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「第19回 帰りたい家」ケアリング・ストーリー

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 住むところ。衣食住と言われるのだから、もちろん大切なことだ。住むところがない人は全力で、受けられるところから、支援を受ける権利がある。これだけ人間社会が緻密に発展してきたのに、望むにもかかわらず住むところがない人、は、国内でも、海外でも、いかなるレベルでも、そういう人がいることに対して、できることはなんでもされなければならない。難民問題、内戦問題、ホームレス、いかなることでも。
 その上で。住んでいるところは、帰りたいところだろうか。その住まいを一歩出て、家の外でやらなければならないことは済ませて、さて、家に帰ろうと思う時、そこは帰りたいところだろうか。家の広さとか、家族の構成とか、自分のスペースがある、とか、そういうことには、関わらない。ああ、ここに帰りたい、ここに帰って身を横たえたい。帰って、眠りたい、そういうところ、と言ってもいいかもしれない。
 どんな子どもにとってもそうなのだが、自分がどういう環境で育っているのか、ということを客観的にとらえることは、不可能である。2022年現在、「子どもの虐待」や、「ヤングケアラーの問題」が、さまざまに取り上げられる。厳しい状況にいる人たちのことはもちろんだが、世の中に話題として取り上げられるほどではない、と思われているような場合でも、当事者は、自分が育ってきた環境が全てなので、よその家がどういうものか、とか、自分がこの環境を出たら何か良くなるのか(あるいは悪くなるのか)、わからない。それが当たり前の日常だからである。
 成長して友人ができたり学校に通うようになったり他の家に上がることがあったりして、少しずつ、自分の状況を客観的に見られるようになっていく。それでも、その環境を出て行こう、という積極的なエネルギーを自らに蓄えることはそんなに簡単ではない。家出する、とか、外に助けを求める、とか、そういうことができるようになるには、かなりの成熟が必要とされる。多くの人の場合、外から指摘されて、あるいは、自らがなんらかの理由で違う環境に身を置くことになって、初めて、自分のいた環境、というものが相対化されていく。だからこそ、外からの関わりが重要になってくるのだが。

 大学生になって家族から遠いところに住むことになり、小さな下宿に引っ越した。六畳一間、トイレは男女で共同でひとつ、風呂はないので、銭湯に行く。それでも部屋の中に水道があって、室内で簡単な煮炊きもできるような下宿だったから、人気があった。今から40年以上も前、四畳半一間、という下宿も多かった当時、六畳間に住んでいること自体、結構広いな、という感じもあった。それでもそういう、ささやかな部屋、である。ここで感じた、安堵の思いと、居心地の良さと、嬉しさを、今も忘れることがない。ここで初めて、自分の家に戻って、家の扉を開けたら、自分自身で好きな顔をして、好きなように振る舞っていいのだ、ということが、こんなに嬉しいことだったのだ、とわかった。
 決して不遇な子どもだったわけではない。きちんとした家があり、働いて、家事をしてくれる両親があり、ご飯を出してもらい、暖かい寝床があり、不自由などなかった。両親の名誉のためにもいうけれど、彼らが彼らなりの、その時代なりの、限界の中で作ってくれた環境は、立派なものだった。時代の反映と、個人的な理由が重なっていたのだろう、両親の仲は悪く、単身赴任の父が帰ってくるたびに、両親は言い争いをして、身の置き場に困った。
 祖父母が同居しており、実の所、この祖父母は仲が悪かったのか良かったのかはわからないが、少なくとも、祖母は毎日、祖父に声を荒げていた。書き間違いではない。「祖父が」、ではなく、「祖母が」声を荒げていたのである。あんな大声あげたら、ご近所の手前、今だったら、あまりにも格好が悪いとか思うのだが、昭和のあの頃、世の中って結構そんなもので、あちこちの家から大声やら、怒鳴り合いやら聞こえても、まあ、そんなものか、と思われていたのかもしれぬ。それがいい時代だなんて、少しも言えないのであるが。
 母はそのような祖母を嫌い、いやがっていた。当たり前だろうと思う。そんな祖母だから、母にも特に優しいふうもなく、嫁姑という関係を抜きにしても、人間的に折り合えなかったのだろう。そんな人たちが、ひとつ屋根の下に住んでいる。そのような関係性はみごとにそれぞれの体調に影響しており、母は30代からいつも体調が悪く、入院したり、手術したり、を繰り返し、祖母は喘息でつらそうだった。とにかく雰囲気、悪いのだから、私も家を出て外で遊んだりすればいいものを、やっぱり喘息で体に自信がなくて、家にいて本ばかり読む生活、家族の関係の悪さが満ち満ちる家で、それがまあ、日常であったのた。怒鳴ったり、罵ったり、陰で悪口を言ったり。高度成長期の日本の会社勤めの父は、ずっと単身赴任で、それなりに楽しい暮らしをしていたらしいから、それもまた、母の癇に障ったのであろう。そういう時代だったし。みんな、気の毒なことだった。
 いつも身構えていて、それなりにとりつくろったり、なんでもないような顔をしたりしていた方が良いらしいことも学んでいたのであろう。初めてその家から出て、ひとりになった時に、初めて「家に帰ったらほっとする」という安らいだ気持ちを学び、ああ、あの部屋に帰りたいなあ、といつも思うようになった。広さは関係がない。帰りたい、と思う場所になった。そこで初めて、今までいた家は、あんまり帰りたいところじゃなかったんだな、と思った。他に帰るところもないし、それ以上のことを考えることもできなかったし。

 それから何度引っ越したか。ざっと数えても20回くらいは家をかわっている。家族も、変わった。その一人暮らし以降、の、引っ越しの間、一貫して、家族の中心は、私だった。家は、女がいればその周りに家族ができていく。そういう意味での、中心だった。でも、一貫して、自分の住む場所は、自分の帰りたいところにできたことが、幸せだった、と振り返って思う。どの家でも、喧嘩することもあったけれど、そこはいつも帰りたい家だった。私はそうだったけれど、一緒に住んでいた家族たちはどうだったのだろう。彼らにとってもいつもそこが帰りたい家であったら、良かったのだけれど。
 大人になるとは、「自分が帰りたい場所に、住むことができること」なのかもしれない。それを選べるようになることなのかもしれない。その場所は、変わり続ける。しかし、帰りたい場所に住んでいることこそ、健康である、ということではないだろうか。そこが居心地が良いこと、出ていく必要は感じていないこと、そこで自分が守られていること、それはとても大切なことのような気がする。引きこもりや不登校は現代の大きな課題と言われているのだが、引きこもれて、学校に行かないで、家にいていい、と思えていること、そういう環境を提供できるようになった、ということは、周囲の豊かさと余裕の反映で、帰りたくない家ばかりであったかもしれない時代と比べて、それは一つの私たちの人間的な成長とは言えないだろうか。

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第17回  小学校』はこちら

「第17回 小学校」ケアリング・ストーリー

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