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11.162024
「第7回 衣服にひかれていく(後編)」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる
雨の日に着物を着る時の足元は、まずは、いわゆる利休下駄に爪皮、と呼ばれるカバーをかけるのがよい、と教えてもらっていた。利休下駄というのは、細い二枚刃の付いている下駄で、それはそれは、格好が良い。この下駄でさささ、と歩くと、本当に粋だな、としみじみ思い、40代半ばで着物生活に入った頃は、利休下駄を履くと自分がなんだかかっこいい人になった幻想に浸ることができた。雨の日に、その利休下駄に爪皮をつけると、足袋も着物も濡れず安心である。接地面、つまりは雨の日の床から、5センチとか7センチとか上がっているので、着物の裾も濡れない。これと比べると靴は本当に接地面と近い履き物だから、濡れやすい。そういう意味で、利休下駄に爪皮、は、よくできた雨の足元の装い、であると思う。
しかし、下駄は、現代生活においてあまり便利ではない。格、という意味では、下駄はもともと格もそれなりに高い履き物で、草履と遜色なかったようだ。芸者さんなどは下駄しか履かないところもあったようだし、花街には芸者階段、と呼ばれるような段差の低い階段のあるところもあったらしい。そう、階段。下駄では階段は歩きにくいことこの上ない。現代生活では階段が多く、下駄を履いていると登りはともかく、下りがなかなかに大変である。舗装された道や歩道は、下駄を履いていると滑りやすいし、さらにそこに雨が降っているとかなり滑る。60代を出た頃から、いや、50代になった頃から、転倒だけは避けなければならないと用心している身としては、現代生活での下駄は、危険が多すぎる。さらに、ホテルのロビーなどは下駄で入ってはいけないことになっているので、草履に履き替えなければならない。
危険だし、履いて行けるところが限られるため、下駄を履いているときは、履き替えの草履を持たねばならないので荷物も増える。だんだん履かなくなった。
で、雨が降った時は利休下駄ではなく雨草履を履くようになった。普通の草履は雨に濡れると天(足を置く表面)も台(底部分)もダメになってしまう。さらに、底に「すげ穴」と呼ばれる鼻緒をすげる穴が空いているので、底から水が入ってしまうのだが、雨草履は台がコルクでできており、雨に強く、爪皮が最初からついていて、草履の先の部分が、ヘルメットの前部分みたいな感じで透明なビニールに包まれている。正式な場所に出て行く時は、もちろん、履き替えは持たねばならないが、普段の仕事なら、雨が上がっても、雨草履を履いていてもそれほど違和感はないし、むしろ寒い時期には、つま先が暖かいのでありがたいくらいだ。ということなので、天が白い雨草履と黒い雨草履を用意して、どちらかを履いて約20年過ぎた。
草履は絶対、銀座の小松屋さんのものしか履かない、という、着物好きには、結構多かった、小松屋さん贔屓の一人になっていった。小松屋さんの草履は、もちろん安くはなかったが、2万円前後、と、まあ、ちょっと上等なパンプスくらいの値段で買えて、しかも本当に歩きやすかったのだ。常に鼻緒や踵など気軽にメンテナンスをしてくださるのもありがたく、銀座まで行けない時は、宅急便でまとめて送って、メンテナンスしてもらったりもしていた。草履はいくらでも高価なものがあるが、毎日着物を着る身としてはこの値段以上一足の草履に出すのは厳しいから、これでも高いけれども、ありがたかったのである。小松屋の草履しか履かない、という日々だったのに、2017年、小松屋さんは突然閉業してしまった。着物好き人間の間で、衝撃が広まり、いっときは同時期に始まった中古品販売サイトのメルカリで小松屋さんの草履を買い集めたりしてみたが、無くなったものは無くなったので、仕方がない。途方に暮れていたら、着物メンターのニドさん(前回参照)から、菱屋さんの「カレンブロッソ」を紹介してもらった。
この草履は、すごい。一足送っていただいて、すぐにまたもう一足買ってしまった。スニーカーのような草履、というのが謳い文句だが、とにかく軽くて歩きやすい。足にぴったりとなじむのは魔法のようである。この草履を履くと、他の草履が履けなくなる、と送ってくださったメンターさんはおっしゃっていたが全くその通りで、この草履しか履かなくなってしまったのである。この草履は発想からして異なっており、鼻緒のすげ替えはできない。しかし、軽くて歩きやすいだけではなく、天も台も水に濡れても大丈夫らしく、雨のときに履いても草履自体は大丈夫だそうだ(全てのカレンブロッソがそうなのかわからないので、どうぞ皆様ご自身でご確認を)。つまりこの草履自体は驚くべきことに全天候型なのである。
そうはいっても、白い足袋が雨に濡れるのも困る。草履自体は大丈夫であっても、爪皮は必要になるから、ビニール製でできていて、なんと天の上に置いて鼻緒のあいだにはさみ、爪皮部分がカバーのようになる携帯型の草履用雨カバーのようなものが開発されている。カレンブロッソを履いて出かけ、雨が降ったらこの携帯できるカバーをつければ良いのである。小松屋の草履に未練ばかりの日々だったが、あっという間に気持ちはこちらの草履に向かってしまった。永遠の恋、というものはないのだな。残念な気もしたが、菱屋さんのものづくり熱意に感服した、と言うところである。
雨の日の着物のことを書いているのは、前編で木綿の帯、ミンサーのことを書いていたからである。ミンサー帯とは八重山で織られていた木綿の帯で、有名な柄行は五つと四つの四角を組み合わせたものであり、これは「いつ(五)の世(四)までもあなたといっしょにいたい」という思いがこめられているというお話で知られている。島の女たちは思いを込めて愛する人のために細帯を織ったと言われており、ミンサーの細帯(ミンサー自体に細い帯、と言う意味もあるのだが)の端のギザギザっぽいもようはムカデを模していて、「足繁く通ってください」という意味だったのだと伝えられ、恋愛、通婚のあり方が偲ばれる。いまや沖縄全県のおみやげものに配されているこの「いつの世までも」ミンサー柄であるが、これはもともと八重山竹富島の発祥のものであったと言われている。島の人によると、意匠登録しておいたらよかったけど、昔からのものだから誰もそんな発想はなかった、とのことである。もともと細帯だったものだが、いまではいわゆる半幅帯や名古屋帯も織られている。私が着物初心者の時に買った最初の帯も名古屋帯だった。
この黒にオレンジの配されたミンサーの名古屋帯が、とにかく美しく、しめやすく、全天候OKで、普段着着物に似合うものだから、異なる色のものもの何本か入手して愛用していた。うーじ染めを思わせる薄いグリーンのもの、明らかに人工的な色だが可愛らしくてつい買ってしまったピンクのもの、そして竹富町で織られたと言う証紙がついているこちらは草木染めの灰茶色のもの。それに、石垣島の方にいただいた、真っ白に明るめの紺で模様の入った半幅帯。ピンクのものはさすがに60代に入ったら、可愛らしすぎると思い、若い着物好きな友人にゆずったが、そのほかはまだすべて現役で活躍してくれている。
2024年3月に東京と、四半世紀勤めたアカデミアを離れ、八重山竹富島に移住した。その経緯や、きっかけについてはあちこちに長く書いているので繰り返さないが、一言で言えば、20代、琉球大学大学院にいたときに所属していた八重山芸能研究会の繋がりのおかげで、竹富島に縁ができて、土地を借り、家を建てることになったのである。家を建てようか、とふと思い立ってから、2年かからずに家は完成し、引っ越しも完了したのだ。素晴らしくすみやすい家で、65歳過ぎての移住なので周囲の皆様のお世話になることばかりだが、よくしていただいて、幸せに暮らしている。こちらでは毎日は着物は着ないが、着るときにはよくミンサー帯を締める。締めながら、あらためて、ううむ、これはこの帯が、この帯たちが、この土地に引っ張ってくれたのか、と思う。
2003年に着物を着はじめてから20年と少し、そのあいだ、ずっとずっとしめ続けていた黒とオレンジのミンサー帯。あなたですか、私をここに引っ張ってきてくれたのは? わたしはミンサー帯に惹かれていたが、引かれていったのは、実は私の方なのかもしれないのである。ミンサー帯にひかれて、竹富島までたどり着いた。上等である。
三砂ちづる (みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。