことを覚えている。ああ、いやだ、ここ。母親と一緒に、相談所みたいなところに連れて行かれたことだけは覚えているが、何を話したのかも何を言われたのかも覚えていない。
 不機嫌さはそのままに、それでも学校に行かないで済むような時代じゃなかったので、学校は、行った。そうこうしているうちに、学校が火事になった。漏電だったそうだが、1年生の教室も燃えて、学校に置いていた色とりどりのそろばんみたいなものとか、座布団とか、全部燃えた。学校が燃えたんだから、行かなくてもいいんじゃないか、と思っていたけれど、燃えても学校は続いていた。やれやれ。
 小学校って最悪ではないだろうか。やりたくもないことを次から次へとやらされて。50分ごとに毎回違うことをやらねばならなくて、鉄棒とか跳び箱とか楽しそうにやっている同級生は異星人に見えた。体育なんか大嫌い、運動会など、中止になればいいといつも思っていたし、算数も嫌い、先生も嫌い、何もかも嫌い。本は好きだが、国語の時間は嫌い。「詩」の時間で、詩を書きなさい、と言われたので、「詩を書けと言われて」という詩を書いた。詩は心のほとばしりを表現するもので、書けと言われて書けるものではなかろうが、みたいな詩。かわいくない、不機嫌な生徒である。
 思えば、担任してくれた先生はみんないい人だったのに。とりわけ小学校5、6年時の担任は、神戸大学文学部を出てすぐ赴任した若い女性で、のち、詩人になった方で、それは真摯に私に接してくださって、源氏物語やら徒然草やら啓蒙思想やらそんなことを教えてくれた人でもあった。実は大変な影響を受けていて、今も連絡をとるのだが、当時の私は「先生、嫌い」と思っていた。やれやれ。
 とにかく、ノーをいうこともできず、毎日くる日もくる日も、どうでもいいこと(のように本人には思われていた)を50分ごとに、手を替え品を替えやらねばならない小学校は最悪のところであり、この不機嫌さと気分の悪さを表現して抵抗することもできない年齢というのは、実につまらないものだと思っていた。外に出て遊ぶのも、学校も嫌いだから、ひたすら活字に耽溺して、本の世界、祈りの世界に漂っていた。
 中学校に入り、恋の一つもして、自分の考えを人に言ってもいい、ということもわかるようになり、人を説得することもできるんだ、ということもわかるようになって、不機嫌さは少しずつ、和らいで行った。幼稚園より、小学校がマシ、小学校より、中学校がマシだった。高校に入ったら、だいぶ、やりたくないことはやらなくてよくなった。授業も選択できる幅も増えたし、どうでもいい体育とか、やらなくてもよくなった。高校っていいところだ。相変わらず大して愛想も良くなくて、図書館にこもっていたが、歳をとっていくことは良いことのように思えた。だんだん、自分の思うようになるんだから。
 そこから、大学を経て、自分で稼げるようになって、人の言うことを聞かなくてもよくなって、というか、人の言うことをいつでも聞いていなかったが、それが大っぴらに認められるようになって、人生はだんだん楽になり、私の機嫌も良くなっていった。
 ああ、いいな、歳を重ねるって。だんだん、自由になるじゃないか。だんだん、自分の思い通りになるじゃないか。子どもの頃は、なんて大変だったんだろう。若い頃も大変だった。全然、戻りたくない。人生のどの時点にも。今が一番いい。と、つい思ってしまう、還暦過ぎた立派な「ばあさん」である。
 何が言いたいのかというと、今、小学校で学校に行けなくなる人の気持ちは、痛いほどわかる、ということなのである。行きたくないよな、あんなところ。何度も書くけど、50分ごとに次々、どうでもいいこと(と私は思っていた)を、くるくると、ゆっくり考える暇もなく、やらされるなんて、地獄ですか? ここ? 最悪じゃないですか。
 Leave me alone. 一人にしてください。一人で考えさせてください。一人で本読ませてください。勝手なことさせてください。なんでこんなところ来ないといけないの、と私はずっと思っていたからである。サドベリースクールを訪問して、「何も時間割がない」学校があるのだと知って、ああ、こんなところなら、あんなに不機嫌じゃなく過ごせたかしら、と思うのであった。不登校のあなた、本だけは読んでね。
Educate yourself.

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第9回  子どもに選ばせる』はこちら

「第9回 子どもに選ばせる」ケアリング・ストーリー

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