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「第5回 スタイルを作る」ケアリング・ストーリー

 モノは必要ない、身の回りの物は少なければ少ないほどいい、片づいた部屋にいればいるほどいい。断捨離とか、片づけとか、ずいぶん、流行していた。いや、2021年の春をむかえる今、新型コロナパンデミックの最中にあって、いっそう、流行していると思う。
 ずっと家にいて、家にいる時間が長くて、今までやろうと思っていたけれどできなかったことが否応なしにできる時間が立ち現れた。家にいないから仕方ない、忙しくて無理だなあ、とか、先延ばしにしてきたことを、できる環境になってしまった。
 2020年のお盆休み、とか、年末年始、とかに、長年の懸念であった家の片づけをやった、という人は、すごく多いのではないだろうか。我が家は7軒ほどの路地の奥にあり、この7軒はゴミ捨て場が同じで、ゴミを出す日に同じ場所にゴミを出す。ここ一年間、ゴミの量が本当に増えたな、と思う。時折、ものすごくたくさんのゴミ袋が出されていて、ああ、このうちも片づけ、やったんだなあ、と思う。
 日本の高度成長の歴史は、家の中に物がたまっていくプロセスでもあった。貧しい戦前、苦しい戦中、無我夢中だったであろう戦後、ものに窮した世代が、すこしずつ豊かになっていくにつれて、手に入れたものは手に入らなかった時代の記憶があまりに鮮やかなため捨てられなくなり、家の中にものが増えることに対応できず、元々は家具などなかった日本家屋に、あれよあれよという間に安っぽい家具が配置されるようになり、その引き出しと棚の全てに入るだけのものが詰め込まれ、捨てることもままならず、はっと気がついたら、どうしようもないたくさんのものに囲まれて住まうことになってしまって、身動きが取れなくなっている、というような家がかなり多いのではないかなあ、と思う。
 要するに私たちは、突然ものが豊富になった成金的な暮らしの中で、ものとの付き合い方や家具との付き合い方がわからないから、捨てられなくて、ため込んで、どうしようもなくなったのである。
 東京は多摩地区、小金井市にある広大な小金井公園の中に、江戸東京たてもの園、というのがあって、江戸時代くらいのさまざまな建物が移築してある。ヨーロッパの友人を案内したことがあるのだが、大きな農家を訪れたとき、ためいきをついていた。なんて美しいのかしら、この家には何もない。家具が何にもなくて、空間だけがあって、外の風景が家の一部になっている、こんな美しい家はみたことがない……と感動していた。そして、ねえ、ちょっと、昔の日本の家ってこんなに美しいのに、なんで、今の日本人の家って、ごちゃごちゃしてるの? なんであんなシンプルで美しいなにもないスタイルの家をやめちゃって、今みたいによくわからない家にしちゃったの?……ああ、その質問にわたしがこたえられるはずもないのだ。ごちゃごちゃにしたかったわけでもなく、それは、結果に過ぎないのだから。

座敷部屋 自分たちとしては、精一杯西洋に学び、西洋みたいな暮らしにあこがれ、家具を作ったり、置いたりしてみたんだけど、なんだかよくわからないのである。ヨーロッパの友人の家にいろいろいってみたけれど、棚には決してものがぎゅうぎゅうにつまっていないし、引き出しにはいつも余裕がある。そこにひきだしがあるからといって、これでもか、というほど、ものを詰め込んだりしない。何世紀も家具と付き合っているからこうなるのか、あるいは消費主義の席巻するアメリカとヨーロッパでは事情が違うのか。わたしはアメリカには行ったことがないからよくわからない(アメリカでも「片づけ」は流行っているらしいし)。
 ともあれ、もともと、家具やものをまわりにおかないで暮らしてきたわたしたちには、家具やものとのつきあいかた、というスタイルが、わからないまま、ここまできてしまったのだと思う。わからないなら、減らしてみるしかないのであろう。
 そこで、片づけ、である。『人生がときめく片づけの魔法』* を書いて、いまや、世界の有名人になられた片づけ界のカリスマ、近藤麻理恵さんの本を読んで片づけをなさった人は、かなり多いと思う。わたしも読んだ。これはほんとうに、単なる片づけの本ではなく、大変重要なスピリットが通底している本で、さすが、世界中で話題になる本というのは、持ち重りがする本なのである。
 基本的に、すごいな、と感心した人の言っていることはなんでもやってみたくなる、弟子入りマインドの好きなわたしは、彼女のおっしゃっている通りの片づけをしてみたが、いや、ほんとうにすがすがしいことであった。彼女のおっしゃっていることはいろいろあるが、一番印象に残り、いまも頭に浮かぶのは、そこにいらないものがあることは、自分にとって、あるはずの空間がなくなる、ということだ。たとえば、いつか整理しようと思って永遠に整理できない写真の入った段ボール箱の一箱は、そこにあればわたしに余裕をくれるはずのスペースを占有している、ということなのである。片づけをしたあとは、新しく家に入ってくるものはどんな小さなものでも、これがあることで大切な空間が占有される、と思うと、おのずと手元に置かなくなるものが多くなる。

 何を捨てて、何が必要なのだろうか、ということを思うとき、亡くなった人の荷物の整理のことを考えてしまう。もう60を過ぎているので、何人かの家族が亡くなった後の荷物の整理をしてきた。
 その人が大事にしていたもの、その人がおそらくは思い切って買ったであろうもの、いろいろなものがあるわけだが、その人が大切にしていたものは、その人の生きていくスタイルの中でこそ大切だったのだ。亡くなってしまうと、それらはほんとうに、誰にとって必要なものでもなくなる。この人のことを覚えておきたい、と周囲の人間が考えるために必要なものは、実はそんなにたくさんない。写真だったり、思い出のあるものだったり。それらにしたところで、非情なことかもしれないが、時間が経つにつれてそんなに必要ではなくなってくる。時間が経つと、故人が残してくれた最も大切なものは、その人とともに過ごした時間の、自分の中にある思い出だけだ、それしかない、ということが少しずつわかってくる。そしてそれらの思い出も、自分自身がいなくなると、消えるのである。それが現実だ。
 何が言いたいのかというと、自分の周りにある、自分が集めたり買ったりしたものは、自分がいなくなるといっさい、必要ではなくなるものだ、ということだ。それは、誰のためでもなく、自分のためだけに必要なもので、自分がいなくなるといらなくなるものだ。
 だとすれば、いま、この時を自分が生きるために自分にとって必要で、美しいと思うものだけに囲まれていることこそが、逆説的だけど、自分が生きていることのスタイルを作るということにほかならない。
 何に囲まれて暮らしたいか、何を着て暮らしたいか、どんな家に住みたいか。家が広いとか狭いとかいう問題ではなくて、まさに、スタイルの問題なのだ。やっぱり、いらないものは捨ててみることでしか、自分がどのように生きたいのか、というスタイルは見えてこない。暮らしたいように暮らせているか、ということが、スタイル、である。それは、生涯かけて達成していくものだろう、ということだけは、わかってきたような気がするこのごろである。

注)* 近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』、サンマーク出版、2010年。


三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第4回  最後まで自分の意思で過ごすには』はこちら

「第4回 最期まで自分の意志で過ごすには」ケアリング・ストーリー

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