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「第22回 結婚」ケアリング・ストーリー

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 結婚というのは誰にでもできるものだった。誰にでもできるものだった、というか、誰にでもできるように、人間はシステムを作ってきた、ということだったと思う。ある程度の生殖への欲求の出てくる年齢になったら、男も女も、それぞれ毎日一緒に眠れるパートナーがいるほうが落ち着いて暮らせるし、そしてその結果として、次世代も育ってくるのだから、それは、生物としての人間にとって良きことであろう。つまりは「生の原基」を制度化しようとしたのだ。「生の原基」は渡辺京二氏の言葉である。

あらゆる文明は生の原基の上に、制度化し人工化した二次的構築物をたちあげる。しかし、二十世紀末から,二十一世紀にかけてほど、この二次的構築物が人工性・規格性・幻想性を強化して、生の原基に敵対するようになったことはない。一切の問題がそこから生じている。(注1)

 つまり、「生の原基」とは、「人が生まれて、次世代を残して、死ぬ」という生物としての人間の基本的な生の形であり、全ての文明というものは、その形をできるだけ継続できるように制度化し、人工化してゆき、二次的構築物を立ち上げて行った。わかりやすく言えば、「人が生まれて、次世代を残して死ぬ」ことが平らかに穏やかにできるように、さまざまなものを作り上げていったのである。しかしそれらのシステムとしての二次的構築物自体が「生の原基」に敵対するようになったのが、この二十世紀末から二十一世紀にかけてのことだった、というのである。これはつまりよく言われる言葉で言えば、科学技術というものが、元々は私たちの生きることを楽にしてくれるものであったはずが、逆に、私たちの生命を脅かすものであり得るようになったりしている、などということだ。今を生きる私たちには、原子力関連のことにせよ、戦争に関わることにせよ、実感を持って受け止められるのではあるまいか。
 しかし、ここで言いたいのは、その、「生の原基」と敵対する文明のことではなくて、「生の原基」の上にまずはどこでも制度化されていた「結婚」というシステムのことである。二次的構築物としての結婚というシステムは、おおよその地域で何らかの形で機能していたのであるが、幻想性、規格性が強化されるに及んで、機能しなくなってきた。そもそも、結婚は、対幻想を現実にする形の一つであったはずだが、さらに人間はもっともっと自由に生きて良い、という幻想性を強化していった結果として、逆に、誰にでも必要なものではない、ということになったのである。難しい言い方になってきたが、要するに、幻想が強化されていって、「結婚は別にしなくてもいい」、「対で暮らさなくてもいい」、「家族を作るということのコアに生殖がなくてもいい」、「そもそも家族というシステムが抑圧の温床である」ということになっていった、ということだ。
 話を冒頭に戻すが、結婚はそもそも誰にでもできるものだった。そういうシステムが機能していたからだ。「個人に任せて」おいたのでは、結婚できる人は限られている。自分で相手を探してくることができる人は、ある意味、“強い人”であろう。自分で誰かを好きになり、その相手も自分のことを好きになり、恋愛をして、その恋愛の力のドライブの元に、ずっと一緒にいたいから、結婚という、社会的に認知される方法をとる。こういうことができる人は、ある意味、そういう才能がある“強い人”なのだ。中学校か高校のクラスのことを思い出してみると良い。その頃、自分で誰か相手を見つけて、「付き合って」いる人というのは常にいたと思うが、そうたくさんいたわけではあるまいし、ましてや、全員がそういうことをやっていたわけではない。そういうことをやらない人、結果として、できない人、の方が、大多数だったはずである。つまり、恋愛をするのは、難しい。しかし、それでもほとんどの人が、ある時期まで皆結婚していたのは、本人が探さなくても、周りがある程度の年齢になれば、本人が結婚したくなくても結婚相手を探してくる、というシステムが出来上がっていたからであった。親戚のおばさんとか、職場の上司とか、近所のおせっかいおばさんとかが、相手をそれぞれ探して、見合いさせて、結婚させていたのである。その結果として、本人たちはそんなに乗り気ではなかったかもしれないけれどそれがそこそこ誰でも幸せになれる制度だと納得したり、しなかったりしながら、結婚生活に踏み込んでいった。
 2022年の今では、いうまでもなく、そういうシステムが機能していない。周りのそのような結婚を前提としたおせっかいは、今では個人の自由な生き方を認めないハラスメントである、ととられてしまうようになった。結婚だけが人生ではない、一人ひとりが自分の思うような人生を送っても良い、周りは結婚を強要すべきではない、と思うようになったのだ。自分が好きになった人がいて、その人も結婚したいと思うなら、しても良い。それはつまり、結婚というシステムであったものが、各自の「恋愛」という幻想性の強化に委ねられた、ということである。結婚する人が減ったのは当然のことである。今は「恋愛」しなければ結婚できなくなってしまったのだから。つまりは結婚や、対での暮らしは、「恋愛ベース」になったのである。これはハードルが高い。
 結婚も、セックスも、おおよそ、誰とでもすることは不可能ではないのだが、恋愛、というのはそうはいかない。恋愛は、誰とでもすることができない。恋愛というのは天啓のようなもので、ある時突然、思いもしなかったところから、突然、おりてきて、その幻想の虜になってしまうものだ。ある時、突然、特定の人が気になり始め、その人のことしか考えられなくなり、世界が全てその人中心に回り始める。自分のモードが変わる。相手も同じように感じている、というこの世の奇跡が起こると、それはとてつもなく大きなエネルギーとなって、二人の生活を変えていく。だから、システムとして機能していなくても、恋愛すれば、全くの他人だった人と共に暮らし、共に生きる、というまことに無謀なことを始めるための大きな力が得られるのである。
 しかし何度も書くけれど、これは、誰にでもはできない。また恋愛をしても相手が同じように思ってくれる、という確率は限りなく低い。だから、結婚の条件が恋愛、ということになると、多くの人は結婚できなくなるのである。昔の周囲があれやこれや言って結婚させていた頃は、本人たちの気持ちはよっぽど嫌でなければ、あまり重視されていなかったので、彼らは恋愛して結婚していたわけではなかった。現代の結婚相談所を訪れる男女の多くは、結婚というより、結婚へのきっかけである「恋愛」を探しているから、なかなかうまくいかない。結婚することは恋愛することより、ずっと簡単なのに、結婚の前に恋愛を求めるとそれは本当に難しくなるのだ。

 これは、「恋愛しないと結婚できない」ということだが、逆にいえば、生涯で、いつでも、「恋愛さえすれば、結婚しても良い」、と読み替えることもできるではないか。年甲斐もなく、とか、いい年をして、とかいう言い方自体が年齢差別、ということになっているから、そういうことはもう、言われなくなったし、言われても、言った方が悪いのである。だから、幾つになっても、結婚して良くなったといえる。生殖を通じての次世代育成、ということさえ気にしなければ、恋愛も結婚も、死ぬまで可能性があり、開かれているものだ。飛躍もはなはだしい、と言われようとも、人間、希望がないと生きていけない。死ぬまで恋愛してもよくなった、年齢など関係なく、いつ結婚しても良くなった、と、現状を勝手に読み替えることにしよう。

(注1)「心に残る藤原書店の本」『心に残る藤原書店の本―創業二〇周年アンケート―』(藤原書店、2010年)。

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三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第4回  最後まで自分の意志で過ごすには』はこちら

「第4回 最期まで自分の意志で過ごすには」ケアリング・ストーリー

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