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7.182025
「第23回 ザンジバル」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

アフリカの水を飲んだものはアフリカに帰る。あまりにも有名な言葉である。どこで言われ始めたのかはわからない。アフリカに行く誰もが口にする。そしてアフリカに行く、多くの人が、再びアフリカに帰る。
初めてアフリカに渡ったのは1981年、薬学部を卒業した年だった。神戸大学病院薬剤部の研修が一区切りついた夏に、京都薬科大学の歴史の教授だった大沢基氏とケニアに渡った。井上清の弟子で、差別史を研究し、当時のアンチアパルトヘイトコミティ、アフリカ行動委員会のメンバーだった。今はどうか知らないが、当時は、薬科大学のような単科大学にも、歴史や思想、語学や体育、数学、などいわゆる“一般教養系”の教員たちがたくさんいて、彼らだけが研究室を持つ研究棟もあった。専門分野を教える薬学系の教員たちとは一味も二味も違う先生たちに、学生は多くを学んでいたと思う。薬理学系の研究室に入ったのに、動物実験がどうしてもできなくなって、落ちこぼれている私も、大沢先生の研究室を訪ねて、あれこれ相談にのってもらったり、学ぶことの広さを教えてもらったりした。恩師、と呼べる大学の先生は、大沢先生のことだ。
1970年代後半から1980年代にかけて、日本円はかなり強くなってきていたし、海外渡航も増えてきていたし、航空運賃もエアラインによってはかなり安くなっていた。ヨーロッパにも南回りで、パキスタン航空を使ったり、あるいは当時のソ連の上をアエロフロートで飛んだりすれば、そんなにびっくりするような値段ではなくてロンドンやパリに行けたので、今ほどではないにせよ、学生時代に渡航する人も出てきては、いた。大沢先生は、当時、AALAと略されていたアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、いわゆる“第三世界”の動向に心を寄せ、足を運んでいる人だったから、いつも夏休みには興味のある学生を何人か連れて、アフリカやインド、東南アジアなどに出かけていた。何をさせるわけでもない、村に滞在する。今思えば、現地の生活を経験するようなワークショップのはしりのような活動で、数多の薬学生の目を海外に開かせることになっていた。
私は学生時代に行きたかったが、時間もお金も足りず、渡航を諦めていたのだが、卒業した年に、どうですか、と言われ、病院研修を終えて就職する前、海外に長期で出ていく、またとない機会だろうと思い、アフリカに連れて行ってもらうことにした。パキスタン航空でラワルピンディ経由、そこで飛行機を乗り換えて、ケニアの首都、ナイロビに向かう。大沢先生の友人であり、長く日本の大学で教鞭を取っていたケニア人政治学者ゴードン・ムワンギ氏の実家のあるキクユ山の麓まで行くことになっていた。
当時の私は、できるだけステレオタイプなものの見方をしないようにしよう、と自分を鍛えていたつもりではあったが、まだまだ二十歳をすぎたばかりの頃で、鍛え方は全く足りず、先入観だらけのままアフリカの地に降り立った。日本にいたら、アフリカ=熱帯=熱い、というイメージだったし、アフリカ=過酷な地=過酷な暮らしに耐えられるような格好、をしていく、とうい先入観。日本から、一昔前のリュックサックに荷物を詰め、ジーパンにスニーカー、髪は手入れもできないかもしれないと短く切り、夏物中心の着替えを詰め、おしゃれな服など無縁のはずだ、と、考えてアフリカに出かけた。降り立った高地ナイロビの朝は、みんなセーターにコートを着ているほど寒く、夏物しか持っていない私は、震え上がることになった。おしゃれな服に無縁どころか、地元の女性たちは、みんなそれぞれに華やかなアフリカンプリントのおしゃれを楽しんでいて、髪も時間をかけて結い上げている。髪を短く切ってジーパンにTシャツの私は、子どもみたいで、小学生のよう。いかなる意味でも女性扱いされなかった。
世界中どこに行っても、女性は、その場でできる限りのおしゃれをして、それぞれの髪が一番美しく見えるように、髪を結うのである。「アフリカに行く」と意気込んだ20代初めの私は、そんなことすらわかっていなかった。ステレオタイプなものの見方というのは、まことに恐ろしい。「発展途上国に行く」=「悲惨な生活」としか見ることができていなかったことも情けない。私は、いわば、ケニアの高地の寒さと、おしゃれな女性たちに、洗礼を受けたのである。漠然と海外で仕事をしたいなあ、と思ってはいても、まだどこで何をしたらいいのかも見当がつかず、長期間海外に出る、ということもひょっとしたらこれが最初で最後かもしれない、などと考えていたが、この衣服と生活スタイルに対する態度からこそ、ステレオタイプなものの見方というものを変えていかねばならないのだ、という当たり前のことを一から学んだ旅だった。
これ以降、海外に出かけるときは、どんなに暑いと思われているところでも、高地かもしれないし、気温の寒暖の差が激しいかもしれないし、だいたい、機内がものすごく冷えるかもしれないから、防寒用にストッキングとハイネック長袖のヒートテックとショール様の一枚の布を持つようにしている。極寒の地に行くのでない限り(それならそれで別の備えがあるわけだから)この3点セットがあれば、「暑い」と言われているところでちょっと寒くても対応できる。そして、社交用のちょっとおしゃれな服と、それにふさわしい履き物はいつも持つようにして、髪型も小学生とみまごうようなカットには、しないことにした。具体的なスタイルは場所によって違えど、世界的に見ると大人の女性の髪型はロングヘアを結い上げることが多いので、髪も伸ばすようにしている。長い髪の方がTPOに従って、それなりに結ったりして形をつけられるからである。
衣装の洗礼を受けた後も、お腹を壊したり、スリにあったり、自分の覚悟が足りないが故のあれこれの洗礼を受けつつも、大沢先生の導きのものとに、ケニアの人々に会い、村を訪ね、マリンディやラム島というイスラム文化の影響の濃い地域にも赴いた。そんなふうに私はアフリカの水を飲んだ。23歳になる前のことだった。
で、アフリカの水を飲んだものは、アフリカに戻るのである。それから3年後、連載19回で書いたように、南部アフリカの国、ザンビアで薬剤師協力隊員として暮らすことになり、つまりは、最初の海外仕事、ということでアフリカに戻ったのだ。
国際保健を仕事とすることを望んでいた私は、目の前に敷かれている道など一切なかったが、手探りで学んだり働いたりして前に進み、このザンビア赴任の後、20代終わりにイギリスに学びに行き、30代はほぼ全てをブラジルの辺境で仕事をし、グアテマラやコロンビアなどラテンアメリカ諸国に出張するような日々になって、アフリカは遠くなっていた。そもそも国際保健を志した頃は、自分はアフリカか南アジアあたりで仕事をするものと勝手に思っていた。英語しかできなかったから、英語圏でしか仕事はできないと思っていたところもある。思っていたのに、人生は私にポルトガル語を勉強させ、ブラジルに10年滞在することになり、主な国際保健の仕事先は、ラテンアメリカとなって行ったのだから、計画というものは立たないのだということがわかる。ラテンアメリカはスペイン語圏が多いが、ブラジルだけがポルトガル語圏、そしてラテンアメリカで行われる国際会議には、通訳がつかないのだった。スペイン語とポルトガル語はある程度のアカデミックな背景のある人たちはお互いにわかるものだという前提があり、私は自然にラテンアメリカ中心の国際保健ワーカーになっていったのである。マダガスカルやコートジボアールなどにごく短期の仕事に赴くことはあったが、アフリカは遠くなっていた。
2016年、初めてアフリカに行ってから35年、再びアフリカにまとまった時間、戻ることになった。アフリカの水を飲んだものは……の言葉が頭で何度もリフレインされていた。コンゴDRCで大型類人猿ボノボを追う京都大学の大型類人猿の研究班に入れてもらったのである。地域住民と野生動物の共生、エコツーリズムの可能性、地域開発のありかた、などいろいろなことを検討する時期に来ていて、霊長類学者のみではない開発学、農業、公衆衛生などいろいろな分野の研究者がフィールドに入ることになって私も入れてもらったのである。この時、約一月、コンゴDRCとタンザニアに滞在した。タンザニアの首都ダルエスサラームでの休日、日帰りでザンジバル島にわたることになった。ザンジバルは8世紀からイスラム商人が渡ってきて交易を行ってきたと言われる島で、イスラム教の影響が強い。人口の99%はムスリムであると言われている。もともとのスワヒリ文化と融合して、独特の文化や習俗を作り上げていて、女性たちの衣装はとりわけ美しい。イスラム教の女性たちなので、タンザニアの大陸側(元タンガニーカと呼ばれていたところ)やケニアのように、カンガ(連載第19回のザンビアのチテンゲと同じ)を腰にきっちりとまきつけて体の線がでるようなスタイルとは異なる。同じようなアフリカンプリントの布を使っていても、体の線があまり出ないようなゆったりとしたワンピースになっていたり、腰巻き風に巻いていても、丈をかなり長くして足が見えないように、腰も隠れるような上着を着ていたりする。カンガはショールのように髪と頭を隠して背中にたらしていることもある。ちなみに頭に巻き付けているカンガは、キレンパとよばれるようだ。カンガではない黒や無地のショールはヒジャブともよばれるが、ヒジャブはスワヒリ語ではないので、現地ではムタンディオとよばれているとか。
ファッションとしてイスラム教徒のショール姿が本当に素敵だと思っているので、ザンジバルで島の人が来ているような丈の長いワンピースと黒のムタンディオを買って、お店のお姉さんに巻き方を教えてもらった。ムタンディオに限らず、いわゆるイスラム圏のヒジャブは頭から取れることがないように、ぴったりと巻かれている。ぴったりと巻くには、アジアではインナーヒジャブと呼ばれるキャップを使うことも大事だが、イスラム圏でこの「ぴったりとヒジャブを巻く」ために使われているのは、小さなまち針のようなヒジャブピンである。いま、ヒジャブピンというのを検索してみると安全ピン型のものとか、くるっと丸まった形のものも出てくるが、このザンジバルのムタンディオの巻き方をならったときも、使っていたのは小さな「まち針」様のピンだった。
使ってみると、けっこう、危ないのだけれど、逆に、このまち針を使わないと、確かにヒジャブは頭にぴったりとそうように巻くことはおそらくできないか、限りなく難しい。このピンを上手に使えるようになることが、おそらくムスリムの装いのいわば“キモ”のひとつなのかもしれない。このスタイルが私は本当に大好きで、なかなか日本ではこれを着けて外に出る機会はないものの、ひとりで、このザンジバルで求めたムタンディオを頭にぴったりそうようにまち針でつけてみたりしている。
このザンジバルの深い印象を最後に、おそらくもうアフリカにの水を飲むことはないだろうか、と思いながら、この黒いショールを愛しんでいる。
三砂ちづる (みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。







