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「第2回 ロングショットの喜劇」ケアリング・ストーリー

 あほちゃうか、ほんまに……。なにやってんねん、おとうさん……。
 嘆息には、関西弁がよく似合う。というか、もともと関西で育ったので、ネイティブ言語は関西弁なのである。関西を離れて住んだ期間の方がもう、人生でずっと長くなっているというのに、関西的メンタリティーと関西弁思考は、こと、実家の家族のことを語ろうとすると、自然とわきあがってくる。
 関西で育つと、あれこれ、鍛えられる。オチのない話はしてはいけない。絶対偉そうにしてはいけない。偉そうにする人間が一番アホである。自分のことは、笑えないといけない……。関西的エトスは実は東京よりずっとインターナショナルであり、世界に通じるほどのコミュニケーション能力の高さが鍛えられるのだ。実際に外国語ができるかどうか、ということは別にして、コミュニケーション能力は高くなる……。
 ともあれ、父が兵庫県西宮出身の人だった。三砂、という名字自体が西宮の姓であるらしい。少なくともそう聞いていた。九州の方にもあるというが、西宮の戎神社総本山である西宮神社ゆかりの名前である、と父からは聞いていた。たしかに、育った家の近所にも何軒か三砂さん、という家があり、市内では見かけることのあった名前だったが、西宮を離れてからあまり目にすることがなくなった。単純な漢字なのに、なかなか「みさご」と呼んでもらえない名前である。いったいどこまで西宮神社と関連があるのか、いったいそれが本当なのか、いまとなってはよくわからない。そういうことを私に語れる唯一の存在だった父が亡くなり、父の配偶者だった母が、蛇蝎のごとく三砂の親戚筋とのつきあいをきらったため、つきあいのある三砂の親戚がまったくいないのである。そういうものである。その家に来た嫁が、いや、嫁、などという言い方は前時代的で、現代はポリティカリー・コレクトじゃないことは知ってはいるが、私の母の存在は、まごうことなき、三砂の家の嫁、だった。そういう時代だったのである。
 で、嫁だった母は、父の両親のことも、父の親戚のこともみんなきらいだった。きらいだったので、誰ともつきあわなくなった。その時代、いや、おそらく現在でも、だいたいが親戚の関係性が良い、とか、ことあるごとに親族が集まって、和やかに過ごしている、とか、そういう関係に着地できるのは、その家の嫁、つまりは、外から来た家族である女性がそうしよう、と思うからそうなるのである。
 嫁が望まないことは、成就しない。嫁が穏やかで舅姑と仲良く、親戚ともいいつきあいをしてくれるのは、なんといっても、嫁の功績である。しかし嫁がそういう態度がとれるのは、嫁が夫と仲がいいからにほかならない。夫のことをとても気に入っているから、おおよそ夫につながる親とか親戚とかと仲良くしようという気になれるのである。夫のことが気に入らないのに、どうやって、夫の親とか親戚のことを好きになれるというのだろう。
 私の祖母、すなわち父の母親は、ひとことで言えば、たいそう薄情な人であった。愛情をかける、ということがどういうことかよくわからないのであろうような人だった。いつも祖父、すなわち、彼女の配偶者をどなりつけていたし、声を荒げることをなんとも思っていない人だった。内孫だったはずの私も、祖母のことは猛々しい人、という思い出しか、ないのである。家にはいつも、きいきいという祖母の怒号が鳴り響いていた。女が弱い、とか、抑圧されている、とか、私がうまく思えないのは、そういう配偶者に向かってまともに怒鳴りつづける祖母をみていたからかもしれない。で、祖母は、幾重にも薄情な人だったから、父にとって、どういう母親だったか、想像がつく。結果として、父が結婚した嫁も、まあ、一言で言えば薄情な人だった。それ、私の母だが。こういうのを世代間連鎖、とか、言うのであろう。父はだから、幸せではなかっただろう。
 母の愛情に満たされず、配偶者の愛情も得そこねて、というか、薄情な母親だったから女はそういうものだと思って、嫁も薄情なのを選んだ方が悪いのだが、結局、生涯親密な関係の女性になぐさめられることもなく、満たされないものを抱え、そのまま、ボケた。娘としては、少しはなぐさめてやりたいと思って接してもみたが、所詮、娘は娘で、母親や配偶者ができるようには、男をなぐさめてやれない。
 そんなふうに満たされないものを抱えてボケてしまった父は、いいカモだったのであろう。生涯頑張って働いてきたというのに、株やら投資信託やら健康器具に健康食品、なんだかわけのわからないものにどんどんお金を使って、貯金などほとんど残っていなかったことに気づいた。さらに、死んでしばらくしてから大阪地方検察庁から連絡が来て、証拠品を返したいから、と言われて、投資詐欺にまで、あっていたことがわかった。やれやれ。
 おとうさん、ほんまに、あほちゃう? なにやってんの?

 世界の喜劇王、チャールズ・チャップリンは、

 Life is a tragedy when seen in close-up but a comedy in long-shot.

 と言った。すなわち、人生って、近くで見ると悲劇なんだけど、ロングショットで遠くから見ると全部、喜劇だよね。2018年、還暦をむかえたとき、ジュネーブの友人家族が、お祝いしよう、と言って、車で連れて行ってくれたのがスイスのVeveyという街にできたチャップリン・ミュージアムだった。アメリカを追われたチャップリンが、4度目だかの妻ウーナと8人の子どもと暮らした家が博物館になっているのである。少なからぬ著名な人たちが不遇な晩年を送ったりするのだが、チャップリンは、54歳の時に18歳のウーナと結婚して、73歳までに8人も子どもを作って、Veveyの街の広い庭の家で、にぎやかに暮らして88歳で死んだ。いくつかの有名な映画を知っているだけだった私は、彼のこのカラフルな人生にあらためて圧倒される。上記のLife is a tragedy…はそこで見つけたのだが、私がものを知らなかっただけで、この言葉はチャップリンの本のタイトルになっているくらい有名な言葉であるらしい。

チャップリンのイラスト

Image by Engin Akyurt from Pixabay

 いやあ、ほんと、喜劇だよなあ。私の実家も。なんで、じいさんとばあさんが毎日どなりあっているのか。なんで、そこに来た嫁もいじわるなのか。かわいそうなみつおくん(父)は、お母さんにもかわいがられませんでした、お嫁さんにも捨てられてしまいました、現実を見るのはしんどいから、適当にボケてしまいました。そうしたら、みんながよってたかってみつおくんのお金をむしりとっていきました。かわいそうやなあ、と思ってもええんやけど、娘はアホらしゅうなってしもうて、なんか、笑うてしまうのでした。
 母に捨てられてしまった父は、娘のところに身を寄せて、東京で死んでしもたんやけど、お墓は、西宮や。薄情な嫁さんは、娘に「最近は骨も宅急便で送れるらしいで。お父さんの骨、宅急便で西宮に送っといて」と言い残して、東京でやった葬式をあとにしましたが、娘はあわれに思って、新幹線のグリーン席を買って、父の骨を西宮まで連れて帰ってやりましたとさ。
 いやはや、近くで見ているとほんまに悲劇やったんですけど、今思うと、笑うしか、ありませんなあ。みなさん、家族の葛藤は、どうぞロングショットで喜劇にしておいてください。チャップリンが、そう、言うてはります。

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第1回 早くしなさい』はこちら

「第1回 早くしなさい」ケアリング・ストーリー

 

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