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「第10回 七回忌」ケアリング・ストーリー

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 仏教の熱心な信徒というわけではないが、家には仏壇があり、お盆にはお上人さまにきていただいてお参りをしてもらっている。
 常々、人が亡くなった後の仏教の法要の時期、というのは、よくできているな、と思っていた。初七日、四十九日、百日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌……とつづき、五十回忌を弔いあげとする。亡くなったことへの動揺は四十九日あたりで少し落ち着いてきて、満中陰の志を、心を寄せてくださった方に送る、という余裕も出てくる。
 一周忌の頃には、その人のいない暮らしもなんとか成り立たせていくことを覚え始めている。まる2年の三回忌の頃は、まだ、喪失感も大きいのだが、七回忌を迎える頃になると、その人のことを忘れているわけではないのだが、この世での存在感、というものが薄くなっている。生活の手ざわりや、その人との生活に関わる匂いや、暮らしていく上で必須のあれこれとした細かな交わりについて、うまく思い出せなくなっている。そう言った具体性が薄くなっていくと、かえって、存在の根本に関わるような感覚は強くなったりする。
 この初夏、主人の七回忌を迎えた。この人が私にもたらしてくれたものは、誠に限りないのであるが、この国の医療保険と介護保険への信頼、という感覚も、主人からの贈り物のように感じている。中咽頭ガンの頸部リンパ節転移で亡くなったそのプロセスは、私に制度への信頼を残してくれた。
 何をのんきな、甘いことを、と言われるかもしれない。医療保険制度も介護保険制度もまだまだ足りないことばかりで批判しなければならないことばかりだ、と言われそうである。新型コロナパンデミックで、問題がさらに露呈している、とも言われている。実際、私も問題はいろいろあるとは思っている。しかし問題がある、ということは、信頼できない、ということではない。信頼できるものに作っていけると思うから、問題を指摘していくこともできるのだ。

 留学すると当初、その留学先のことはなんでもバラ色に見えてしまうものである。実際、留学の効用の一つは、そうやって他の国の制度を見て、ああ、これがいいな、この方がいいな、ということを学び、自分自身、ひいては、自らの住まう地域の将来に役に立てていくことで、それ     は明治以来の日本の留学の伝統であったのだと思う。
 20代の最後の頃にイギリスに留学し、その後、しばらくイギリスで仕事もすることになるのだが、「ゆりかごから墓場まで」と言われていたイギリスの医療や福祉の制度は興味深かった。
 特にこれらの制度がバラ色に見えたわけではないのだが、感心したのは、ちょっと変な言い方だけど、周囲のイギリス人が、日本人の感覚と比べると、大した貯金をしていないらしいことだった。まあ、主に付き合っていた大学関係者がみんな大して貯金をしていない人たちばかりだっただけ、と言えるかもしれないのだが。医療や老後のことは基本的にお金はいらないのだから、という基本的態度があって、なんだかまぶしかった。家を買ったり子どもを育てたり日々の生活を立てていったりする他に、「いざという時」や「老後」のために、お金は貯めなければならないものだ、と深く信じていたからである。
 だからと言って、イギリスの友人たちがみんなイギリスのN H S(National Health Services)に文句がなかったかというと、そんなことはない。G P(General Practitioner:家庭医)によるプライマリーケアは充実しているが、検査や手術など病院での対応が必要になってくると、日本のようにすぐに対応してもらえるわけではなく、N H Sの病院に空きが出るまで長く待たなければならない。そのことへの不満は常に言われていたし、今も続いている。
 つい先日、イギリスの留学先の同い年の同級生、ヴァレリー(Valerie Curtis)が昨年秋に亡くなっていたことを知った(注1)。最初に会ったのは34年前、お互い29歳くらいの時のことで、ロンドン大学衛生熱帯医学校の修士課程の最初に行われる宿泊研修で同室になって、ツインベッドの部屋をシェアした。さて、就寝時間、となった時、さっさと服を全部脱いでしまって、まったくの裸で、おやすみなさい、と隣のベッドにはいるヴァレリーに、大変驚いた。「おばあちゃんから夜寝るときはパンツを履かない方がいいのよ、って言われているから」という心に残る名言を残した人でもあった。
 衛生工学の専門家で、途上国のwater and sanitation、つまりは「飲水とトイレ」のことを専門にして、エチオピア、ケニア、ウガンダやブルキナファソを始め多くの国でフィールドワークを行い、ロンドン大学衛生熱帯医学校のプロフェッサーになっていた。行動科学などにも興味を移し、ネット上でT E Dのスピーチも残している(注2)。数年前にガンを発症し、彼女が必要とする検査や手術を何カ月も待たねばならなかったことから、亡くなる直前まで、イギリスのNHSの緊縮財政について批判を重ねていたことを知った。62歳は、早すぎる死で残念でならない。
 イギリスの医療と福祉の制度はことほどさように批判されるところも多いし、実際、問題も多いのだが、それでも、みんな、「将来そのためにお金を貯めなければならない」と思っていないことを知ったのは、留学時代の鮮烈な印象であった。問題はあるものの、このシステムは信頼されているのだ、と思った。

 後発の先進国である日本は、イギリスのようにはいかない、公的な医療保険だけではどうにもならない、やっぱりいざという時の病気と老後の福祉のためにお金を貯めておかなければならない、と長く思っていた。その後、2000年には介護保険制度ができるが、その考えはあまり変わっていなかったのだ。
 2015年に中咽頭ガンで亡くなった夫は、団塊の世代の真ん中の生まれで、学生時代にはヘルメットをかぶり、権力と対峙しようとしていた人で、卒業後にもその姿勢を貫いて、会社に入るも組合活動に専念していたような人だったから、私的な医療保険とか、入院保険とか、がん保険とか生命保険とか、そういう類のものは彼にとって「プチブル」(死語であろう、すでに)的で、加入することをよしとしていなかった。「公的な医療保険と介護保険の世話にしか、ならない」と明言し、それを貫いた。訪問診療と訪問看護、訪問介護を受けながら、家で死んだのだが、その「死に様」は、私に、ああ、日本も公的な医療保険と介護保険だけで大丈夫だ、ということを教えてくれたのだ。
 医療保険については、個人負担は3割で、イギリスのようにまったく無料というわけではないが、高額医療支給制度を使うことができて、大きな手術や長期入院や、毎日のような在宅診療などを受けて医療費が高額になると、上限以上払わなくてもよくなる。
 夫がガンになる前に、脳出血を起こして大きな手術をした時も、ガンの末期で頻繁に在宅診療を受けていた時も、当時、高額療養費の払い戻しの制度のお世話になれば、月5万円程度で済んだ。介護保険に関しては、当時は最も介護が必要とされる「要介護5」のレベルであっても、自己負担分は3万円を越えることはなかった。介護保険について私たちはどういうことを使えるのか、よくわからないのだが、そこはケアマネージャーさんがついてくれて、あれこれ、使える制度についてアドバイスをくださるのである。医療保険と介護保険で一番お金がかかるときで月8万円、ということがわかったのは、私にとってはとてもありがたいことだった。もちろん月8万円など高すぎて払えない、と思われる向きもあるかと思うし、各家庭の経済状況により、上限も異なるのだが、それなりに真面目に働いてきていればなんとかなる範囲、に私には見えた。
 もちろんどんな死に方をするかは、誰にもわからない。しかし夫はその死をもって、私がイギリス留学で感じた「医療と福祉のためにそんなにお金を貯める必要はない」段階に、この国も近づきつつあることを教えてくれた。贅沢をしなければ、この国の制度に頼って死んでいけそうだ、ということがわかったのは、大きな贈り物をいただいたように、今も思っており、これからの人生に安心を添えてくれたのである。

(注1)Susan Michie “Valerie Curtis Obituary -Behavioural scientist devoted to championing hygiene and sanitation”11 Nov. 2020 The Guradan.
https://www.theguardian.com/society/2020/nov/11/valerie-curtis-obituary
2021年8月13日閲覧

(注2)Val CurtisWho’s in control: the power of settings” TEDxLSHTM 2015/11/10
https://www.youtube.com/watch?v=xuJY5A5gOS4
2021年8月13日閲覧


三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第7回  望む未来』はこちら

「第7回 望む未来」ケアリング・ストーリー

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