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「第24回 ワイタンギデーに思ったこと」

なつかしい未来の国からバナー_青空と一本の木

 

マオリの祝典

 ワイタンギデーの式典は、朝五時から始まっていた。私たちは少し遅れてしまったけれど、到着すると、朝日が登る前の暗闇の中に、厚着した人たちが賓客たちのスピーチの様子が拡大されているスクリーン前に集まっていた。正直、音声がよく聞こえなかったのだけれど、ゆっくりと白けてくる空の様子を見ながら、一八一年前にこの場所で、マオリの首長たちとイギリス王室の代表たちが条約にサインをした様子を想像すると、大きな時代の流れの一部に巻き込まれたような気分になった。当時の人たちは、一八〇年も後に、私のようなアジア人や世界中からいろんな人がやってきて、この大地に立っているなんて、とても想像しなかっただろう。
 ニュージーランドはもともと鳥の楽園で、そこにマオリの人々がやってきて、そのあと西洋の人々と四つ足動物がやってきた、ということは前回書いた。その後、西洋の人々がくるようになってしばらくして、一九世紀半ばにイギリスの王家と、先住民のマオリの首長たちとの間にワイタンギ条約が結ばれた。
 私は今年初めて、そのワイタンギ条約が結ばれた日を祝うワイタンギデーという公式の祝典に参加した。

まだ日が昇る前に賓客たちのスピーチとその手話通訳者が大画面で映っている様子

 私がアオテアロア・ニュージーランド(「アオテアロア」はニュージーランドのマオリ語の名称)に来たばかりの頃は、この国の先住民の人たちがマオリの人たちであるという認識はあったけれど、それ以上のことはほとんど知らなかった。
 でも、高校で一番最初に仲良くなった同級生がマオリだったことから、マオリの人たちの文化や、歴史、そして今も続いている植民地支配の影響について、少し学ぶことができた。彼女たちとの出会いのおかげで、私はこの島に住んでいたいという気持ちが強くなった。
 大学に来てからも、最初に居場所を感じさせてくれたのは、マオリの友達だった。異文化の土地で暮らしていると、自国にいても、こちらにいても、どちらにもうまくフィットしないような気がして、自分のアイデンティティーが迷子になる時がある。そんな中、彼女たちの存在は、私に船のいかりのようなどっしりとした安心感をくれた。
 マオリの文化は、先祖や大地との繋がりを大切にする文化だ。「第6回 大地とのつながり」で書いたように、マオリの人たちは自己紹介の時に、自分と自分の家族に繋がりのある山と川を紹介し、自分の部族と家族を紹介してから、自分の名前を言う。私も、マオリにならった自己紹介をするために、自分の生まれたところの山と川を調べたことがあった。日本にいた時よりも、自分の先祖や先祖たちが暮らしてきた土地について意識するようになった。
 遠くで暮らしていても、先祖との繋がりや、大地との繋がりが消えてしまうわけではない。そう感じることができて、自分の中に深い安定感が生まれた。

「大地の人々」と「それ以外の人々」

 大学でソーシャルワーカーになる目標を決めてからは、ソーシャルワークの中で、ワイタンギ条約を守り、実現していくにはどうしたらよいかを授業を通して、何度も学んだ。
 イギリスをはじめとする西洋諸国は、一九〇〇年初頭までに世界の大部分を植民地支配した。 未だに世界中の先住民族の状況は厳しいもので、植民地支配の影響は根深く残っている。その中で、マオリの人たちが培ってきた decolonisation(脱植民地)の活動は、とても力強く、他の先住民の人たちからもリーダーとして見られている。

 マオリの人たちはアオテアロアの tangata whenua(その大地の人々)であり、それ以外の人たちは tangata tiriti(条約の人々)と呼ばれる。つまり私は、条約の人々の一員だ。
 現代社会で、他の国を訪れたりそこに住むためには、ビザが必要で、その国に着いたら、その国のルールにしたがって行動しなければいけない。でも、この出入国を管理するというシステム自体、植民地支配が行われていた時代に作られたものだ。
 アオテアロアに最初にやってきた西洋からの入植者たちは、マオリの人たちからビザみたいなものを支給してもらう必要もなかった。さらには、マオリの人たちがそれまで培ってきた掟があったのにもかかわらず、入植者たちはそれに従うどころか、自分たちのルールを押し付けて、土地を切り開いていった。だからこそ、そんなことにならないために結ばれたはずだったワイタンギ条約について学ぶことは、この国に住むための義務だと私は思う。
 そんなことを考えながら、ワイタンギ条約の式典に参加した。

 ワイタンギ条約は初めに書いたように、アオテアロアに先に暮らしていたマオリの首長たちと、後からやってきたイギリスの王室の間で、一八四〇年二月六日に結ばれたものだ。
 英語からマオリ語に訳されたワイタンギ条約には意味が大きく違うところがあった。
 たとえば、英語の第一条は「ニュージーランドの全主権を英国国王に譲渡する」というもので、英語の「主権(sovereignty)」のマオリ語訳には ‘Kāwanatanga(カワナタンガ)’ という言葉が当てられた。だけど、 ‘Kāwanatanga’ は英訳すると ‘Governance(統治)’ が適切で、「組織や社会に関与するメンバーが主体的に関与を行なう、意思決定、合意形成のシステム」という意味なので、マオリの人は自分たちも意志決定に参加するものと理解した。
 また、第二条で使われたマオリ語の ‘Tino Rangatiratanga’ こそが「主権」に近い言葉であり(Tino = 大切な/大きな、rangatira =  首長、tanga = 名詞を動詞にする接尾辞)、第二条はマオリの大地やその他、マオリの宝とされているものに対して、マオリの「主権」を保障する、という意味になる。ところが英語版では、「英国国王は先住民の文化、および森林、漁業場を含む土地における権利を保障する。マオリの所有地の売買は英国国王の許可を必要とする」という内容だった。実質的にはイギリスが土地の絶対所有権を持つということで、この点も、とても大きな違いだったと言う。*1

破られた約束を修復する

 マオリ人たちは、今からおよそ一〇〇〇〜七〇〇年ほど前に、太平洋の島々からやってきたとされている。「マオリ」は、もともとマオリ語で「普通」といったような意味で、同じ「マオリ」と言っても、多数の部族がある。
 ワイタンギ条約を専門とする弁護士のモアナ・ジャクソンさんは、マオリの人たちは「部族間で戦いがあっても、終わればその度に、平和条約を結んでお互いとの関係性を保ってきた」と語る。*2 だから、マオリの人たちにとって結んだ条約は約束であり、意味解釈をねじ曲げたりするものではなかった。

 けれど、条約を結んだあと、入植者たちは、マオリ語の条約で約束したことを破り、マオリの人たちから土地をどんどん取り上げ、言葉を禁止し、伝統的な治療法なども禁止し、さらには子どもたちを白人家庭に養子に出させて白人化を図った。
 そうしたマオリの人たちの主権をまったく認めない植民地支配の影響は、現代のニュージーランドにも、深く根を下ろしている。たとえばマオリの人口は全体の16%だけれど、刑務所入所者で見ると全体の50%(平均)を占めるとされている。*3
 一方で、公の場で使うことを禁止されていたマオリ語は、一九八七年に、公用語になった。一九八〇年代から、マオリ語を語り継いできた女性たちが組織したマオリ語だけを使って教える学校(コハンガ レオ)が全国に広がり、近年では、コハンガレオ以外の教育施設でも、積極的にマオリ語が使われている。マオリ語が禁止されていた時代に育った人たちはマオリ語を話せないことが多いけれど、若い人たちでは、スラスラ話せる人も増えてきている。まだまだ形だけのところも多いけれど、公共のサインにはマオリ語と英語で書かれているものも、よく見るようになってきた。
 ワイタンギデーの式典は、そんな破られた約束を、もう一度見直して、修復しようという思いを持った人たちの集まりのように感じた。

マオリの人のおもてなし

 マオリ語に ‘manaakitanga (マナアキタンガ)’ という言葉がある。それは「もてなす」「親切心」「支える」といった意味で、マオリの文化の中でとても大切にされていることの一つだ。それに習って、ワイタンギの式典では、政治家たちが、そこに集まる一般の人たちに朝食を提供するのが慣例となっている。首相や大臣たちが朝からエプロンをして、参加者に朝ごはんを振る舞っている姿は、日本では絶対にあり得ないだろうと思った。
 それから、マオリの人たちがアオテアロアにやってきた時に使ったワカという船を浜辺からこぐ儀式や、ハカという伝統的な踊りがあったり、条約が結ばれた場所の丘から下ったところでは、一面に屋台が出ていて、美味しそうな食べ物や小物が売られている。お祭りのようなお祝いムードに満ちていて、この同じ空間に身を置いているだけで、楽しくなった。
 マオリの人たちは、自分たちの言葉や文化を失いかけたけど、それを取り戻そうと闘い続けた人たちのおかげで、今、言葉も文化も着実に引き継がれている。
 ワイタンギデーは、あの時に交わされた共生の約束が果たされるようにと、願う人たちの集い。過去の人たちの願いを、未来につなげようとする人たちの集いは、芯の通った優しさと、未来への期待感があった。

朝ごはんを配ってくれている一人は、緑の党のテアナウ国会議員 (黄色いシャツの男性)

マオリの人たちが太平洋の島々からアオテアロアにワカを使って渡ってきた様子の再現の儀式

 屋台が開かれている横には、社会問題を議論し合うフォーラムテントというのがあった。
 たまたま参加させてもらったタイミングで、マオリの人たちの大切な場所であるマラエを、障がいを持った人たちも使いやすくするにはどうしたらよいかという対話が行われていた(マラエについては第1回に少し書いた)。

 マラエに入るには、靴を脱がなければいけないとか、動物は入れないとかの決まりがある。車椅子の場合は、盲導犬と一緒の場合はどうするのかというような、伝統的な文化の中にはなかったニーズにどう対応すればよいのか、という議論だった。その場ですぐに答えが見つかるわけではないけれど、そんな大切な対話を聞くことができて、とても嬉しかった。

 ワイタンギ条約は、「正義を実現するために、私たちは何をする必要があるのか?」という問いを投げかけている、と環境・先住民・人権活動家のティナ・ナタさんは言う。ナタさんの言う「私たち」とは ‘tangata tiriti(条約の人々)’ の立場にいる人たちのことだ。*4
 マオリの人たちに、「ワイタンギ条約を実現するためにどうすればいいでしょう」と聞くのではなくて、「今ある不平等を乗り越えるために自分は何ができる?」と問うことによって、すでにずっと闘ってきているマオリの人たちに、さらに手を引っ張ってもらうのではなく、自ら主体性を持ってこの問題と向き合うことが大切なのだ。
 そうした活動をすでにしている ‘Asians Supporting Tino Rangatiratanga(Tino Rangatiratanga〔マオリの主権を応援するアジア人の会)’ というグループがある。

朝焼けの中で、Asians Supporting Tino Rangatiratangaのグループの人たちと出会った

 ワイタンギの式典では彼女たちとも話すことができた。ワイタンギ条約を尊重し、マオリの人たちの主権が実現できることを応援する、アジア人のグループがあるということも、私にとってうれしいことだった。

 ワイタンギ条約は、現代の移民政策とも違う、マオリの人たちの大地とともに生きる知恵を見習いながら、互いに共生していくための約束なのだなと思う。
 まだまだ社会の中に不平等はあるけれど、アオテアロアには今、それを乗り越えたいという意志を持った人たちがどんどん増えている。それによって、社会のありようも変わっていっている実感がある。
 ワイタンギの式典に参加することで、直に新しい流れへ切り替わっていっているようなそんな変化点の真ん中にいるような、高揚感を感じた。

*1 Te Ara (ニュージーランドの百科事典) https://teara.govt.nz/en/kawanatanga-maori-engagement-with-the-state/print?fbclid=IwAR0NY2FnJkDJITgWuoIlSEuk0yl-hNWSg3-o-k8o23d6QuDzXdSyf1fnvwc

*2 He Tohu Interview – Moana Jackson (ニュージーランドの国立図書館によるモアナジャクソンさんのインタビュー) https://www.youtube.com/watch?v=GDM-Ct21N4I (引用は6:23から)

*3 ニュージーランドの法務省による刑務所の統計https://www.corrections.govt.nz/resources/statistics/quarterly_prison_statistics

*4 環境・先住民・人権活動家のティナ・ナタさんのブログ「条約の人々がすべきこと」(英語が読める人は、ぜひ、彼女のブログを読んでほしい。)https://tinangata.com/2020/12/20/whats-required-from-tangata-tiriti/?fbclid=IwAR2Bqxn9zPohFFdfMUMxN7SqW1f0qtnd5dAX6AZOo3Fw3kbv9PWI-dVE6oM

安積宇宙プロフィール画像_ニット帽
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean
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