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「第5回 アイヌ語とアイルランド語」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

  昭和の三十年代に釧路市から旭川市に引っ越して来たばかりの頃のこと。韓国人の朴(パク)さんという人が時々訪ねて来て上がり框で母が話し相手になっていた。包丁を研いだり、壊れた傘を修理したりするのがこの人の仕事であったように記憶する。
 「あの人は故郷を偲んで『アイゴー』と言って泣くのよ」と母が言った。母は心から朴さんに同情していてこれは私にも十分伝染した。彼は樺太からの引揚者であったが、彼が言う所の故郷が樺太ではないのは言うまでもない。目の縁がいつも赤くただれていたので、小学生だった私はその人が泣き過ぎたせいだと思っていた。「アイゴー」が日本語でないのは私にもすぐに分かった。日本語でいうと「ああ」のような感嘆を表す言葉なのだろう。「アイゴー」。私に外国語と言うものを強く認識させた最初の言葉である。

 ほぼ同じような頃に私はアイヌのわらべ歌を聞き、意味がわからないまま憶えてよく歌ったものだった。これが二つ目の外国語だった。

ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ ヌンケクスネ

意味はずっと後になって分かった。

いいね いいね
今日は天気がいいね
どの子がいいか
選ぼうか

 こうして意味が分かった時、私はすぐに「はないちもんめ」を思い出した。子どもたちが二つのグループに分かれ、相手のグループの中の誰が欲しいかを相談して決める遊びである。民族が違っても、世界中の子どもたちは同じような発想で遊ぶようだと思った。ピリカ(pirka)は美しい、可愛い、良いと言った意味だそうだ。あのユニークな橙色のくちばしを持った鳥、エトピリカは私が言うまでもなく「美しい嘴」の鳥と言う意味のアイヌ語である。
 二〇〇八年にアイルランドから帰省した時、新千歳空港からレンタカーで釧路へ向かった。その途中、平取町二風谷にある「萱野茂 二風谷アイヌ資料館」を訪ねた。萱野氏が二十年かけて自力で集めたコレクションである。食費を奥さんに渡すと残りのお金でアイヌ民具を買いあさったという萱野さん。父親がお金の為に民具を売るのを祖母が嘆き悲しんだのを目撃したその瞬間、昭和八年のある冬の日、その日から、彼の収集が始まったそうだ。多くの展示品を眺めて、とりわけて印象深かったのは、「ゆりかご」に付けられた「シンタ」という言葉の音のかわいらしさだった。名前の音声と本体の用途が一致しているように思ったのだった。

 アイヌは自分たちの作った道具、作ったものの一点一点には魂が入っていると信じ、生き物として扱いました。…とくにゆりかごのような育児用具などは、精神の悪い人が作ると赤子が泣いてどうにもならないということです。

 シンタを作るのにもっとも多く使われたのはシケレペニ(きはだの木、北海道方言ではしころの木)です。この木は、木の皮の黄色い部分は傷薬になり……大切な育児用具をこの木で作ったのは、子どもが病気などせずに元気ですくすく育ちますようという願いがこめられていたものと考えられます。

(萱野茂『アイヌの民具』、すずさわ書店、一九七八年)

 「シンタ」で眠る赤ん坊はもういない。
 北海道の市町村の名の多くがアイヌ語の音を語源として漢字を当てたものである。たとえば愛別町(北海道上川郡)は愛と別れということで随分ロマンチックなイメージがあるが、語源は「矢のように流れの速い川」という説があるが愛にも別れにも関係がない。「別」は北海道の地名にとても良く使われているが、「川」と言う意味のアイヌ語に当てた漢字である。鮭の上ってくる川の傍に集落が出来るのは、最も自然なことであったろう。

 『アイヌ神謡集』が岩波文庫で発行されたとき、すぐ手に入れて読んだ。私はその不思議な世界に引き込まれた。

「銀の滴降る降るまわりに、
金の滴降る降るまわりに。」
という歌を私は歌いながら
流に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、昔のお金持ちが
今の貧乏人になっているようです。

(知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』、岩波文庫、一九七八年)

 これをアイヌ語から日本語に訳した知里幸恵は十九歳という若さで亡くなっている。『ピリカチカッポ 知里幸恵と『アイヌ神謡集』』(石村博子著、岩波書店)によると、校正を終えたその日に亡くなったということである。心臓が悪かったそうだが「神謡集」の翻訳は、彼女の命と引き換えに為されたような印象を私は持つ。この本はフランス語、ロシア語、エスペラント語、イタリア語、スペイン語そして英語に訳されている。

 アイヌ語とアイルランド語の共通点はどちらも「音声言語」であったことである。ゲール語の一種であるアイルランド語もアイヌ語と同じように、記録することより記憶することを選んだ言語と言える。アイルランド語はスコットランド語(スコッツ)、ウェールズ語(ウェールッシ)、マン島語(マニッシ)、コーンウオール語(コ―ニッシ)と同様にゲール語の仲間である。かなりアイルランド語を話す私の夫はスコットランド語を話すことは出来ないが、聞いた分には内容の想像がつくそうである。同じ仲間の言語だからであろう。

 五世紀にアイルランドにキリスト教が伝来するとアルファベットも同時に紹介され、それまで口承で伝えられてきた神話や英雄伝や民話が修道院の中でキリスト教の修道士たちによって文字に書き写された。一神教のキリスト教の聖職者が異端の神の物語を書き写したのは興味深いことである。
 アイルランドの地名の語源はどのようなものだろう。八世紀から十世紀にかけて、略奪と交易と移住という混合した目的でやって来たヴァイキングの言葉も残っている。たとえば首都ダブリンは彼らの基地として発展し、「黒い水たまり」と言う意味の彼らの言葉‘Dyflyn’と呼ばれ、やがてアイルランド語化されDubh (黒い) Linn (水たまり)となり、現在のDublin に落ち着いた。
 ダブリン北部のホース岬のホースはHowth と綴り、「頭」と言う意味のデンマーク語である。地形を表す言葉は目印になるので定着が早いようだ。
 その後十二世紀に、イングランド王、ヘンリー二世によってアイルランドの植民地化が始まった。それが全土に徹底したわけではなく、アイルランド語に関しては、十九世の初めの頃、アイルランドの人口の半数によって話されていたそうである。北海道の地名の場合と同じように、アイルランド語の音に基づいてそれを英語的に表記したものが多い。Cill(キルと発音)は「教会」と言う意味のアイルランド語であり、キルケニー、キルラッシ、キルデアのようにキルで始まる町や村の名が多くある。集落のある所に教会が建ったと考えられる。ただし、CillはKill と英語的に表記されている。
 アイルランド語の音から、英語の別の言葉が連想され使用された例もある。一つの例を挙げてみよう。ダブリンにはフェニックス・パークという公園がある。フェニックスとは英語で不死鳥であり、実際、この公園を貫通する道の中間辺りにあるロータリーには羽を広げた不死鳥の彫刻がある。この公園には透明な湧き水の出るところがあって、その辺り一帯はアイルランド語では「フィヨンイシカ」と呼ばれていた。フィヨンが透明、イシカは水である。イギリス人が「フィヨンイシカ」という音から連想したのは「透明な泉」とは全く関係のないフィニックス、不死鳥と言う言葉だった。

 アイルランド語を語源とする英語の言葉で、日本人でも知っている言葉がある。それはWhisk(e)y(ウイスキー)。細かい話だが、概してスコッチウイスキーの綴りには’e’がなく、アイリッシュとアメリカンウイスキーには’e’がある。「ウイスキー」はアイルランド語の「イシカ」をイギリス人が「ウイスキー」と発音したことから定着した言い方であり、アイルランドではもともとウイスキーは「イシカバハ」(Uisce Bheatha命の水の意)と言われていた。’U’で始まるために「ウ」と発音されてしまったのだ。

 アイルランドが独立後、元の名前に戻った例もある。たとえばQueen とかKingのついた名は元に戻されQueenstown はCobh(コーヴ) に、KingstownはDun Laoghaire(ダンレアリ)になった。
 イギリスの植民地になっても、アイルランド人は小作人である限り英語を話す必要がなかった。十九世紀の半ばまでアイルランドの人口の半分がアイルランド語を話していたのはそういう理由だ。それでイギリス政府は、一八三一年にアイルランドの小学校を国有化し、すべての教科を英語で教えることにした。それがアイルランド語を衰退させたのは当然のことであるが、これをさらに決定的なものにしたのが十九世紀半ばのジャガイモ飢饉である。百万人が餓死し、百万人が国を離れた。餓死した人と移住して行った人たちがアイルランド語の話し手であった。アイルランドに残った人たちもいずれ海外で働かなければならないことを想定し、英語が必須であると思い始めた。親は子どもに英語を学ぶことを奨励したのである。
 アイルランド独立時、アイルランド語を話す人の割合は、十七・六%であった。新政府はアイルラン語復活政策をとり、アイルランド語は小中高で学ぶ必修科目になった。アイルランド語を教える教師を特訓する為の夏期集中コースがあったそうである。
 アイルランド語はLeaving Certificate という大学入学資格試験の必修科目となっている。小学校から高校までアイルランド語で学ぶことも可能であり、Leaving Certificate をアイルランド語で受験すると得点が上乗せされるという特典さえある。限られた大学では、アイルランド語で学ぶ学科もある。一方でアイルランド語は日常的に使われていない言語であるため、言語の不得意な学生には不利になっていて、選択科目にすべきだという声もあがっている。
 若い頃に受験の為に学んだアイルランド語を晩年になって見直し、この言語の美しさを改めて認識し再び学んでいる、という声は度々耳にする。ラジオとテレビのアイルランド語によるチャンネルも存在する。しかしアイルランド語の将来と言うものに私は全く見当がつかない。
 アイルランド語を見たことのない方の為に、アイルランド語で俳句を作るゲイブリエル・ローゼンストック氏の俳句をここに書き写そう。伝統的なアイルランド語はアルファベット二十六文字のうち十八文字を使う。英語はローゼンストック氏自身の英訳である。

croí éadrom  クリー エードラム       
ag eitilt tríd an saol seo …      エグ エチュルト トゥリード オンセィル ショ
féileacán bánghorm       ファイラコーン ボーンゴㇽム

a light heart
floating through this world
a pale blue butterfly

(Poetry Anthology ‘Poems for when you can’t find the words’ Gill books Ireland, 2022)

重さなき魂
漂いゆきて
薄青の蝶

(日本語は英語から筆者の意訳)

 大正十五(一九二六)年生まれの萱野茂氏はアイヌ語で育った。その萱野氏はご自身の著『アイヌの碑』でこう言っておられる。

広い土地にでっかい幼稚園を建て、その園長に私はなりたい。園長はアイヌ語だけで日本語は絶対にしゃべらん。すると園児たちはあっというまにアイヌ語を覚えてくれると思うのです。

(萱野茂『アイヌの碑』、朝日新聞社、一九八〇年)

 萱野氏は二〇〇六年に亡くなられた。園長として亡くなられたのかどうかを私は知らない。韓国人の朴さんは、遠く離れた故郷を日本で偲んで「アイゴー」と泣いた。萱野氏は生涯、自分自身の故郷に住みながら故郷を偲んでいたのだった。

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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