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「第3回 仕事(その2)」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

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 日本語を教えるということは、まず自分が生徒になって学ぶことだった。
 日本語は省略がとても多い。特に二人の会話では、分かりきったこと、たとえば話し手の「私」と聞き手の「貴方」などは省略されて話が進んで行く。グーグルによる翻訳はそのために人称代名詞が全くひどいことになる。「私」が「彼」になったりするのだ。男性と女性の話し方や表現が違うのはどの言語でも共通だが、日本の小説を読んでいて「…ですわ」とか「…かしら」とあれば、話し手が女性であるのは言うまでもない。これを英語にすると性別は分からない。これもグーグル翻訳では正しく表れないに違いない。

 相手によって言葉使いを変えるのはどの言語でも起こるが、日本語では家族や友人に話す言葉使いと、目上の人や立場上、自分の上位にある人との会話での言葉使いがかなり違ってくる。私は、アイルランドで年齢を聞かれることが殆どない。日本では相手の年齢を確かめてから話し方の丁寧の度合いを決めようということなのか、年齢が絶えず問題になるようだ。北海道新聞文学賞を頂いたときも、新聞社に略歴として年齢を聞かれびっくりした。アイルランドで年齢が新聞に出るのは死亡通知の欄だけである。
 日本語の「兄」、「弟」、「嫁」などに相当する英語の単語は存在しない。例えば自分の兄弟を紹介するとき、日常的には人々は年齢の上下の分からないmy brother と使い、本当に必要に迫られた時しか、older  とかyoungerを付け加えない。年齢より先に個人と言うものが来るからであろう。イヴニングコースでは、私は慣習に従って「エリコ」と自己紹介し、生徒も私も下の名前で呼び合った。

 アイルランド人が他の国へ旅行するというとき、簡単な表現を学ぼうとして十週間のイヴニングコースに通うのはよくあることで、ダブリン市内ということで言えばスペイン語、イタリア語、フランス語などヨーロッパの殆どの言語を学ぶことが出来る。十週で簡単なことは言えるようになるのだ。それはとてもうらやましい現象だ。ヨーロッパの言語の多くはインド―ヨーロッパ語族に属しているし、ギリシャ語とラテン語の影響を強く受けていて語幹が同じ単語があり推測しやすい。その昔、私が英語学校に通っていた頃、同じクラスのスペイン人が、私から見ると非常に稀で難しい英語の単語を知っていたので、私が感嘆し誉めると、笑いながら同じ意味のスペイン語の単語を紙に書いて見せてくれた。殆ど同じだったのだ。

 ある国立大学にパート教師の仕事を得た時は、これで、もう夜働かなくていいと喜んだ。イヴニングコースは夜の仕事で、雨の多い冬の帰り道はとても寒かったからだ。ある時、この大学の期末試験の日程の変更過程で、一人の学生に連絡が行かなかった。それは全く私の責任ではなかったが、何かの誤解で上司が私を責めた。彼女は私の顔に唾がかかるような近さで怒鳴ったのだった。鼻を噛まれるような恐怖だった。こういう場面は外国映画で見たことがあるものの、自分に起こるとは思っても見なかった。決断が早い私は事情がよくわからないままにすぐ大学を辞めた。数日後、怒鳴った上司から電話があり誤解があったことを謝ってくれ、戻ることを誘われた。私は戻らなかった。そのあと私は本屋の店員としてしばらく働いた。ベイビーシッターの仕事もした。寝ている赤ん坊の傍で本を読もうという魂胆だったが目が離せない時期で、本を読むどころではなかった。高校で日本文化を教えたこともある。

 ダブリンに住み始めてまもない頃、全く知らない日本人の女性から、「ガイドやアシスタントの仕事がありますよ」というハガキを頂いていた。その頃、私はフラットと呼ばれる間借りの部屋に住んでいて電話もなかったのだ。この女性がどうして私の住所がわかったのか不明だったが、このハガキをきっかけとして時々、ダブリン市内のガイドの仕事をするようになった。ほぼ夏場だけの仕事だった。中世に建てられた教会、十六世紀に始まったトリニティ大学、その大学の図書館に展示されている八世紀頃に作られた聖書の装飾写本、ギネスの工場等に日本人観光客を案内する。案内は日本語でするが、手に入れられる情報は英語なので、まずそれらを日本語に翻訳して学ばなければならなかった。私に仕事を回してくれる代理店から、ガイドの公認資格を取るための養成コースがあるという知らせがあり強く勧められた。半年のコースだった。それでやってみることにした。参加者の多くは女性で、皆、英語以外の外国語を少なくとも一つは話す人たちだった。

 この養成コースは、広く浅く、地理、歴史、文学、農業、植生、建築、政治、独立蜂起などについてなど学ばなければならない。覚えなければならないことは無限大に思えた。試験の実技では褒められたが、筆記試験はうまくいったと思わなかった。それでもおそらくはギリギリで合格し観光庁公認ガイドのバッジを頂いた。一九九五年のことだった。夏の間、ガイドの仕事に就き、秋から春まで日本語を教えるというパターンがしばらく続いた。夏場だけとはいえ、ガイドの仕事は精神的に大変疲れた。夏が過ぎて次の夏が来ると、振り出しに戻った感じになり復習をしなければならなかった。説明の内容を深めたい気持ちがあるので、私の読む本の殆どがアイルランド関係になってしまい、文学書の多かった本棚がアイルランド関係の本に取って代わられた。私が一生で最も勉強した時期だった。一週間前後、ツアーの参加者と同じホテルに泊まり、夜の食事も一緒であった。やりがいはあり、自分自身もアイルランドについて広い範囲で学ぶことは大いに意義があった。資格を取ったとはいえ、北海道位の大きさのアイルランド全土を一週間から十日かけて見て回る。全ての場所に精通しているわけではない。朝早く起きて、その日の仕事のおさらいをする。ヨーロッパのホテルは部屋が暗く、バスルームが一番明るいので、便座に腰かけてその日のツアーの復習をしたのだった。緊張のあまり、夜は睡眠薬を飲まなければならなかった。

 私は説明ではアイルランドのいい面を強調した。それは私にとってごく自然なことであった。海外ツアーに多く参加したという方から聞いた話であるが、ガイドが自分の個人的な経験を一般化してその国の悪口を言うことがあり、それを聞くのはいい気持ちがしないということだった。「貴方はアイルランドを誉めちぎってくれたので来た甲斐がありました」と言った方がいた。私は耳で聞いて分かるように、出来るだけ漢語を避け和語を使い、話し言葉で説明をした。

 アイルランドの西の島、アラン島がツアーの中に含まれることがあり、その時私はバスの中でJ.M.シングの『アラン島』の中から特に好きな箇所を朗読した。私が使ったのは昭和十二年に岩波文庫から出版された、姉崎正見氏訳の『アラン島』である。これは旧仮名遣いであり若い人には古めかしいかもしれない。現在は、みすず書房から栩木伸明氏による新しい訳が出ている。シングが「アラン島」を訪れたのは二十代から三十代の初めであった。栩木氏は姉崎氏が「私」と訳した一人称を「僕」に変え、シングを若者に戻した。彼は三十七才で亡くなった。地主階級に生まれ不自由なく育った人だった。人間は自分が苦しまなければ、他者の苦しみが分からない、そう思っていた私は間違っていた。彼は鋭敏な感受性と想像力を持って、過酷な生を生き抜いてきた島の女たちへ深い憐れみを示した。洞察の鋭さ、庶民の生活への観察の細かさなど、まるで百年も生きて人間のあらゆる経験や感情に精通した人のような印象がある。彼は庶民の生活の中に、詩と哲学を見出したと思う。

今朝、ミサの後、ひとりの老婆が埋葬された。僕の家の隣に住んでいたひとである。昼前に一度ならず、哀悼歌(キーン)がかすかに響いてくるのが聞こえた。弔問客の邪魔になってはいけないと思い、僕は通夜に出るのは遠慮したが、昨日は宵の口のあいだ、裏庭から金槌の音が聞こえていた。……

 その朝は見事な晴天だったが、棺を墓穴に下ろすころには、頭の上で雷がゴロゴロ鳴りはじめ、雹がワラビの茂みにパラパラ音をたてて降ってきた。

 イニシュマーンでは、いやがおうでも人間と自然の間に共感関係があることを信じる気持ちにさせられてしまう。……

 棺が墓穴におさめられ、雷がクレア州の丘の彼方へ去っていってしまうと、さっきよりももっと激しい感情のこもった哀悼歌(キーン)が再びはじまった。

 哀悼歌(キーン)にこめられたこの悲しみは、八十歳をこえて死んだひとりの女の死を悼む個人的な嘆きではなくて、島に生まれた人間ひとりひとりの内面のどこかに潜んでいる、激しやすい憤怒の総体とでもいうものをふくんでいるように思う。この苦悩の叫びのなかに、島人たちの内なる意識が一瞬だけむきだしにあらわれているように思うのだ。また、この叫びには、風や海を武器にして人間に戦いを挑んでくる宇宙と向かい合って孤独感を感じている人間存在のすがたも、あらわにされているようだ。島人たちはふだんは物静かだが、死に直面すると、うわべによそおっている無関心や辛抱強さをすっかり忘れ、誰ひとりとして免れることのない運命の恐ろしさに向かって、あわれな絶望の叫びをあげるのである。

J.M.シング、栩木伸明訳『アラン島』みすず書房、2005年、56頁)

 私は好きなアイルランド人作家の好きな箇所をツアーバスの中で朗読することで自分の仕事の一部を文学に結び付けようとしたのだった。「日本に帰ったら『アラン島』を読んでみます」と言って下さる方もいた。

 ガイドの仕事をしている間、私は好きな文学書をあまり読めなくなった。「こんなことをしている場合ではない。もっとアイルランドについて深く勉強しなくては」という強迫観念があった。百のことを知ってそのうちの十ぐらいを駆使するという余裕で私は仕事をしたかったからだ。日本語を教えることと同様、ガイドの仕事も準備が無限にあった。七年後にこの仕事を止めた時は、真底ホッとした。私は自分の好きな本が自由に読めるような精神状態になった。

 母がガンと知らされたとき、私は個人教授で日本語を教え、また女子高で日本文化を教えていてそれなりに楽しんでやっていたが、すべての仕事を辞めて日本に行った。母の病気は長引くかもしれないと思ったからだった。五か月で、母は逝ってしまった。

 私は今は年金受給者として暮らし、「書くという仕事」にやっと辿り着いたところだ。いくつかの仕事を転々としたが、書くということは底流としていつも私の気持ちの中にあった。
 五月(二〇二三年)に日本を訪れ、行きの機中で『インド巡礼日記』を、帰りの機中で『ネパール巡礼日記』を読んだ。いずれも詩人、山尾三省の著で、十四時間という長い飛行時間が「巡礼」のように感じられた。後者に山尾氏の友人、宮内勝典氏が「永遠の道は曲がりくねっている」と言う題であとがきを寄せている。「永遠の……」と言う語句は私に深い感慨をもたらし長いこと目が離せなかった。私自身の永遠の道もずいぶん曲がりくねっていたと思うのだ。

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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