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「第4回 異国での出産」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 アイルランドは国民の九十五%がカトリックである。長い間、ローマカトリック教会によって避妊が禁止され、子沢山の国だった。二〇二二年の出生率は十一・三(人口一〇〇〇人当たり。因みに同じ年の日本は一・二である)今、六十代以上の人は十人ぐらいの兄弟姉妹がいるというのは普通のことである。
 一方で、未婚出産へのむごい差別と制裁があったのは、そんなに遠い昔のことではない。私のアイルランド人の友人はパリの芸大に留学中に妊娠し、アイルランドの両親の元へ大きいお腹で戻ってくると、世間体が悪いと言って翌日には追い返されたと言った。それは彼女のトラウマになっている。一九六〇年代のこと。今では、母子家庭への政府からの援助金があるために故意に結婚しないケースさえあるが、未婚の女性の出産にまつわるたくさんの悲劇があり、まだ当事者は存命している。

 どの国にも隠したい歴史上の醜い事実がある。アイルランドは他国を侵攻したり異なる宗教の人を迫害したりしなかった国である。そのアイルランドにも恥部と見做される歴史がある。未婚で出産した女性と彼女らから生まれた子どもたちの扱いである。かつてはアイルランド全国に未婚女性の出産する施設があり、多くはローマカトリックの女子修道会によって運営されていた。
 一九九六年に閉鎖されたマグダレン洗濯所(Magdalene laundry)はこうした女性たちが長時間、過酷な労働を強いられた場所である。入所するときに髪を切られ、洗濯をするということで自分自身の罪をも洗い清めるという意味合いが押しつけられていた。洗濯所は商業的に運営されていたが彼女たちは無報酬だった。

   アイルランド西部のチュアムという町の郷土史家が、その町にかつて存在していた「未婚の母と子の家」の施設から七九八人の新生児、乳児、幼児の死亡記録を発見した。二〇一二年の大きなニュースであった。この夥しい数の死亡は一九二五年から一九六一年の僅か三十六年の間に起こっている。栄養失調や疫病が死因であるが、死亡率のあまりの高さに、犯罪の可能性も残されている。その施設のあった所から人骨が発見されることは以前から知られており、地元民には、それらは十九世紀半ばの飢饉当時の犠牲者ではないかと思われていた。実はそこで生まれた赤ん坊や幼児たちの骨だったのである。アイルランド政府は遺骨を採掘し、DNA鑑定することを決めたが、まだその作業は始まっていない。
 この施設が設けられた一九二五年と言うのはアイルランドが独立して間もない時で、イギリスから独立したものの、行政の組織が整っていないため、それまで国民の誕生、教育、結婚、死を取り仕切ってきたカトリック教会が実質的な政府となったと言える。司祭や修道女たちは「権威」を持っていた。「権威」と言うものが、家族を持たない彼らの拠り所でもあったように思える。政治的な権威とモラル上の権威である。人間は弱い生き物であり、その人間が行使する「権威」には腐敗の属性が宿っている。腐敗の犠牲者は弱い立場にある女性や子どもである。性に無知な十代の少女たちも多くいた。レイプで妊娠した女性も同じように扱われたということである。生まれた子どもは母親の許可なくアメリカへ養子に出された。私がアイルランドへ移住して以来、教会にまつわる多くの非道な行為が明るみに出された。アイルランドの病院には看護婦が今でも修道女と同じように「シスター」と呼ばれる習慣が残っているところがある。「シスター」のいる病院で私は出産することになった。

 ダブリンで暮らし始めて間もなく、私は子宮筋腫の手術をすることになった。お腹を自分で触って分かるほどにそれは大きくなっていた。環境が変わり、自分の意識していないストレスがあって急速に大きくなったのかも知れなかった。最初に私を診てくれた医者が「貴方が私の妹なら、自分の国に帰ることを勧めますよ」と神妙に言った。外国で手術を経験するのも面白いと思ったので私は帰らなかった。
 手術をする病院の受付で、まず宗教と宗派を訊かれたのが、その面白いことの手始めだったと言える。とりあえずカトリックと答えるとカルテに「カトリック」と書かれた。患者が病院で死にかけた、あるいは死んだときには、まずカトリックかプロテスタントの聖職者が枕元に呼ばれるので、こういうことが問題になるのだろう。私は「第1回 出国」で書いたように、日本で聖書を学ぶグループに加わったあと、かなり迷いながら洗礼を受けていた。試みとして信じてみよう、ということであった。 
 アイルランドに来てから教会に行くのは親戚や友人の結婚式の時だけであり、真正の信徒であるかどうかは怪しいものである。イエス・キリストを尊敬しているがブッダも尊敬している。宗教を訊かれたあと、「英語を話しますか」とも聞かれた。「はいちょっとだけ(オンリー・ア・リトル)」と言うと、その通りカルテに「彼女は少しだけ英語を話す」と書かれた。私の英語のレベルは確かに「少し」ではあったが、カルテにそんな風に書かれると悔しい気もした。子宮摘出の可能性があり、文書に承諾の署名をしなければならなかった。覚悟はできていた。

 手術のあと、麻酔の覚めた頃、手術を執刀した医者が病室に来て、子宮が残ったと言った。筋腫は外側にありオレンジの皮をむくみたいでしたよ、というのであった。このイメージはなかなか生々しく、オレンジをむく度に思い出されるので別の言い方にしてほしかった。

 翌々年、私は出産した。大きいお腹で結婚した。相手はアイルランド人。ダブリン市の結婚登録所で登録を済ませた。高齢初産だったが全く問題なく出産に漕ぎつけた。ただ逆子であったため、帝王切開になった。驚いたのは、下半身麻酔と全身麻酔、どちらがいいですかと聞かれ、選択肢があったことだ。意識が覚めている下半身麻酔の方を私は選んだ。女性の麻酔医が麻酔の注射をした後、それが効いているかどうかを確かめるために、私の腿にピンを刺して、「痛いですか」と聞いた。「痛くないです」と私が答えると「テキストブックを読んだのですね」と言った。その意味が分からなかった。それは、麻酔は効いているべきであり、「テキストブック通り」という意味のユーモアのある言い方だったのに、私はそのユーモアがすぐにわからず、ずっと後になって分かったのが今でも残念でたまらない。

 帝王切開の手術室では、私の目の前にはカーテンがかかっていて見えなかった。大きな泣き声が一度だけ聞こえた。医者が「女の子か男の子、どっちだと思う」と私に聞いた。「男の子」と答えると「当たり!」と言う返答だった。その言い方がおかしかったので笑ったが、同時に涙も一粒流れたのが分かった。ずっと私の傍に付き添ってくれていた麻酔医の女性がその涙を彼女の指で拭いてくれた。彼女は行きずりの人だ。二度と会うことのない人の優しさ。思い出すたびに私はこの人の前に跪きたい気持ちになる。ざっくばらんな雰囲気の中で子どもを出産できたことは幸運であり素晴らしい思い出だ。妊娠した時、すぐに男の子だという直感があって、私は名前も「太郎」と決めていた。医者に「当たり!」と言われて感動した。切開の縫合が行われている間、太郎は誰かに洗ってもらい、その上、予め暖められた毛布に包まれて私の所にやって来た。暖かい毛布に触れたその時の驚き。私の知らない誰かによって準備されたもの。直接感謝する機会もないまま通り過ぎる誰かの親切。誰かが仕事として、赤ん坊を包む毛布を毎日暖めている。だが私にとっては一生に一度受け取る親切であった。親切と言うのは人間が受け取る最高の物だ。
  息子の初印象は「目元が私の母に似ている」と言うものだった。赤ん坊の未だ世の中を見ていない無垢の目が、人の世のさまざまを見た私の母の目を思い出させるとは不思議なことだ。多くを求めず多くに耐えて、絶えず他者に優しかった母の生き方を、彼女の稚気とも言えるような黒い目の悪戯っぽい輝きと共にあらためて考えさせられた。

 夫は出産に立ち会うことが許されていたが、病院へ向かう途中、車のガソリン切れで立ち往生し、二時間も遅れて病院にやって来た。息子は既に生まれていた。「よりによって」と私は落胆したが、走っている途中でのガソリン切れはその後、何度か起こっているので、これは全く彼らしい出来事だった。
 私は、六人部屋にいたので、同じ頃に生まれた他の赤ん坊を見ることが出来た。どの赤ん坊も髪の毛無しの坊主頭で生まれてくる。毛が金髪の場合は坊主に見えるのかもしれない。太郎にはふさふさの黒い髪があり、ヨーロッパ人の血が混じっているように見えなかった。他の病室からわざわざ「ジャパニーズベイビー」と言って見に来る人たちがいた。おむつを取り替えるとき、蒙古斑があるのが分かった。私の部屋には六人のお母さんがいたわけだが、一番驚いたのは同室のお母さんの一人が赤ん坊にパ―ティーに行くような光沢のあるドレスを着せ、靴まで履かせたことだった。文化の違いを痛切に感じた。普通分娩の場合、三日目には退院していく。私は五日目に退院し、お産の費用は無料だった。個室の場合のみ費用がかかると聞いた。

 最初に撮った息子の写真の一枚は、右手の人差し指で天を指し左手で地を指している仏陀誕生時の彫刻を思い出させた。私はその写真を選び、仏陀が生まれた時に言ったという言葉を写真の裏に書いて母に速達で送った。

天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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