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「第7回 トンボは北へ、私は南へ」ダブリンつれづれ / 津川エリコ

 ダブリン市の真ん中を流れるリッフィー川は市を北と南に分けている。中心となる一番大きな橋はオコンネル橋だ。ここで暮らし始めてまだまもない頃、一緒にこの橋を渡ろうとしていた知り合いが突然立ち止まってこう言った。「パスポートある?」私は一瞬戸惑った。「この橋を渡るときにはパスポートが必要なのよ」と彼女は真剣な面持ちで言った。

 でもやはりそれは冗談だった。私は(パスポートなしで)何度もこの橋を渡っている。それにも拘わらず彼女の冗談を一瞬信じて慌てた。忘れがたい思い出だ。川の北側で生まれた彼女は子どもの頃、この橋を北から南へ渡る時にはいつでも外国へ踏み込む感じがしたと言い、パスポートの冗談はそれをふと思い出してのことだと言った。ダブリン市の中心部の北側には貧しい人が住み、治安も悪く、南には裕福な人が住むという固定観念がある。これはどうして生まれたのだろう。そう古いものではない。彼女は就職の時の履歴書の住所を南側に住む親戚の住所にしたことがあると言った。住所が採用に影響するに違いないと不安に思う特定の地区の人々がダブリンには存在するのである。

 私が最初に住んだフラット(主に、二から三寝室の一軒の家をアパート用に改造したもの。一つの階ごとにテナントが住み、玄関共用)は、ダブリンの北側にあり市の中心から歩いて三〇分程であった。最初に得た仕事で知り合った人達の家に招かれるようになり、私も彼らを自分のフラットに招いた。皆、ダブリンの南側からやって来た。彼らは口を揃えて「北側は随分印象が違う」と言った。その第一は、街路樹が少ないことだった。街路樹があっても、それらはまだ若い木であり、老木が少ないこと。アヴェニュー(街路樹が二列に植えられ木陰のアーチを作る。通りの両側で4列になる)を見かけなかった、などと言うものだった。その当時、私は北側に住んでいたたった一人の日本人だったようだ。私が住んでいたこの通りはManor street (マナ・ストリート、マナは荘園)と言い、私がアクセントを間違えて発音するためにManure street(マニュア・ストリート)と聞こえ、それは「肥やし通り」という意味になるので笑われたものだった。

 ダブリンの中心街には十八世紀大英帝国ジョージ王朝時代に発達したジョージアンハウスと呼ばれる集合住宅がたくさん残っていて、ダブリン市内観光の目玉にもなっている。ジョージアンハウス保存協会もあり、ダブリンの歴史を示すものとして、たとえ所有者であっても勝手な改築はできないようである。半地下を含む四階建て、外見には渋めの赤レンガを使った装飾のない実用的な印象を与える建物である。ダブリンが大英帝国時代にはロンドンに次ぐ第二の重要な都市として、独自の議会すら持っていた時代の象徴でもある。外側は整然とシンプルであるが内装の漆喰壁は絹で覆われ、壁と天井の境にはロココ調のデリケートな漆喰レリーフが施されるなど、そこを住まいとした裕福な支配者階級の家族の暮らしぶりは今でも想像できる。当然ながらたくさんの召使を雇うことのできる階級であった。水道もガスもない時代、それでもお金があることによって心地よく暮らすことができる人たちが住んだ館である。召使たちは、水を運び、暖炉にくべる燃料を運び、食料を仕入れ、料理をし、洗濯をし、chamber pot(チェンバーポット、おまる)の汚物を空にした。移動は馬車であった。

 ダブリン最初のジョージアンハウスはダブリンの北側、パスポートの冗談が交わされたオコンネル橋から歩いて十五分のヘンリエッタ通りに建てられた。道幅の広さ、そこに入念に敷き詰められた石畳など、三百年近く経った今でも通りへ一歩踏み入ると、そこに住んだ人たちの誇りと自信と特権意識が容易に想像される。十八世紀、英国国教会の主教や国会議員や裕福な商人とその家族たちが出入りしたこの高級住宅街、ヘンリエッタ通りが二十世紀の初めにはスラム街になると一体誰が想像しただろう。

 一七八九年に自由、平等、博愛を掲げてフランス革命が起こるとイギリス政府はこの市民革命がアイルランドへも波及することを恐れ、アイルランド議会は自ら解散を選択した。直接統治に切り替わったのだ。ダブリンで政治的に重要な地位を占めていた英国の貴族たちは、こぞって本国に戻って行った。彼らが住んでいたジョージアンハウスは弁護士、医師、ビジネスマンたちのオフィスなどとして使われるようになったが空き家になる家も多かった。

 十九世紀に飢饉が起こり救済を求めて地方からダブリンへ人が集中したことも加わり、独立国アイルランドが直面した最も深刻な問題は首都の住宅難だった。一九二二年の自由国成立当時、首都ダブリンには家族で一部屋に住んでいた人が八万近くもいたということである。衛生面も最悪であった。乳幼児と高齢者の死亡率も高かった。空き家のジョージアンハウスが、低所得者たちの住まいとして使われるようになった。ヘンリエッタ通りの14番でいえば、ダブリンで最も裕福だった一家族の家が貧民層の家族がシェアする住まいに変貌したのである。それはテネメント(tenement:大邸宅に一間借りで複数の低所得層の家族が住む)と呼ばれ、トイレも一つ、水の出る蛇口も一つであり、多い時には一つの表玄関から百人前後の人が出入りしたということである。一部屋は大きいので、テナントによっては衝立で仕切って、寝室を作ることができたが、家賃の足しにするために隅を仕切って転貸することもあった。ある歴史家が、一九七〇年代にヘンリエッタ通りで遊ぶ子どもたちが裸足だったことを回想している。ヘンリエッタ通りはダブリン中心街の北側への否定的なイメージに繋がった。イメージではなく本当にスラム街だったのだ。スラムという言い方を避けるために、今ではinner city(本来は都心部と言う意味だが、貧困層の住む過密地区の意味でも使われる)とも言われる。 

 アイルランドを代表する作家の一人、ジェイムズ・ジョイスは彼の最後の作品『フィネガンズ・ウェイク』に、すべての女性とリッフィー川の象徴としてアナ・リビア・プルーラベルという女性を登場させている。この難解奇抜な小説の中に三百五十の世界中の川の名が挙げられているそうである。因みに日本の川では「仙台川」が含まれている。おそらく誰よりもまずこれを書いたジョイス自身が最も楽しんだ小説なのではないかと思う。ジョイスの妻の回想によると、深夜に執筆中のジョイスが声をあげてよく笑っていたということだ。読むというよりは読み解く、という感じの小説である。小説の出だしは「川は流れる。」とあり、原文は、riverrun と小文字で始まっている。これは小説の最後の一行「行く手を独り最後に愛されて彼方へ」(ジェイムズ・ジョイス『抄訳 フィネガンズ・ウェイク』宮田恭子編訳、集英社、2004年)の最後尾に続いているためである。宮田氏によると、出だしを最後へ続けることに、人間の歴史における循環と反復の思想を託しているということである。始まりは終わりへ、そして終わりは始まりへ。

 冒頭でリッフィー川はダブリンを北と南に分けると書いた。リッフィーは、もともとこの川が流れ通って来る平原の名、 Liphe であったが川自体の名になり綴りも英語的にLiffeyとなった。アイルランド語で「生命」という意味である。

 リッフィー川自体はダブリンの北でも南でもない。泥炭地を通って来るリッフィーの水は、アイルランドではどの川もそうであるように、ピート色をしている。どこに住んでも私たちは皆、悠久の「時」という川を流れて大海に流れゆく者であり、そこではあらゆる相対、北と南、富者と貧者、国籍、性別すらも消えてしまう。別の形でまた旅が続くことになるのだろうか。アイルランド人の元祖はヨーロッパを追われてきたケルト人と言われているが、彼らは川を母なるもの、癒し、かつ知恵の供給者として、シャノン、ボイン、エティネ等のケルトの女神の名で呼んでいる。十八世紀に川幅が狭められ、下水が整備されるまでリッフィー川はひどく臭かったという。人間の汚物やら塵芥やら人生の汚辱も、リッフィーは一手に引き受けていたのだろう。

 リッフィ川―にかかるオコンネル橋の真ん中で、私はこんな詩を思い出して口ずさむ。

トンボは北へ、私は南へ

金(かね)とはいったい何だらう、
私の少年はけげんであった 
ただそのものために父と母との争ひが続いた、
私はじっと暗い玄関の間で
はらはらしながら争ひをきいてゐた、
……

(「トンボは北へ、私は南へ」『小熊秀雄詩集』岩田宏編、岩波文庫、1982年)

 詩を口ずさむ私の思いの先は、今は疎遠になったパスポートの冗談を言った女性に繋がっていく。テネメントは一九七〇年に閉鎖された。彼女は石畳の道を素足で駆けた最後の子どもたちの一人だったのかもしれない。いつか日本から友達がやって来たら、オコンネル橋のたもとで私もこう言おう。

「パスポート、ありますか」

 


津川エリコ近影

津川エリコ
北海道釧路市生まれ。ダブリン在住。『雨の合間』(デザインエッグ)で第55回小熊秀雄賞受賞。小説「オニ」(『北の文学2022』所収、北海道新聞社)で北海道新聞文学賞受賞。著書に詩集『アイルランドの風の花嫁』(金星堂)、随筆集『病む木』(デザインエッグ)があるほか、詩集アンソロジー”Landing Places”, “Writing Home”, “Local Wonders”(いずれもDedalus Press)に作品所収。

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