最新記事

「第6回 スペイン風邪」ケアリング・ストーリー

 山川捨松(のちの大山捨松)のことが、とても気になっていた。今も気になっていて、彼女に関する資料をあれこれ読んでいる。
 1860年に生まれた山川捨松は、1871年、11歳の時、日本初の五名の女子留学生の一人として、幼い津田梅子、永井繁子(のち瓜生繁子)らとともにアメリカに渡った女性である。津田梅子は長じて、私の現在の勤め先である津田塾大学の前身、女子英学塾を1900年に創立する。いうまでもなく日本の女子近代教育の先頭に立った女性である。新一万円札の肖像が渋沢栄一になる2024年、津田梅子は新五千円札の肖像として、「お札になる」予定なので、ニュースで聞いた方も少なくないかもしれない。永井繁子はアメリカでピアノを専攻し、東京芸術大学の母体の一つであった東京音楽学校などで教鞭をとり、日本の音楽教育をリードした一人となった。
 これらの日本最初の女子留学生であるが、なかなか応募者が集まらず、結局応募した5人はすべて、「維新の負け組」つまりは旧幕臣や賊軍の娘たちであったという。変わっていく世の中、「負け組」となってしまったからこそ、娘たちに新しい時代を託した、ともいえようか。5人のうちふたりはすでに15歳前後であり、アメリカ生活に適応が難しく、すぐに帰国しているが、年少であった捨松、繁子、梅子は10年余りにおよぶ留学を全うすることとなる。捨松は会津藩の家老の家の娘であり、8歳の頃の戊辰戦争では鶴ヶ城に籠城もしている。ティーンエイジャーに至る前からあまりにもドラマティックな人生がはじまっていた女性であるといえよう。
 捨松は、アメリカで名門ヴァッサー・カレッジに入学し、優秀な成績をおさめ、卒業時には総代の一人として講演している。日本女性として初めてアメリカの大学を卒業したことになる。ヴァッサーを卒業後、さらにアメリカでの滞在を延長して、コネティカット看護婦養成学校で学び、こちらも日本人として初めて、アメリカで看護婦の資格を得ている。
 帰国後、のち陸軍大臣となる大山巌の後妻となるも、世は鹿鳴館時代、捨松はその語学力とみごとな夜会服姿で「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。鹿鳴館を舞台に、こちらもおそらくは日本初のチャリティーを催し、資金集めをして、日本最初の看護学校となる、現在の慈恵看護学校の設立の基礎を作っている。津田梅子の設立した女子英学塾にも関わり、陰になり日向になりして、梅子を支えた。プライベートでも、先妻の3人の子を含め6人の子どもを育て、大山巌ともその夫婦仲の良さが知られていた。18歳年上である夫を1916年に看取って3年後の1919年、捨松は58歳で、当時流行していた「スペイン風邪」で、亡くなっている。

 「スペイン風邪」によるパンデミックは1918年から1920年にかけて、世界中で多くの死者を出した。日本では、インフルエンザを「流行性感冒」と訳してきたことにより「風邪」と言われ、今でもしょっちゅう「スペイン風邪」といわれるが、実際には、「スペイン・インフルエンザ」が正しい。およそ100年前のことだ。
 世界は1918年3月より第1波、秋より第2波、1919年初頭より第3波、の流行に見舞われる。死亡者は世界全体で2000〜4000万と推定され、日本では当時の“内地”だけでも、歴史人口学者速水融の計算では50万人近くが亡くなったのではないか、と言われている。当時の世界人口は20億足らず、日本の“内地”人口は5500万であるから、人口の約1〜2パーセントが死亡したともいえるのだ。同じ率で死亡者が出るとすると、現在では世界で死亡者は6000万から1億2000万、日本で120万ということになるから、大変なパンデミックであったと速水は書く (注1)。
 しかし、これだけ甚大に人的損失をもたらしたのに、スペイン・インフルエンザは忘れ去られてしまい、日本でも数本の論文以外、ほとんど本もなかったという。それは、日本のみでなく、世界でも同様で、最もよく知られるスペイン・インフルエンザに関する本は、アメリカの歴史家クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ  忘れられたパンデミック』(アメリカで1976年に出版した著作を1989年に再刊)(注2) で、ここから議論も始まるが、著者は「忘れられた」(”forgotten”)の一語をタイトルに入れなければならなかった。2020年からの新型コロナパンデミックで、このスペイン・インフルエンザのことも話題に上るようになり、現在は、上記の速水やクロスビーの本は大変よく読まれているようである。

 捨松は、このスペイン・インフルエンザのパンデミックの最中に、まさに「スペイン風邪」で亡くなった。最後の様子を捨松の義理の娘であった大山武子が「母の晩年」と題して書き残している (注3)。女中たちも次々に「流感」で倒れ、人手の足りない中、自宅療養していた捨松であるが、ようやく看護婦も日赤から派遣され、一安心していたところに、大学病院の博士が寸暇をさいて往診、“ワクチン注射”をしたところ、捨松は突然寒いと言ってぶるぶると震えはじめ、たちまち顔色が変わって息が止まってしまった、というのである。もともとアレルギー体質であったらしく、家族は“ワクチン注射”によるアレルギーだったのだろう、と残念がった、と、記してある。
 このパンデミックがインフルエンザ・ウィルスによるもの、ということ自体、後世にわかったことだから、この時期、捨松が打たれた注射は“ワクチン”ではなく、おそらくなんらかの治療薬であったのではないかと思うが、どちらにせよ、激しいアナフィラキシー・ショックを起こして亡くなった、ということか。
 前述のように捨松は、自らが日本最初の看護学校創立に関わっており、元陸軍大臣の妻であり、当時東大総長であった山川健次郎の実の妹である。自宅で療養していたとはいえ、当時、最高の治療を受けられる立場にあった女性であろうと思う。そういう女性であっても、このような治療による副作用死、とでもいうべき亡くなり方を避けることはできなかった、ということであり、そういう亡くなりかたであっても、歴史的には「スペイン風邪で亡くなった」と記されることになる、ということだ。
 ドイツバイエル社がアセチルサリチル酸の合成に成功し、今や世界で一番有名な薬となったアスピリンを発表したのが1897年、パスツールがワクチンの予防接種、という方法を開発し狂犬病ワクチンを開発したのが1885年、コッホがコレラ菌を発見したのが1883年。だからスペイン・インルフエンザのパンデミックが起こった時代は、人類が治療薬やワクチンに目覚めていった時代と重なる。
 当時、スペイン・インフルエンザの治療に大量のアスピリンが使われていたことは、よく知られているが、現在はライ症候群発症にリスクがあることからインフルエンザの解熱剤としてのアスピリン投与は、とりわけ19歳以下では禁忌とされている国が多い。現在、使用できない薬が、当時は使われていた、ということは、歴史を見れば、めずらしいことではないのである。
 新型コロナパンデミックのさなか、スペイン風邪の治療で亡くなった捨松のことが、さらに気になって仕方がないのは、私たちが病気そのものによる死と同時に、治療による死からも免れ得ないことを、歴史的に知っているからにほかならない。

(注1) 速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年。
(注2) Alfred W. Crosby, America’s Forgotten Pandemic: The Influenza of 1918, Cambridge University Press, 1989. (Epidemic and Peace, 1918, Greenwood Press, 1976の再刊)
日本語訳は『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004年)。
(注3) 大山武子「母の晩年(上)」、『好故』創刊号(会津武家屋敷文化財管理室編、1983年)所収。


三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第4回  最後まで自分の意思で過ごすには』はこちら

「第5回 スタイルを作る」ケアリング・ストーリー

関連記事

ページ上部へ戻る