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「第8回 タコの自殺、私の竹馬」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 ダブリンの産院で子供を産んだのはつい昨日のことのように思える。その日のことを「異国での出産」に書いたのもつい先ごろである。それがもう、自分の一生の最後の日に思いを巡らすことに入れ替わっている。映画の場面が一瞬暗くなってご破算になり、新しい場面に変わるかのように、また本の最後のページをめくるように。

 動物界では産卵と同時に生を終える生き物が少なからずいる。すぐに思い出されるのは鮭だ。産卵と放精を終え疲れ果てた夥しい数の鮭が川底に横たわり朽ちていく。遡上の途中、待ち構えたクマに捕らえられ冬眠に備えている彼らに十分な栄養を与えるのはよく知られている。一方、水中で腐食する鮭も水中昆虫のエサになるし、分解された後は何らかの栄養分として生態系の環の中に戻って行く。その死は浪費ではない。昆虫ではカマキリのメスが産卵をするとまもなく死んでしまうし、イワガネグモのメスは卵が孵化すると自分の内臓を吐き出して子らに食べさせる。子らは少しばかり成長すると、母の内臓を食べ尽くし、空っぽの外骨格を残して巣だって行くということである。

 三年ほど前にドキュメンタリー、My Octopus Teacher(邦題「オクトパスの神秘:海の賢者は語る」、二〇二〇年)を見た。南アフリカに住むダイバーとメスのタコの一年に渡る交流を描いたものである。二〇二一年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した作品である。メスのタコは産卵後、卵を抱え巣穴に籠もり絶食して死ぬ。映像で見ると自然の掟には鬼気迫るものがある。自然のエネルギーは世代交代と種族の継続に注がれているのだ。産卵によってホルモンバランスとコレステロールの代謝が崩れ、自分で皮膚をかじる等の自傷が始まる。タコはボロ布のようになってしまう。これをタコの自殺と科学者が表現するのは興味深い。十万から二十万の卵を産むのであるから、ホルモンのバランスが崩れるのは当然のことだろう。自傷は自然の分解の過程をタコ自らが助けて早めているように私には思える。
 精神分析の祖とされるフロイトが一九二〇年に発表した小論「快感原則の彼岸」の中で、「あらゆる有機物は無機物に還帰する欲動がある」(注1)と述べていることが思い起こされる。生命のないものが生命のあるものの前に存在したのであるから、命のないものはより根源的であり、後から来たものは根源に戻っていくという一つの試論である。
 タコの平均寿命は種類によるが三年から五年で、一年で死ぬものも多い。タコの一生に比べると人間の一生も子育ての期間もはるかに長い。出産して終わりと言うわけにはいかない。それでもあっという間だったという感慨は深い。それが時間の仕掛けというものだ。

 アイルランドへ移住する前に私は東京のアイルランド大使館に、アイルランドでは火葬の設備があるかどうか聞いたことがある。埋葬に選択がなく土葬が強制ならいやだなあ、と思ったのである。アイルランドでも火葬は可能だ。ダブリンの火葬の施設は一九八二年に設備されたという。キリスト教徒にとって土葬はかなりゆるぎない慣習だと思っていたが、この頃では火葬を希望する人が増えている。二年前の新聞によると四〇%の増加だ。埋葬にかかる費用が上がる一方だからなのだ。特に都市では墓地の値段がめっぽう高い。夫の父は生前私に火葬への意向を何度か口にしたことがあった。舅の言い方はいつも火葬の国から来た私をからかっている風だったので、私はそれを信じていなかったが実際、火葬になった。

 老いも死も避けられないもの。私が見た一番怖かった夢は歯が全部抜ける夢だった。私はまだ日本に居て三十代だった。この同じ夢を何度も見てその度に同じように戸惑った。歯が抜けてそれらの抜けた歯が口の中に溜まっている。しかし私はそれらが惜しくてどうしても吐き出してしまうことができない。口の中に唾が溜まって行く。しまいにはそれに咽せ始める。咳がでて苦しさのあまり目が覚める、毎度そういう具合だった。
 ずっと後になって、歯の抜ける夢と言うのは老いに対する恐れを表していると読んだ。三十代の私が老いを意識する必要など無かった筈だ。だが、「老い」ではなく「時」というものに対する恐れであるなら、確かにそれはあっただろう。今、考えるとそれは、自分が生きている限られた時間の中で、何をしたいのかという焦りのことだったのだ。
 その頃、映画「アマデウス」を見た。モーツァルトと彼の才能を羨望、嫉妬する同時代の作曲家サリエリを描いたもの。サリエリが「神は私に音楽への情熱を与えたが才能は与えなかった」と嘆く場面が印象に残った。サリエリの言葉は私自身の実感でもあったからだ。私も文学に情熱を持っていたが、どこから手を付けたらよいのか分からなかった。分かるのは、ただひたすら文学に惹かれるということだけだった。アイルランドへ来てから歯の抜けるというおぞましい夢を見なくなった。

 十年以上前、人生の半分以上をダブリンで過ごした日本人の友人が家を売り、日本へ帰って行ったときは本当に驚いた。彼女は英語を話す方が自然になっていたぐらいだった。家庭の事情があって、帰る決断をしたのだ。最終決断のつもりで日本を離れても、時というものがまた新たな決断を迫ってくる。特に、両親が老いてそのケアを子どもたちが分担する場合、海外に住んでいるということでそれが免除になるわけではない。
 もう一人、私と同じ頃にアイルランドへ移住してきた友人がもうすぐ日本へ引き上げて行く。彼女は、自分が異国で亡くなったとして日本にいる家族がアイルランドへ来るという状況を避けたいという。もう一つの大きな理由は、日本の方が、晩年の健康管理がしやすいということを挙げた。病院の設備も日本の方がアイルランドより充実していること、病気になって医者に自分の症状を説明する場合、英語よりは母国語の方が症状などの微妙な点を説明しやすいと思うことを語ってくれた。
 アイルランドでは集団健診というものがない。私もこの三十三年間、健康診断を一度も受けていない。アイルランドでは緊急以外は病院に直接行くことが出来ず、GP(general practitioner、総合診療医)にまず診断を受け、そのうえで必要があれば病院に行く手筈を整えてもらう。生死に関わるような病気以外は病院に行くのも時間がかかり辛抱強く待たなければならない。「患者」と「辛抱強い」は英語では同じ単語でpatient(ペイシェント)であるのは頷ける。
 帰国にあたって家を売ること、これも大きな事柄である。荷物の整理処分があり、日本で住む場所を探すことも必要である。七十を過ぎてこれらに従事するのは大変骨の折れることであり、私には想像しきれないものがある。この冬に帰国する友人の決意は固いようだ。生きるものは絶えず変化に備えなければならない。ここに骨を埋めると思っている私にしても同じことである。老いて行くという変化には選択の余地がない。

 私が断捨離と言う言葉を知ったのは、日本でこの言葉が使われるようになってからずっと後のことである。片付けコンサルタント、コンマリこと近藤麻理恵さんのことを教えてくれたのはアイルランド人の友人だった。コンマリはアイルランドでもよく知られている。断捨離の手始めに私は自分の名前を、画数の多い漢字からカタカナにした。画数の合計は半分になった。次に気になるのは日本語の本の処分である。ダブリンで一番大きな古本屋が英語以外の外国語の本を買い取ると聞いて、まず百冊ほどを売ってみた。家族は日本語を読めないので、引き取り先があるのは大きな安堵である。次の百冊を準備している。毎日、何か一つずつ捨てるようにしている。取捨のカギは、コンマリさん言う処の「心がときめく物かどうか」ではない。私にとっては「家族にとって意味があるかどうか」ということになり、それはほんの少ししかない。自分の日記の全ての表紙に「私亡き後は捨てて下さい」と書いてある。自分で捨てることが出来ればそれに越したことはないが、今のところ出来ていない。

 「時」を生涯に渡って創作のモチーフにしたプルーストの『失われた時を求めて』の最終篇「見出された時」はいつも私の枕元にある。最終ページに次のような箇所が見出される。

「あたかも人間というのは、生きた竹馬にとまってその生涯を送り、その竹馬はたえず大きく成長してゆき、ときには鐘楼よりも高くなり、ついには人間の歩行を困難にするばかりか危険にしてしまって、人間はそこから突然転落する……」

マルセル・プルースト『失われた時を求めて10―第七編 見出された時』井上究一郎訳、ちくま文庫、1993年)

 このだんだん高くなっていく竹馬の比喩を私は面白いと思ってきた。だが人は突然転落するらしいのだ。人生で私を最も圧倒するのは「時」というものである。「時」は確かに体にも心にも日々刻み込まれていく。時と言うものが親しい者を連れ去ったのであり、そしてまた、時の仕業である死というものだけが、私と彼らとの死後の再会への可能性に希望を与えるのである。いまだにそれを確かめえた人はいないにしても、時の仕掛けは分からない事が多いのだからその可能性を私は否定しない。

注 1) ’Beyond The Pleasure Principle’, Sigmund Freud, Dover Publications, 2015.

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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