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「第1回 出国」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 一九八九年の夏、アイルランドへ行く為に旅行代理店から私が買ったのはパキスタン航空の切符だった。十八万九千円だったと記憶している。これが一番安かった。片道だからその半分だと思った。当分帰って来るつもりはなかったのだ。ところが代理店の人に往復も片道も同じ値段だと言われて随分がっかりした。これが三十三年前の通常だったのだ。カトリック教会の聖書講読会で出会い親しくなった人が成田まで一緒に来てくれた。

 外国文学を多く読んでいた私は、聖書をもっと理解しなければならないと常々思っていた。ところが私を最終的に教会へ向かわせたのは日本の小説、島尾敏雄の『死の棘』だった。他の作品がしばらく読めないほど圧倒された。意識的にひらがなを多く使っているこの書き方は、「知」を破砕し、裸になって救いを求める主人公の具現のように思われる。「死の棘」と言う題名が新約聖書の「コリント人への第一の手紙」の中にある「死よ、汝の棘は何処にかある」に由来していることを知った時、聖書を読むということへの思いは深まった。島尾敏雄はこの作品の執筆中にカトリックの洗礼を受けている。私が『死の棘』を読んだのは、単行本の出版から既に二十年も経っていた。当時、島尾氏は茅ケ崎に住んでいた。私は茅ケ崎の隣まちに住んでいて海岸沿いに茅ケ崎の方へ散歩することがよくあった。ある日、彼の名の表札のある家を通り過ぎた。それが偶然であったのか私が見つけようとしていたのか、今では記憶がはっきりしない。彼を訪ねてしまったのだから、多分、後者だろう。思い出すだけで顔が赤くなり汗が吹き出る思いだ。後にも先にも私が作家を訪ねたのはこの時だけである。玄関先での立ち話だった。自分が何を話したのか全く憶えていない。ただ、私が去るとき、島尾氏は「教会へ行ってみたらいいですよ」と言ったのだった。

 カトリック教会での聖書講読会に参加したのは、結局、島尾氏の言ったことを実行してみようと思ったからだった。あるカトリック教会で聖書講読会が始まることを知り、それに参加を申し込んだ。その教会は、当時は「コロンバン会」というアイルランドに本部を持つ宣教会から派遣されているアイルランド人神父が多かった。
 アイルランド人神父による聖書講読会の初日、この神父は黒板にアイルランド全土の簡単な地図を描き「ここが僕の生まれた所です」と言って印をつけた。彼はなぜこのようなことをしたのだろう。自己紹介のつもりだったのだろうか。「ひどく痩せた土地で、イギリスも関心を持ちませんでした。だからそこではアイルランド語も残ることになったのです」
 神父がまことに不思議なアクセントの日本語でそう言った時、私は「イギリスが関心を持たなかった痩せた土地」なるものを見たい、そしてそのためにその地域で残ることになった「アイルランド語」というものの響きを聞きたいと思った。私をアイルランドへ駆り立てた理由はいくつかあるが、これがその一つである。私は決断が早い。言い換えると衝動的である。そのために他の人の何十倍もミスの多い人生だった。「人生だった」と過去形で言っているが私はまだ生きている。犯したミスは永遠に自分の心の中に、清算できないものとして残る。衝動的な人間はこうして「かたのつかないもの」をいくつも抱えることになる。一人の人間の決断が間違いであったか、そうではなかったのか、その判断は難しいにしても。
 アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスは『若い詩人の肖像』で主人公、スティーヴンにこう言わせている。

 ぼくは一人きりになることを恐れていない。他人から追い払われることを恐れていない。別れなければならないどんな者とも別れることを恐れていない。あやまちを犯すことも恐れていない。どんな大きなあやまちだろうと、一生つづくあやまちだろうと、永劫につづくあやまちだろうと。

(ジェイムズ・ジョイス、丸谷才一訳『若い芸術家の肖像』、講談社文庫)

  何度も読んだこの本はもうボロボロになっている。読むたびに私はこの果敢な青年を賞賛し同時に恐れる。「永劫につづくあやまちを恐れない」などと言うことが可能だろうかと。
 さて、神父が描いた地図には一本の国境が描かれていた。北海道とほぼ同じ大きさを持つアイルランドには二つの国、イギリス領北アイルランドと、南のアイルランド共和国がある。神父の故郷は、地理的にみると北アイルランドからも本国アイルランドからも仲間外れにされているように見えた。そこはドニゴールと呼ばれる地域だった。

 私を送ってくれた人が成田空港を去って一人になった時、私の便が遅れるというアナウンスがあった。しばらくして便はキャンセルになった。パキスタン航空がその晩のホテルをあてがってくれて乗客は何台かのバスに分かれ、新宿のホテルへ向かった。もう深夜だった。車窓から見る都会の灯がどんなにかきれいに見えたことだったろう。そのバスの中で私が思ったのは「私の人生には、当分、何の予定もなく、一日、二日飛行機が遅れたところで何の問題もない」ということだった。何の予定もない人生、ひょっとしたらそれが私の最終目的であったようにさえ思われた。私は早々と初日に、その目的に辿り着いたのであろうか。そして私がこのバスに乗っていることすら知っている人はいないのだった。いつかの時点で最終地点ダブリンに着けばよいのである。遅れるということによって生じる支障がないのだ。遅れを誰かに連絡する必要すらもない。こんな状況が自分の人生で今まであったろうか。自由ということである。母にはダブリンで落ち着いたら手紙を出すということになっていた。それはひと月位先のことだ。
 その晩は、日本人の二十代と思われる若い女性とホテルの部屋をシェアした。彼女はロンドンで英語学校へ通うらしい。私より十歳以上若そうだが物腰に迷いがなく、体が大きいせいもあって私は彼女に頼るような気持ちになっていた。
 翌日、イスラマバードへ飛んだ。私は従来、大の飛行機嫌いで飛行恐怖症を持っているが、不思議なことに、この時ばかりは、少しも怖くなかった。機内では買ったばかりのウォークマンにモーツァルトの「レクイエム」のカセットテープを入れて聞き、アイルランド人の父を持つラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の随筆集を読んだ。どれぐらい時間が経っていただろうか。窓側の私の座席から、荘厳な山の連続が見え始めていた。ヒマラヤ山脈だ。私は切符の値段ばかりを気にし、イスラマバードへのルートのことなどは全く念頭になかった。中国を横切り、ヒマラヤの上空を飛ぶのだ。チベット、パキスタン、インド、ネパールというヒマラヤにまたがる四つの国を私は同時に見ているのであろうか。目が離せなかった。エヴェレストを見分けることはできなかったがヒマラヤを見ることができたのは、私の人生の幸運の一つだった。
 一九二四年にエヴェレストで遭難したジョージ・マロリーが、どうして山に登るのかと新聞記者に聞かれ、「そこに山があるからだ」と答えたという。母はそれを新聞か何かで読み、まだ子どもにすぎなかった私に話してくれたことがある。母はマロリーの言葉に随分感心したようだった。私はその時「ふーん」と思っただけだった。「ふーん」と思った子どもは今、思う。「なぜ山へ」と人は詮索するが、実際は登っている本人にも本当の理由は分かっていないのではないかと。人は、見たことのないものを見たいと思い、行ったことのない国へ行きたいと思う。「そこに山があるから」と言うのは「ただそれだけのことだ」と言っているのだ。
 イスラマバードでロンドン行きに乗り換え予定だったが、その便はその日は飛ばないことになり、イスラマバードで泊まることになった。予想していなかった二泊目であった。先の予定がなければ遅れるのも面白いものである。空港内には軍服の人が多かった。私のウォークマンの電池は没収されてしまった。空港内の宿泊所へ案内され、新宿のホテルで一緒だった女性と再び部屋をシェアした。食事が部屋まで運ばれてきた。辛すぎて、辛いものの大好きな私でさえ食べることができない。宿泊所の外へ出てみると、頑丈な金網が高く張り巡らされている。空港の敷地内から出ることはできない。金網の向こうから一人の男性が私に紙切れを渡したがっていた。彼の悲しげな眼と必死な様子から無視できずに、近づいて行って紙切れを受け取ると、それには英語で「私はイギリスで働きたいのです」とあり、彼の住所が書いてあった。ロンドンへ行くという同室の女性に渡そうとも思ったが、彼女がこのパキスタン人を助けることができるとは到底思えなかった。私はアイルランドに住むようになってからも、この紙切れを長い間捨てることができなかった。
 ロンドンヒースロー空港に到着し、そこからアイルランド国営(当時)のエアーリンガス機に乗り込むと、機内がもうアイルランドだった。二人のキャビンアテンダント(当時はスチューワーデスと呼ばれた)は茶色の髪に白髪が混じってどちらも五十代後半に見える。中年の女性がキャビンアテンダントとして働くのを見るのは強烈に新鮮だった。そういう国に私は住むのだ。機がダブリンに到着すると、機内から拍手が起こった。今ではなくなってしまったが、あの当時、アイルランド人乗客は自分の国に着陸すると誰からともなく拍手する習慣があった。機長を讃えてということらしい。嬉しい時に幼児がするあの両手を合わせて叩く仕草を私も慎ましく指先でそっとした。着陸した時、私は思った。たとえそこで三日しか生きていけないとしても、まず着いたことは着いたのだと。

 人間の魂がこの国に生れ出るとき、それが飛翔してしまわないように引きとめる網がいくつも投げられる。君はぼくに、国民性や、国語や、宗教のことを話してくれるけど、ぼくはこういう網をかすめて飛び立とうとしている。

(ジェイムズ・ジョイス、丸谷才一訳『若い芸術家の肖像』、講談社文庫)

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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