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11.82024
「第20回 巡礼」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
二〇二二年に日本へ帰国した時、最初に入った本屋で最初に目に入ったのは沢木耕太郎の『天路の旅人』だった。発行日を見ると発売されたばかりだった。迷わず買った。一九八六年に発行された『深夜特急』第一便以来、私は沢木の本に注意を払ってきた。彼がまだ旅について書いている、そう思うと心が躍った。その本を胸に抱え何年かぶりに日本の書店内を見て回った。でもそれはほんの数分のことだった。沢木の本を得た嬉しさのあまり何も目に入らず私は早々に支払いを済ませ、その書店内の一角にあるカフェで『天路の旅人』」の最初のページを読み始めた。六百ページ近い本であるが、日本滞在中、ずっと肌身離さず持っていた。私は自分の国を旅していたが、なぜか、それと並行する誰かのもう一つの旅がどうしても必要だったようだ。帰りの便、ヘルシンキまでへの十六時間の機上でも読み続けた。空の旅、まさに天路である。
『天路の旅人』は第二次大戦中に日本政府の密偵として内蒙古から中国、チベット、ネパール、インドへと七千キロを徒歩で踏破した西川一三を描いている。盛岡市に住んでいた西川を初めて沢木が訪ねて行った日から本が出版されるまで、二十五年かかったと帯にある。一人の人間を理解しようとすることも、また旅であるのだ。西川は蒙古語を学び、チベット巡礼の蒙古人を装って足かけ八年に及ぶ長い旅をした。二十代でこの行路を始め、終った時には三十代になっていた。彼は密偵としての調査の内容を記憶した。紙に書かれたものは証拠として扱われ、スパイであることが発覚してしまうからである。驚くべき記憶力である。彼はチベットのラサで終戦を知ったが、インドで日雇いのような肉体労働に従事したり、托鉢の僧になったり、帰国を急がなかった。密偵としての役割を忘れたことはなかったが、歩く、移動するということの面白さ、何処ででも生きていける、何をしてでも生きていけるという事実を手放すことができなくなったかのように見える。読み終えてから、直ちに再読した。二度目も最初に読んだ時以上に面白かったという稀な本である。
東アフリカで誕生した人類が、南アメリカの南端へ拡散していった約五万キロの行程は「グレート・ジャーニー」と呼ばれる。これには十数万年を要している。関野吉晴という冒険家がこの行程を足かけ十年かけ、カヤック、自転車、スキー、徒歩で逆から辿って行った。チリのナバリノ島からの出発を含む彼の最初の紀行文を私は読んでいるが、残りはこれから読むつもりでいる。彼がゴールに選んだタンザニアに辿り着く部分はユーチューブの動画で見た。人類の最も古い足跡、三人の親子と思われる足跡が残っている場所、ラエトリを彼はゴールに選んでいた。
アイルランド人はスペイン北西のサンティアゴ・デ・コンポステーラ(以後サンティアゴ)へ向かって歩く。サンティアゴは、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教の三大巡礼地であり、スペインはもとより、ポルトガルからもフランスからも巡礼ルートがある。サンティアゴとはスペイン語で聖ヤコブ(十二使徒の一人)のことであり、九世紀に彼の墓が発見されたことで巡礼地となるきっかけを作った。
アイルランドからの出発地点は、サンティアゴを含むスペイン北西部がガリシアという独立国であった中世の時代からダブリン市内の聖ジェイムズ門と決まっている。ジェイムズは英語のヤコブである。中世の頃、ダブリンと呼ばれていた小さな地域は城壁で完全に囲まれ、城壁内への出入りはいくつかの門によってコントロールされていた。聖ジェイムズ門はその一つであり、その近くにある聖ジェイムズカトリック教会では、今日でも巡礼に出かける人に必要な情報を与えている。
さて、私の心の中の世界地図にはいくつかの私自身が個人的に巡礼道と呼んでいるルートが糸くずのようにたくさん散らばっている。敗戦後、満州からシベリアへ捕虜となり帰還した画家、香月泰男の歩いたルートには、三日月の形をしたバイカル湖が佇んでいる。芭蕉の奥の細道もその一つ。それを歩きたいというアイルランド人を私は何人も知っている。アイルランド生まれの冒険家、シャクルトンが南極探検で遭難したルートや、アメリカ大陸の横断鉄道も糸くずに含まれる。後者は東からアイルランド移民が、西から中国人移民が敷設作業に従事し、ユタ州のプロモントリーで両者が出会って完成した。列車が走る前に彼らは歩いたのだ。脈絡なく見えるこれらの糸くずは、私の関心で繋がっている。
地図にはない道がある。今では総人口の二パーセントになってしまったオーストラリアの先住民、アボリジニには、「ソングライン」と呼ばれる目には見えない道々がオーストラリア全土に迷路のように存在しているという。なぜ「ソング(歌)」なのだろう。彼らは「万物は歌に歌われるまで存在しない」と考え、旅の途中で出会ったことをすべて歌にしてきたのだ。今でも行われているかどうか分からないが、アボリジニの青年は、一人前の大人になるための通過儀礼として、一人で水や食べ物を探しながらソングラインを辿る旅をするということである。
一九七一年に製作されたイギリス映画、「Walkabout」(邦題「美しき冒険旅行」)は旅に出た十六歳のアボリジニの青年と砂漠で迷ったイギリス人の十四歳の少女と彼女の弟との出会いを描いている。五十年以上も前の映画であるが、私の生涯で最も印象に残る映画の十本に入っている。
この九月に私はミュンヘンへ小旅行した。コロナで籠っていた頃だったか、ユダヤ系ドイツ人、クレンペラーの二十六年間の日記を読んだ。ナチの時代の十二年間を含む三冊の日記は合わせると二千ページになり、おそらく私が一生で読んだ最も長い本だ。クレンペラーはドイツ人女性と結婚していたことで強制収容所送りを免れていたが、大学教授の職を奪われ、労働に駆り出され、家も取り上げられ共同住宅に移されていた。一九四四年二月十三日、ドイツ人と結婚しているユダヤ人も強制収容所に移されるという発表があった。まさにその日の夜、彼が自らの死を覚悟した日の夜、英米空軍によるドレスデン無差別空爆が起こった。ドレスデンは民間人の被害の大きさから「ドイツのヒロシマ」と言われる。二万五千とも十三万人とも言われる死者の殆どは市民だった。この「戦果」に基づいて一カ月後、三月十日の東京空襲が決定されたという。クレンペラーは空爆による大火の混乱に乗じて、上着に縫い付けてあったユダヤ人の黄色い星を外し、空爆の避難民を装ってミュンヘンへ逃亡した。強制収容所行きを免れ、連合軍による空爆を生き抜き、ドイツ降伏の後、ミュンヘンから四百キロの道のりの殆どを徒歩でドレスデンへ戻った。彼は六十四歳だった。
ビール祭りを数日後に控え、気の早い観光客に溢れた賑やかなミュンヘンで私はクレンペラーの歩いた道を捜していた。それは私の世界地図では五ミリほどの距離である。
人間を二本足で立ち上がらせたものは何だろう。高い木の枝についていた木の実だろうか。立って遠くを見張ったのだろうか。立った時、自由になった二つの手を見たに違いない。二本足で歩くならばその自由になった手は何かを持ち運ぶことができる。採集したものを仲間や家族の所に持って行ける。
私は毎日歩く。右足を出してそれから左足。この単純な動作は私を魅了してきた。小学生の頃、帰り道を少しばかり面白くするために、一つの小石を蹴り続けて家の玄関まで持ってきたものだった。もう石は蹴らないが、頭の中で詩を書いている。私の詩の殆どは、歩いている時に生まれたものである。
関野吉晴がタンザニアのンゴロンゴロ保全地域にある三六〇万年前の親子の足跡をゴールに選んだのは、それらが彼にとって、日本にいる妻と娘の象徴でもあったからだろう。夕食の買い物へ、という変わらぬ日常の何ということはない私の歩きは、遠いタンザニアの足跡と繋がっている。続きを歩いているのだ。
「一日分の食糧があれば、どこで寝ようがかまわないと思っている。水の流れに漂っている一枚の葉と同じように、ただ目の前の道を歩いている。」
(沢木耕太郎『天路の旅人』新潮社、2022年)
参考文献:
I Shall Bear Witness: The Diaries of Victor Klemperer 1933-1941, A Phoenix Paperback, 1998
To the Bitter End: The Diaries of Victor Klemperer 1942-45, Weidenfeld & Nicolson, 1999
The Lesser Evil: The Diaries of Victor Klemperer 1945-1959, A Phoenix Paperback, 2004
「人間らしさVol.1 探検家・関野吉晴さんと人類の足跡たどる」https://nextwisdom.org/article/3658/
「世界史の窓」ドイツ本土空爆 https://www.y-history.net/appendix/wh1505-099_2.html
関野吉晴『グレートジャーニー1』角川文庫、2010年
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。