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『子どもの本棚』3月号に『わかな十五歳』の著者わかなさんが寄稿しています。

『子どもの本棚』3月号に『わかな十五歳』の著者わかなさんが寄稿しています。

【掲載元】 一般社団法人 日本子どもの本研究会『子どもの本棚』お届けについて)※外部ページへ移動します

本文をご紹介します。

2011年から干支が一周した12年目に伝えたいこと
わかな

私は福島県伊達市に住んでいました。当時私は15歳で、2011年3月11日の午前中は中学校の卒業式の日でした。午後自宅に帰ってから、東日本大震災を経験しました。もうこの世の終わりだと思った揺れは今でも鮮明に覚えています。
その後、原発事故を経験し、同年5月に山形県に家族で自主避難しました。私はあの日まで、周りの大人を信じて生きてきました。
しかし、あの日を境にして「大人」とはなんだろうかと思いました。「大人」すら右も左も分からないほどに翻弄されおり、私を含め当時の子どもたちは暗黙の了解の元、「大人」の顔色を伺いながら生活していました。

2021年に『わかな15歳』を出版しました。この本は当時子どもだった私があの時何を見て、何を 感 じ た のか、を書き記し た 本 で す。
本の中でも触れていますが、私が今でも忘れられないのは、当時の学校の先生の言動です。逃げることを決めた私に対し「お前が行くと風評被害が広まる」と言ったり、高線量の放射線量の中、外で高校の合格発表を実施することに「合格発表をやらないで下さい」と意義を申し立てた先生が校長から「いや、やる、やらないと俺のクビが飛ぶ」と言われたことなど、強烈な出来事が数多くありました。

命を守るはずの大人たちが、あの時、世間体や自分の首を優先して子どもの命を二の次三の次にしたことが、当時15歳の多感な時期の私にはあまりにもショックでした。子どもを守る、命を守る、友達を大切に、いじめはダメ、嘘はつくな、と言葉では言いながらも、実際にはその言葉とは逆の現実が広がっていました。山形に引っ越してから、学校の先生のみならず、親や国の役人、多くの「大人」が実はその矛盾を抱えていることを知りました。

そもそも、原発自体も「危険だ」と分かっていながらも「安心安全安価」だとして推進してきていたのです。(福島県双葉郡にあった「原子力明るい未来のエネルギー」という看板はそれを象徴する1つの例だと言えます。)その「見て見ぬふり」を数多くの人が当たり前にしているのではないかと私は思うようになりました。

実際、周りの「大人」は「それが社会の厳しさだ」「仕方がない」「子どものお前にはわからない」とすら言っていました。しかし、私には納得できないことで、27歳になった今でもこのことについて納得出来ずにいます。
「大人」が次世代のために、と豪語していることも蓋を開けてみればそれは現世代と前世代が残した負の遺産の押し付けでしかありません。もちろん、精一杯やってきた大人も沢山いますし、私もそうした大人に助けられて今ここにいます。一度「大人」への信頼を失い、自死を思い立った人間がこうしてここに生きていることは私にとって奇跡です。私があの日からここまで生きてこれたその理由は、本当の意味で愛のある人達と出会うことが出来たからです。「大人」だからと威張ることも背伸びをすることも無く、等身大で人として対等に関わってくれる人達との出逢いが、私を救ってくれました。

私は今の子どもたちに必要なものは大人からの愛と信頼だと思うのです。それは子どもたちが「生きる」力を育むために必要不可欠なものだと思います。目の前で起こっていることを考え抜く力と、想像力と創造力が必要なのです。
確かにこの生き方は辛い生き方かもしれません。心の眼を開いたままに生きていくことは、時に残酷な事実とも向き合わねばならないからです。しかし、この生き方をまず「大人」が選びとることで子どもたちはその姿から学びます。「生きる」ことから逃げている「大人」を子どもたちは見極める力を持っています。これは、本当にその大人が信頼出来るに値するかどうか見極めることができる、ということです。

子ども、そして自分自身を裏切ることなく、誠実に命(生きること)と本気で向き合うことで、この世の中はもっと良くなるだろうと私は確信しています。
大人が諦めれば子どもたちも諦めます。どうせ社会なんてこんなもんだ、と卑屈に生きる「大人」の姿は、子どもから見ても退屈なだけです。変えよう、生きよう、というほんの少しの勇気と志が、大人と子どもを愛で繋ぐ手がかりになることでしょう。

今生きることが辛い人、どうしたらいいかわからない人が私の本を手に取って、自分自身の中にある「生きる」希望を見出してくださることを心から祈っています。

▼『わかな十五歳』の詳細はこち

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