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「第1回 早くしなさい」ケアリング・ストーリー

 ブラジルとイギリスで子どもを産み、そのまま10年くらい二人の子どもをブラジルで育てた。異なる文化で子どもを育てる、ということはいろいろものめずらしいところがあって、びっくりするようなところも少なくない。だからこそ学ぶところも多い。そうやって育てた子どもたちももう30歳くらいになってしまっているので、もう昔の話になるのだけれど、ブラジルで子どもを育てていて、今も忘れられないことの一つは、「早くしなさい」という言葉を聞かないことだった。
 普通に日本で育ってきた私は、「早くしなさい」と言われ慣れていたし、育ってくる間にたくさんの人にそう言われたし、言われている子どもたちを見ていたし、言っている大人を見ていた。当たり前のことだと思っていた。
 ものごとは、早くするほどいいのだし、早くなされなければならないし、それができない人に、「早くしなさい」ということは、励ましだと思っていたのではないか。決して悪いことだと思っていなかったと感じる。
 だから、ブラジルで、子どもたちが大人に「早くしなさい」とちっとも言われていないのを見ることには違和感があったのだ。実際に大人に聞いてみたことを覚えている。「どうして早くしなさい、って子どもに言わないんですか?」
 聞かれた大人は、質問の意味がわからないようだった。
「どういうこと? どうして早くしなさいって、子どもに言うの? 子どもは早くできないでしょう? どうしてできないことをやりなさい、と言わなければいけないの?」
 確かにおっしゃる通りである。子どもに早くしなさい、と言ったって、できない。できないことを言っても、言われたほうはできなくて悲しくなるだろうし、言ったほうは、できない子どもを見て、いらいらする。何もいいことなどありはしないのだ。それなのに、なぜ、ずっと言い続けてきたのだろう。
「早くしなさい」と言われ続けて育つと、ではどうなるのかと言うと、単純に、なんでも早くしなければならない、と思うようになるのだ。「早く、早く」エトス、が、すっかり体に染み込む。
 早くしよう、今やっていることを、早く終えよう、今始めたことを、なるべく効率よく進めよう、今手がけていることを。そうして? そうして何をするんだっけ? 早くやって、早くできた、そのあとは? また、次のことを何か、早くやるのである。今やっていることはなるべく早く終え、その次のこともなるべく早く終え、それで、その次は? 次にやることは? やっぱりなるべく早く終えて、それで、どうするんだっけ。そうやって早く、早く、やって、次にやるべきことってなんだったっけ? 結局何にもないことだって、結構あるのに。
 早くやって、早くやって、と思ってやることには、魂が抜けていくんじゃないか。そんな、魂なんていう言葉じゃなくても、まさに、「心ここにあらず」、になるのじゃないか。

暗闇と光

Image by kristamonique from Pixabay

 新型コロナパンデミックの中、いつでもどこにでも行けたように思えた時代があっという間に遠くなってしまって、飛行機に乗って気軽に海外など、いかなる意味でも出かけられなくなっているのだが、お金と時間さえあれば、どこにでも行ける、という時代は結構長かった。
 飛行機に8時間ほど乗ると、東南アジアの国は大体どこでも行くことができた。半日ほど乗れば、ヨーロッパやアメリカの街に着いていた。もう半日乗れば、アフリカやラテンアメリカの首都に着く。世界は狭くなったと思っていたし、実際、48時間ほどかければ、行けないところがないくらいだった。飛行機のネットワークは完璧で、時間を作り、飛行機に乗るお金を持てば、どこにでも運んでもらえたのだ。今となっては、なんと夢のようなことであることか。
 離れていること、遠くにいること、は、だから、大したことではない、と思い始めていた。結婚して親元から遠く離れても、いつだって、何かあれば、すぐに帰れるのだから、大丈夫、と、みんな思っていた。
 和歌山県出身の東京の友人は、先日、義母を亡くしたのだが、地元には帰れなかったという。「今、東京からは来なくていい」と言われ、オンライン葬儀にコンピューター越しに参加しただけになった。昔のようになったね、と友人と言う。つまり、遠くに住んでしまうと、親に何ごとかあったとしても、そんなに簡単に帰れない。故郷を遠く離れる、とは、ちょっと前まで、今生の別れと同義だったのだが、それと同じような状況が生起しつつある。そして、おそらくそのほうが、生きることのリアリティに近いことなのだ、とみんながわかりつつある。私たちは皆、自分の周囲にいる人たちと生きてゆき、そこにいる人たちに囲まれて、この世を去るのだと。
 新型コロナパンデミックがもたらした世界は、なんだか、当たり前だった距離感を当たり前に戻した、ということかもしれない。
 ともあれ、ここで書きたかったのは、新型コロナのことではなくて、飛行機で速く移動すると、体は移動しても、心の方はついてきていないような気がする、と言っていた人がいた、ということだ。飛行機と共に、速く動いて、体は移動できても、心の方が置き去りにされて、心ここにあらず、になり、心と体が一致するまでしばらくかかる、とのことだった。さもありなん。
 きっとそれと同じで、「早く、早く」と急ぐ習慣をつけると、体はそういう作業についていけても、心はそれについていけない。次々に早く早くと追い立てられてやっていくと、結局、心はずっと、置き去りにされたままになる。どういうことになるかというと、今、というこの時の豊かさを楽しむことができなくなってゆく。
 身に覚えはないだろうか。今、この時を楽しみたいのに、先のことが気になって楽しめない。今、この時に広がる豊かさにただ身を委ねていたいのに、次のこと、一歩先のことを気にして、ゆったりできない。このひと時に広がる永劫を感じることこそが、感動なのだが、そのような感動に身を浸すことが、やりにくくなる。
 そうであれば、「早くしなさい」を言わないことが肝要なのだろう。今日から始めてはどうだろうか。決して「早くしなさい」と言わないこと。
 まずは、子どもに対して言わないこと。そうは言っても「早くしなさい」と言わないと、保育園に遅れたり、小学校に遅れたりする、と思うだろうか。そうであれば、どうすればよいのか。
 早くしなさい、と言わないようにする、ということは、余裕を持って早く子どもを起こす、ということである。子どもは早くは起きない? それならば、子どもを早く寝かせることである。子どもは早く寝ない? 大人と一緒に起きていたがる? そうであるなら、子どもと一緒に電気を消して親も早く眠ることだ。早く寝て、子どもより早く起き、やるべきことを子どもが起きてくるまでにやってしまうことだ。夜更かししながら、やるべきことをやる、のではなくて。
 子どもを急かさない親になってみる、というのは、だから、それはなかなかたいへんなことであり、生活全体を見直さなければならないことであり、親の側の相当の覚悟を要求することである。
 それでも「早くしなさい」を言わないことで、子どもが得ることはあまりに大きい。彼らは、自分が尊重されている、と感じてゆったりと育ち、今を生きる喜びを静かに感じられる人になるだろう。永劫への憧れを自分のものにできる、というのは、学問をすることの根本である。子どもはその子なりの学びへと向かうだろう。たった一言の、「早くしなさい」を、今日からやめてみては、どうだろうか。

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼過去の連載コラムをご紹介

「毎月生まれ変わるということ」少女のための性の話

「はじめての海外」 少女のための海外へ出ていく話

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