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「第8回 続・スペイン風邪」ケアリング・ストーリー

 

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 前回の連載「スペイン風邪」の続き、である。
 日本最初の女子留学生の一人で、「鹿鳴館の花」とも言われた山川捨松、のちの大山捨松は、1919年、スペイン風邪で亡くなった、ということを前回、書いた。捨松の嫁にあたる大山武子の文章によると、スペイン風邪で自宅療養していた捨松のところに「大学病院の博士が、寸暇をさいて往診、“ワクチン注射”をしたところ、捨松は突然寒いと言ってぶるぶると震え始め、たちまち顔色が変わって息が止まってしまった」(注1)、ということだったのである。58歳の死はあまりにも早く、残念でならない。
 大山武子の文章には、“ワクチン注射”と書いてあるものの、当時のスペイン風邪は、いまはインフルエンザ・ウィルスによるものであることがわかっており、スペイン・インフルエンザとしていくつかの本が出ているのだが、インフルエンザ・ウィルスが同定されたのはずっと後のことだから、当時は原因がわかっていなかったはずである。だから、捨松が打たれたのはワクチンではありえない、と思っていた。おそらくは、何らかの治療薬を注射されていたものを、義理の娘さんがワクチン、とまちがえて書いていたのではないか、と思っていたので、前回の連載に、そう書いたのである。
 ところが私が書いていたことが、間違っていた。訂正しなければならない。大山武子氏の記述は、おそらく、正しく、捨松はワクチン接種を受けたと思われる。なぜなら、ワクチンがあったことがわかったからだ。調べてみたところ、今から100年前のスペイン風邪流行時に、ワクチンは国内で作られており、国内で、20万人以上に接種されていた、というのだ(注2)。知らなかった。大正時代、スペイン風邪のパンデミックになんとか対処するために、国内でワクチンがつくられていたのである。まことに、驚いた。

 ジェンナーが天然痘を予防する種痘について、論文を発表したのは1801年である。このジェンナーの発明した有名な種痘という方法に「ワクチン」という名前をつけたのがフランスのパスツールだった。パスツールはこのやり方が他の病気にも応用可能なのではないかと考えるようになってゆく。さまざまな当時の伝染病や、その原因と思われる細菌について研究を続け、「細菌学の父」と呼ばれるほどの大きな成果を残すことになったのはよく知られている話だ。
 ジェンナーから始まった、弱毒化した微生物をとりいれて免疫を得る、という発想はパスツールの登場によってひろがり、人類は感染症に対する重要な対抗策を手に入れていった。教科書に載っているような事実である。
 パスツールがその研究成果としての狂犬病ワクチンを最初に接種したのは1885年で、その成功が広く知られることによって世界中から寄付金が集まり、今も有名で感染症研究の最前線に立つ、パスツール研究所がパリにできるのである。また、同時期、1884年には、ドイツのコッホがコレラの原因がコレラ菌であることを突き止めている。つまりは1884年とか1885年とか、その時代は、細菌学の大きな成果がみられた時期だったのである。
 世界がそういう時代だった頃、日本はどうだったかというと、明治維新直後の1869年に、すでにドイツを範として医学教育を行うことが決定していており、多くのドイツ人医学者、教育者が現在の東大医学部にあたる東京医学校で教鞭をとっていた。緒方正規、森鴎外、北里柴三郎らもこの時期にドイツに留学し、コッホやペッテンコーファーらの元で学ぶ。北里柴三郎はコッホがコレラ菌を同定した翌年の1885年にコッホの研究室に入っている(注3)。
 スペイン風邪の流行は1918年から1920年くらいであるから、パスツールやコッホの働きから約30年ほど後、ということになり、世界の細菌学が急速に進歩し成果を出していた時であったと言える。スペイン風邪はスペイン風邪、とよばれているものの、当時すでにインフルエンザともよばれていることは当時の雑誌をみるとわかる(注4)。流行性感冒とかインフルエンザ、という名前で医学雑誌に取り上げられてもおり、ワクチンもつくられていたのである。このことについて、以下のようにまとめられている。

 スペインかぜは社会的に大きなインパクトを与え、世界中の研究者がインフルエンザの原因を明らかにするための研究を競って行った。当時は細菌学が急速に進歩した時代で、スペインかぜで亡くなったヒトより何種類もの細菌が分離されたため、それらのうちのどれかが原因菌と考えられた。特に分離される割合が高かったのはパイフェル氏菌で、多くの研究者がインフルエンザの原因菌と考えたのでインフルエンザ菌と呼ばれることになった。インフルエンザの予防にはワクチンが必要ということで、日本ではパイフェル氏菌に対するワクチンが開発され、1919年から1920年にかけて20万人以上に接種された。このワクチンは、発病を阻止する効果は低かったが、死亡率を下げる効果は大きかった(注5)。インフルエンザはインフルエンザウイルスに感染して発症するので、なぜ効果が認められたのか不思議である。恐らく、インフルエンザの重症化には細菌の二次感染が関わることが多いので、このワクチンは それを防いだのであろう。(注6)

 世界中が競ってスペイン風邪に対処しようと研究を進める中、日本でもまた最先端の研究がすすめられ、現在の目からすれば、まちがった原因菌を同定してはいるのだが、それでもワクチンを作り、接種を行い、死亡率を下げる効果があった、というのは、今読むとなんだか、すっきりしないところもあるものの、そういう研究が可能な状況が、スペイン風邪流行時の1918〜20年ごろの日本には、あった、ということである。北里柴三郎がドイツから帰国した1892年に大日本私立衛生会附属傳染病研究所(傳研)ができて、北里が初代所長に就任する(注7)。のちこの傳染病研究所が1914年に内務省所管から文部省に移され東京帝国大学に設置されるが、北里はそれを不満として私立の北里研究所を創立する。のち、この傳染病研究所と北里研究所は、様々に対立するところがあったようで、スペイン風邪のパンデミックを契機として、その病原がなんであるか、ということについても意見が対立していたという(注8)が、ともあれ、そのように、学問的に切磋琢磨して、ワクチンを作ろうという雰囲気があったわけである。
  何がいいたいのかというと、パスツールやコッホのめざましい働きから後れること30年ちょっと、大正時代の日本は、近代医療をシステマティックに導入してまだ長くても50年くらいだっただろうと思うのだが、その期間に数多の研究者が渡欧して細菌学を学び、スペイン風邪流行時には、自国でワクチンを生産する力があった、ということだ。日本は当時よりも今の方が先進国の仲間入りをしているはずだが、新型コロナパンデミックの今、スペイン風邪の時代とくらべて、よりダイナミックに対応できたか。少なくとも、ワクチン開発に後れを取ったことは、誰の目にも明らかになってしまっている現在、である。

(注1) 大山武子「母の晩年(上)」、『好故』創刊号(会津武家屋敷文化財管理室編、1983年)。
(注2) 地方独立行政法人 大阪健康安全基盤研究所「インフルエンザワクチン開発の歴史」http://www.iph.osaka.jp/s007/020/050/010/010.html (2021年6月12日閲覧)
(注3) 岩本愛吉「傳染病研究所の系譜から見た日本の感染症対策略史」、『モダンメディア』 64 巻 5 号 [通巻 750 号記念特集 1] pp3-11、2018年。
(注4) 今井金三郎「感冒豫防接種ノ効果に關スル統計的成績」『衛生學傳染病學雑誌』第15号353-(大正8,9年)など。
(注5) 神奈川県警察部衛生課『大正七、八年大正八、九年流行性感冒流行誌』、1920年。
(注6) 地方独立行政法人 大阪健康安全基盤研究所、前掲書。
(注7) 岩本愛吉、前掲書。
(注8) 福見秀雄「インフルエンザ ワクチンの歴史」、『ウイルス』35巻2号、pp107-122、 1985年。


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三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第6回  スペイン風邪』はこちら

「第6回 スペイン風邪」ケアリング・ストーリー

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