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10.112024
「第19回 母の死」ダブリンつれづれ / 津川エリコ
十二年前の十月に母が死んだ。亡くなったのではない、死んだというのが私の実感である。母の死については母の生きている頃から何度も想像して悲しんでいた。予行演習だった。まるでそのことが悲しみの絶対量を減らしてくれるのだと思わんばかりに。ある程度の心の準備をしてその日に備える算段だったろうか。
そうではなかった。当然のことながらそれは決して準備のできるものではなかった。母の亡くなった日の夜、実家の母のベッドに横になって天井を見た。茫然と。叫びたい気持ちだった。喉は塞がれて声は失われていた。涙も出なかった。私は路上で迷子になった子どもだった。
その時考えたのは、母は祖母が死んだときこんな気持ちだったろうか、ということだった。自分の母を失うことなしに、祖母を失くした時の母の悲しみに届こうとしなかった自分の無思慮が思い出された。私はいつも自分の人生にかまけていた。
母の死によって、私がそれまで経験した悲しみや困惑や辛かったことの記憶などは随分小さく縮んでしまった。桁違いである。母の死以上にこの世に悲しいことがあるだろうか。
五月、母にガンの診断が下され私と家族は日本へ向かい母を見舞った。その時、母はまだおしゃべりができ、歩くこともできた。母の隣のベッドの女性がよく喋るので、母は「自分もはたからみるとあんなかしら」と反省したと言い家族を笑わせた。医者が余命は二年と言い、私はそれを鵜のみにしていた。十一月に長期滞在のつもりで再帰国するためのチケットも買ってあった。診断から五か月後の十月に死んでしまった。
痛みがひどくなったのでモルヒネが打たれたと、叔父からの連絡があったので、翌日の便でダブリンを発った。アムステルダムから成田までの便は満席に見えたが私の隣だけはいつまでも埋まらなかった。私はそれを喜んでいたが、出発直前の時刻になって女性が息を切らし両手一杯の荷物でやってきた。それでドアが閉まったので彼女を待っていたのだろう。
彼女はドイツ人のアーティストだと自己紹介した。東京でやはりアーティストの日本人男性と一緒に暮らしているという。ホリデーで帰るのかと聞かれて、母が入院中だと答えた。すると彼女は自分の母のことを話し始めた。彼女も母親から離れていることが多かったが、母親が亡くなる前の二週間ずっと付き添っていろいろな話を交わし、それが彼女の長い不在を補ったという話であった。「母に対して全く後悔がないわ」と彼女は言った。
私はそれを恨めしくきいた。人が母親に与えることのできる最高の贈り物は時間である。私には、その時間は十分ではなかったという後悔がある。
成田へ着き、羽田へ移動し、釧路便に乗る。私はアムステルダムからの便が遅れることも考えてかなりの時間の余裕を見て釧路便を予約してあったが、羽田へ着くと一本早い便に乗れる時間であった。航空会社は違ったが、たぶん正規の料金を払っていたせいだろう、問題なくチケットを取り換えてくれた。
空港からまっすぐ病院へ。母は眠っていた。母の意思で人工的呼吸をさせないことが病院側と打ち合わされていたので、時間の問題だけであった。その夜、病室の窓側に用意された簡単なベッドで横になったが、部屋は明るいままで私は母の方をただ茫然と見て夜を過ごした。母が息を吸うたびに肩が大きく上がるのは、呼吸自体が大きな労働になっているからだった。
朝になって、見習の若い看護師がオクシメーターという指に挟むだけで血液中の酸素の量が測れるという小さな装置を持ってやって来た。私は立ちあがって彼女と言葉を交わした。その時、母の眼もとに真珠粒のような小さな涙を見たので、私はそれを自分の小指で拭いた。若い看護師の仕事を見ていると、彼女が「あれっ」と言った。自分の装置の使い方が間違っているのだろうかと戸惑っている風だった。酸素がない。
するとナースセンターから看護婦が駆けつけてきて「津川さーん」と声をかけた。母の状況がセンターの方へモニターで繋がっているのであろう。母は死んだのだろうか。「話しかけてあげて下さい、耳はまだ聞こえるのです」
死が完遂するまでの短い間、しばらくの間、耳が聞こえるということらしい。私は話しかけることができなかった。できるのは途方に暮れることだけだった。なぜ、「母さん、ここにエリコがいますよ」と言わなかったのだろう。
三日前にモルヒネが打たれるというとき、三人の叔母と一人の叔父と私の姉が母の傍にいて順に名乗ってお別れを言ったということだった。叔母の一人が、母はモルヒネを打たれて意識が薄くなっていくときに「エリコは…エリコは…」と口にしたと言った。母が私の名を呼んだ時、私はそこに居なかったのである。呼ばれてそこに居なかったのは、私の犯罪ではないだろうか。
看護婦さんが母を清めるので病室を出るように言われ、私はその場を離れた。その後、母の遺体は姉の家に運ばれた。その夜、私は母の家の母のベッドで寝たのだった。
翌日、葬儀場で通夜になった。親族が十人ほど集まり皆そこの広間で仮眠することになった。一晩中起きている人もいたが、私は畳の部屋で横になった。深夜に母の所へ行ってみた。看護婦さんが母に薄化粧を施していた。母の乾いた唇が歯にひっかかってちょっとめくれていた。それを直そうかと思ってしばらく立っていたが気力はなかった。
火葬の日は晴天だった。火葬場に向かうバスの中から見る空はただただ澄み切って青かった。郊外の林の中にある火葬場は清潔だった。あんまり清潔で建物も死んでいるようだった。待合室ではお茶やお昼のお弁当が出され、皆それを食べながら火葬の終了を待った。誰かが火葬の時間を聞いたので、そこの事務所で働いている女性が、「男女で違いますし、太っている人は時間がかかります」などと言った。母は痩せていた。
骨を骨箱に収めるとき、弟が小さじ一杯ほどの灰を素早く紙にとって渡してくれた。骨は年が明けてから石狩の墓苑に移される。母がかなり早くに自分で買った墓である。葬儀の費用も母が生前に払って手配してあると母は私に伝えていた。火葬が終ると、弟はその日のうちに六時間ぐらいかかる自宅へ帰ると言った。着くのは深夜だろう。私の方は母の死から逃れるように翌日釧路を離れた。その事実から逃れようはなかったが、途方に暮れた気持ちを六時間の長距離バスの座席に預けることにしたのだ。札幌に行きそこから羽田へ向かうつもりだった。私は再び釧路の地を踏むことがあるだろうか。
私は母の死の直前、一粒とも言えない小さな涙を小指で拭いたことを時々思い出す。母は私とあの見習の看護婦との会話を聞いて、私の声を察知したのだろうか。看護婦があの時「耳はまだ聞こえるのですよ」と言ったではないか。私は何も言えなかったが、母はあの小さな一粒の涙を私に拭かせたのだ。
病院の廊下を一緒に歩きながら、母は言った。「もし人が死ななかったら、この世は人であふれてしまうでしょう。私のガンは骨髄腫ではなく、老年、ということなのです。死ぬことは生まれた瞬間に決まっていました。あまりたくさん悲しまないで下さい。ちょっとでいいですよ」
母は死を受け入れ、後に残る私を慰めていた。その潔さに私は胸をうたれた。
母のこれらの言葉は私に、死に臨んでは母以下であってはならないと思わせてくれる。
死後
エミリー・ディキンソン死後の朝
The Complete poems of Emily Dickinson, Faber and Faber, 1970, 筆者訳
家の中のざわめきは
地上で演じられる
最も厳粛な営み
さあ、心を掃き上げて
愛を片付けてしまいなさい
永遠まで二度と使うことは
ないでしょう
津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。