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「第4回 最期まで自分の意志で過ごすには」ケアリング・ストーリー

 とある介護に関する講義のあとで、質問を受けた。「最後まで自分の意思を反映させた日常生活を送るには何が必要だと思いますか」。
 最後まで自分の意思を反映させた日常生活。
 自分がこのように生きたい、と願い、このように人生を終えたい、と願う。そのような意思が反映された日常生活。そのことば自体はむずかしくないし、誰もが望むことだと思う。
 それはどういう生活だろうか。どのような意思を最後まで持ち続けるのか。持ち続ける意思、というのは、それだけで、大変むずかしい問題であり、自分がどのように生きたいのか、どのようなスタイルで生きていきたいのか、という話になるから、そんなに簡単に言えない。でもまあ、今はそんなに難しく考えず、家にいたいか、入院したいか、とか、起き上がりたい時に起き上がれるとか、食べたいときに食べられるとか、トイレに行きたい時に行ける、とか、「自分の意思を反映させた日常生活」とは、そういう基本的な生活のこと、と、考えてみよう。

テーブルの上に並ぶマグカップ2つ

 世の中の、いろいろな病気をみてきたお医者さんたちには、「自分はガンで死にたい」とおっしゃる方が少なくないのを知っていた。心疾患や脳血管疾患のように突然具合が悪くなって後遺症が残る、というよりも、ガンの多くはだんだん具合がわるくなっていき、自分でさきざきの予想がある程度できやすいので心の準備ができる、ということ、そして、認知能力が衰えず、最後までしっかりしている、と言えるような状況が多い、ということなどから、そうおっしゃることが多いようだった。まあ、私が聞いてきただけ、といえるので、本当のところはどうかわからない。
 2015年に亡くなった夫の死因は中咽頭癌の頚部リンパ節転移、であった。平たく言えばガンで死んだのである。夫は医者ではないが、医療系雑誌の編集者であったから、まあ、門前の小僧程度に医療の知識があり、医者とも付き合いが多いから、この、常々「死ぬならガンがいい」という言い方を、自分のものとしていた。本望だったか、と言うと、苦しかっただろうし、そんなに簡単には言えないことだとは思うが、少なくとも、彼もわたしも、心の準備がだんだんできていくようにゆっくりと病状は進んでいったし、体はだんだん具合が悪くなっても、それこそ「頭はしっかり」していて、なんでも話すことができて「自分の意思」について口にすることができていた。
 「自分の意思」として、病院ではなく、家で死にたい、と言っていたことのほかに、常々「オレの知り合いでガンで死んだやつは死ぬ三日前までトイレに自分で行けていたというよ、オレもそうだといいなあ」と言っていた。誰でもそう思うだろう。排泄に人の手を借りなければならないことは、誰にでも起こりうるし、それ自体、恥ずべきことでもなんでもないあたりまえのことであるとはいえ、人類が歴史の中で築き上げてきた排泄にともなうプライバシーとか恥じらいの感覚を、一掃してしまうことはそう簡単ではない。
 夫がそう言っていたから、彼が弱っていく中、私はその言葉を本当に大切にしていて、家で死なせてやりたい、なんとかぎりぎりまでトイレに自分で行かせてやりたいと、すごく強く思っていたし、そのためにできることはなんでもしようと思っていた。
 結果として夫は、自宅で、最後の排泄もベッドの横のポータブルトイレで行った後、ベッドに倒れこむことになり、そのまま12時間後くらいに亡くなったから、希望通り「家にいて、最後までトイレで用を足せた」と言える最後となった。いろいろ自らの意図通りにならないことが多かったと思うし、彼の意思を全部受け止められたとは、全く言えないと思うのだが、今思い出しても、家にいることと、このトイレのことだけはなんとか彼の意思を全うさせてやれたような気がして、それだけはほんとうにいいことだった、よかったな、と思える。よく世話をしてあげてエラい妻だったでしょう、とか、そういうことを言いたいのではない。そういうことを言いたいわけではなくて、すくなくとも、自分勝手だが、不器用だが、気が短いが、油断すると昼間から酒を飲もうとするが、まあ、いろいろあるけど、そのような夫のことを、私は、とても大切に思っていて、この人の思うところはできるだけ実現させてあげたいな、と、家族として強く思っていた、ということはまちがいない、ということが言いたいのだ。

 さて、冒頭の質問に戻る。「最後まで自分の意思を反映させた日常生活を送るには何が必要だと思いますか」、であった。おそらく一番「必要」なこと、とは、自分が弱ってきたときに、自分の世話をしてくれそうな、あるいは、自分の世話はしないまでも、自分のことについて口を出してきそうな、「家族、親類縁者」を特定し、その人と、今のうちから良い関係を築く努力をすることではないか、と思う。夫婦として暮らしている人なら、それは、まず、自分の夫であり、妻であろう。配偶者がいないので、子ども、が、そういう人である人も多いだろうし、配偶者も子どももいなければ、兄弟姉妹であることもあるし、甥や姪であることもあるだろうし、もっと遠い親戚のこともあるだろう。「その人」に、「この人の意思なら、さいごまでできるだけ反映させた日常生活を送らせてあげたいな」と思ってもらえたら、そのような生活、つまりは「自分の意思をできるだけ反映させた日常生活」が送れるのではないか。逆に言えば、その、特定される「家族、親類縁者」たる人と、関係性がよろしくなければ、それはもう、ひどい目にあうであろうことは想像に難くない。
 たとえば、夫婦関係がよろしくなくて、どちらかが弱っていった場合、介護の現場が「仕返しの場」と化す可能性が、想像するだに恐ろしいことであるが、まま、あるのだ。妻を裏切ったり、嫌な目に合わせたり、大切にしたりしていなかった夫が、妻の元に戻って妻の介護を受けることになると、多くの場合、虐待とは言わないまでも、ちくちくと仕返しされ続けることは実によくある話なので、そういうことに身の覚えがある人は覚悟したほうがいいのである。「最後まで自分の意思を反映させた日常生活」なんか、送らせてやるものか、と、すべて意思を無視される可能性がある。自分のことを考えてみても、もし夫に恨みをもっていたら、「家で死にたい?ふざけたことを言うな、絶対、家で死なせてなど、やらない。なんとかして入院させよう」と思ったに違いない。
 「自分には家族はいない」、「誰の世話にもならない」という人もいるだろう。また、「家族、親類縁者」で自分の世話をすることになりそうな人を特定する、と、書いたが、いやいや、自分の世話をすることになりそうな人は、家族や親類ではなくて、親しい友人とか、他人です、とおっしゃる方もあるかもしれない。でも、「最後」が近くなると、かならず「家族、親戚縁者」から、誰かがでてきて、「自らの意思」を無視したことをやりがちなので、本当に注意が必要なのである。在宅訪問をなさっている専門のドクターも、「『天涯孤独』という方が家で死にたい、とおっしゃるので、それができるようにいろいろ準備を整えていたけれど、最後になって遠くからの親戚があらわれて、どうなってるんだこれ、入院させるべきだろう、救急車呼ぶべきだろう、とか言ってきて、家で死ねないってよくあるんです」、とおっしゃっていた。
 つまり、冒頭の質問への答えは、「家族や親戚と良い関係を築きましょう」という、なんともあたりさわりのないことになってしまう。近しい家族などいない、と思っても、血縁の誰か、という人がでてくる、という可能性を、あだおろそかにしてはいけないのである。近しい家族をあだおろそかにすると……ということについては、すでに書いたので繰り返さないけれども。

三砂ちづるプロフィール画像
三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第2回  ロングショットの喜劇』はこちら

「第2回 ロングショットの喜劇」ケアリング・ストーリー

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