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「第2回 仕事(その1)」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

   一九八九年一月七日、昭和天皇が崩御し昭和が終わった。六月、中国天安門事件のニュースを日本で見た私はその年の終わりに近い十一月に、ダブリンでベルリンの壁の崩壊のニュースを知った。天安門とベルリン、この二つの事件は、いずれも自由と民主化を求める画期的な出来事であった。
 さて、その年のアイルランドでは何が起こっていたのだろう。失業率が一九パーセントだった。アイルランドの慢性の不況、これが大きな事件だった。私はそれを知っていた。

「貧しい国の方が生きていきやすい」

 具体的な成算もなしに見切り発車した私は、漠然とそう思っていた。貧しい国に行って貧しい人々の仲間になる方が、豊かな国へ行って金持ちの一人になることよりずっとやさしいではないかと。
 パブはいつも混んでいた。失業手当は飲み代に消えるのであろうか。人々は、パブでは絶えることのないおしゃべりを楽しんでいるように見えた。パブへ足を踏み入れると、蜂の巣の中にでも入ってしまったと錯覚させた。人々の話し声が一つのうなりとして聞こえたのだ。それにしても一九パーセントという数字は、アイルランド人のできる仕事が外国人に回ってくるはずがないと思わせる。それでも私はその時、非常に楽観的だった。というよりやけっぱちだった、と言うのがもっと正確だろうか。野垂れ死にしたっていいや、というような気持ちだった。それはある場合には、ある意味で強みと言えるかも知れなかった。一生を通して、私の中には、いつもそういう一種悲愴な捨て鉢な気持ちがどこかに隠れていた。母だけはそれを知っていたのかも知れない。「私より先に死なないで下さい。あなたに望むのはただ一つ、それだけです」と何度か私に言ったことがあった。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

(室生犀星『抒情小曲集・愛の詩集』講談社文芸文庫)

 室生犀星のこの詩は彼の故郷、金沢で書いた詩であり、これには彼の故郷に対する屈折した思いが織り込まれている。彼は故郷へ舞い戻ったことを悔いていたのだろうか。初めてこの詩を読んだ時、「異土の乞食」を「イドのカタイ」と読ませているその音の響きを異様に感じた。「見知らぬ国で乞食(こじき)になっても」と言ってもいいものを、「イドのカタイになるとても」と言うのは、襤褸(ぼろ)を身に着け野ざらしになった瀕死の己という自己被虐の印象があり、外国語の響きすら感じさせる。
 見切り発車をした私にとって、アイルランドはまさに「異土」だった。これを皮切りに私はできるだけ多くの「異土」を渡り歩きたいとひそかに願っていた。実際にはダブリンにすっかり根を下ろしてしまったのだが、さらなる異土を私はまだ心のどこかで探し続けている。
 移住当時、外国で生きていくために必要なものが私にはずいぶん欠けていたが、英語力もその一つである。三十三年前には自分の生活を支えるに足るレベルの英語力を持っていなかった。同時にそれは誰かの対抗者、あるいはライバルになるということもないということであり、助けられはしても敬遠されることはないといういい面もあったと思う。
 レストランなどで皿洗いをする覚悟も十分あったが、最初に得た仕事は日本語教師だった。全く思いがけないことに、それは日本人の子どもたちだった。「日本語補習校」と呼ばれている学校があり、そこでは英語が必要ではなかったのだ。ダブリンにはヨーロッパの他の首都と同様に、日本企業がいくつか進出している。三年から四年、アイルランドで暮らす日本人家族がいて子どもたちは平日、地元の学校へ通い、土曜日に「日本語補習校」へ通ってくる。自分の教員資格が海外で役に立つとは全く考えていなかった。また「補習校」で教え始めたことが縁で、大学入試を控えている高校生の国語の家庭教師の口もすぐに持ち掛けられた。父親の赴任で海外へ出てそこで数年暮らす児童、生徒たちは、帰国してからのことを考えないわけにはいかない。補習校は親たちの藁にも縋る気持ちから始まったものだ。当時、「帰国子女」への特別枠などはなかった。
 補習校で教え始めて二年が過ぎた頃のこと。小学校の低学年を受け持っていた。子どもたちは平日に通う地元の学校とは違って、日本語で自由に話せる学校を楽しんでいた。開放感があったのだと思う。小学生にとっては高校入試もずっと先のこと。私が受け持ったのは教室にたった五人の男の子たち。参観日、その子たちは授業中、使われていない机の上をぴょんぴょん飛び回った。私に権威と言うものが全くない。親たちはびっくりしたに違いない。私は教室で叫んだりすることができない先生だった。その時の途方に暮れた思いを振り切ることができず、二年勤めた補習校を去った。
  その後、夜の「イヴニングコース」(成人のための夜間教室。語学以外にも、水彩、料理、古い家具の修復など多くの科目があり、誰でも気軽に受講できる)で日本語を教え始めた。ダブリン市内のあちこちで開かれており、日本語のネイティヴ・スピーカーを探していた。外国人に日本語を教える資格など問われたことはない。日本人であるということがそのまま資格になるのがおかしかった。クラスには必ず、ヨーロッパ人が混じっていたので正確にはアイルランド人にというよりは、外国人に教えた、と言った方がいい。私は、国語教師の免許を持っているが、それは日本人の中高生に教える資格であり、外国人が対象ではない。教師としての経験は役に立ったと思うが、外国人相手の全く新しい仕事である。特に初心者に教えるためには、ある程度の英語が必須である。文法などは英語で説明しなければならない。外国人に教えた経験がないため、英語で書かれた日本語学習のテキストを片っ端から読み、付け焼刃で学んだ。ページに次ぐページを暗記した。これもまた見切り発車であった。授業の準備はまず形容詞、副詞、目的語、接続詞、助動詞などを英語で何と言うのか、というところから始まったが、いざ授業を始めてみると、英語を話すネイティヴでも助動詞(an auxiliary verb)などという言葉を知っている人はいなかった。やはり、私は、中学、高校時代の文法に力を入れた日本の英語学習の影響を強く受けているのだった。
 イヴニングコースの場合、週一回、二時間のため、いくつかの学校を掛け持ちしなければまとまった収入にはならなかった。語学を学ぶということは、読む、書く、聞く、話す、の全てを含むのであるが、日本語の場合、先に文字を紹介すると生徒はすっかり恐れてしまう。実際、全日のコースでなければ、初めから文字を教えることは生徒を怯えさせるだけである。コースはたいてい十週間であり、二十六文字のアルファベットで何でも言え何でも書ける人たちに、ひらがなとカタカナで九十二字、常用漢字、約二〇〇〇字のうちのいくつかを短期間に学ぶことを期待するのは、全く無理と言うものだった。
 たいていの参加者は、日本語に対する好奇心から、あるいは旅行するので簡単なことを言いたい、と言った気楽な気持ちの人達だった。それで、ヘボン式ローマ字で書かれたテキストを使った。テキストには「です」が desu と記述されている。私が「です」と言うと、それに対して、皆が言ったことは、desuの「u」は音としては存在してないということだった。たしかに! これがローマ字で書かれた日本語についての最初の発見だった。りゃ、りゅ、りょ、の発音が難しいという。良二さんと言う名の日本人とお付き合いしているアイルランド人女性は「りょうじ」の発音ができないので、彼をジョージと呼んでいた。
 私は、自分のやり方として、初めの頃に多くの形容詞を教えた。「おいしい」「忙しい」「寒い」「うれしい」など、自分の真実の感情と繋げられる言葉は早く覚えることができる。単語を覚えるというのは、どのような言語を学ぶのであれ、もっとも重要なことだと思う。耳で入って来た単語を多く知っていると、日本語のひらがなを読み始めた時、最初の一文字を読んだ時、次の文字の読みの推察ができる。何と言ってもこれが重要なことだ。
 とてもおかしかったのは、生徒が「どうして、日本語では scary (怖い)と cute(可愛い)が同じなのですか」と言ったこと。「 怖い」と「可愛い」は同じように聞こえるという。それに「美容院」と「病院」も同じに聞こえるという。こういう発見は愉快だった。また私は、生まれて初めて、「こんにちは」や「さようなら」や「よろしくお願いします」の本来の意味というものを考えた。教えるためにまず自分が学んだ。自分の言語と言うものは理屈で覚えたものではない。だが大人たちは、赤ん坊のように学ぶことはできない。文化的背景への理解は、言語を学ぶことの一つの側面でもある。外国人に教えるために、言語の背景への私自身の理解がまず必要なのだった。
 また、日本語と英語の発想や構造の違いというものを考えるのは興味深かった。日本語と英語の構造で一番の違いは、言うまでもなく英語の場合、動詞が先の方に来るということ。動詞は文の中で最も重要なもの。日本語はその重要な動詞が最後に来る。英語の否定語の例えばdon’t は動詞の前に来るので、文の中ではかなり前に置かれる。一方、日本語では否定語は、後の方に来る動詞のさらにその後に来るので、文の最後まで聞かないとあるいは読まないと、最終的な結論に行き当たらないということになる。否定が最後の方に来るというのは、聞く相手にある程度の結論の予測と準備の時間を与え、相手を気遣う印象がある一方で、大事なことを先に引き延ばす慎重な態度。英語は決断や結果を早く伝える。どちらがいいということではなく、動詞一つにも民族の発想の違いが表れているように思う。

 因みにアイルランド語では文は動詞で始まる。人が話すとき、また読むとき、「見た」「行った」というような動詞から始まることがどんなに劇的であるかを想像していただきたい。アイルランド語はアルファベットがもたらされるまで音声言語であった。動詞が先に来るのは、聞く者の注意を引くということが第一義になるからだろう。「昨日、友だちと一緒に映画を見ました」と言うのを

「見ました」

から言い始めたとしたら……聞く人の注意を引きつけることは疑いようがない。
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津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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