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「第15回 見ない勇気」ケアリング・ストーリー

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 ネット上で連載などしているのに、何をいうか、と言われそうではあるが。

 ネットとかS N Sに書かれていることで、見たくないことは、見ない勇気、というのがほんとうに、必要だと思う。見たくないものは、見なければいいのだ。

 そうは言っても、たくさんのことがS N Sにはばらまかれて、若い方ほど気になるのであろう。そういう時代なのだから、仕方がない。仕方がないけれど、陰口、誹謗中傷、悪口、など、明らかに自分を傷つけるものがあらわれはじめたら、そのようなものは、いっさい、見ない、という勇気は持つことができると思う。それらをやめさせるには時間がかかるけれども、自分からは見ない、という勇気は持てると思う。自分について書かれたことなど、見ない。

芝生の上に置かれたスマホ

 そんなこと、今時、できませんよ、と言われるんだろうな、とは、思いながら書いている。私はすでに2021年の今、60をこえているわけで、すでに化石のような世代なので、そもそも時代には、十分、遅れているのだ。スイス人の同世代の友人が、「若い同僚に、マダムは、BBCですね」と言われた、という話を思い出す。BBCって、英国国営放送じゃなくて、Born Before Computer、つまりは”生まれた時にはパーソナルコンピューターはなかった世代なんですね”、っていうことなのである。もちろんありませんでした。今の60代が生まれた頃にコンピューターは、なかった。生まれた頃には、テレビもまだ普及していなかったのである。コンピューターなどあろうはずがない。今の60代にとって、パーソナルコンピューター、すなわち、素人が一人ずつ持つことができるパソコンが普及したのは30歳をすぎてからのことであったのだ。ああ、30年で世界はどれほど変わったことだろう。

 つい先日、50代から70代にかけての年齢層が5人集まって仕事をしていた。今どきの若者は、新聞など読まないのだ、新聞という媒体はあと、一体、何年もつだろうか、という話が出た。20代、30代くらいの周囲の人たちに、新聞を購読している人はいますか、と問うと、購読している人はまず、いない、という。まあ、そうだろうな。で、50〜70代5名のその集まりで、新聞をとっている人はいますか、と聞くと、全員、手を挙げた。アカデミア、出版関係など、いわゆる「新聞は読んでいるであろう」と想像できるメンバーであるし、この年代だし、まあ、当然だろうと思えた。

 ところが。全員手を挙げたが、どうもその5人で話が噛み合っていない。話を聞いてみると50代の方は、確かに新聞は4紙購読しているが、全てネットで購読して読んでいる、というのだ。他の4名は、うーむ、とうなってしまった。他の60代以上の4名(私も含む)は、当然、「新聞を購読する」ということは、紙の新聞が家に届けられ、それを開いて読むことを「新聞を購読する」という意味だと思っていたのである。ネットで4紙読んでいる50代氏は、懸命に、いやいや、ネットでも紙面ビューアーとかあるんです、ぜんぜん、紙の紙面と変わらないんです、紙の紙面じゃ、新聞がたまってたいへんですから、とおっしゃっていたが、他の4人は、みんな、いやいや、一緒じゃない、同じことじゃない、同じことが書いてあっても、新聞を紙で読むのとネットで読むのとは違う、と、思っていたのである。

 と、まあ、このように2021年末現在の60代以上の人間は、現在のネット社会に一見対応しているように振舞っていても、対応できていない人も多いのである(私を含め)。なんと言っても大人になるまでパソコンはなく、スマホの普及もS N Sの普及も老齢化してから始まったことなのだから、まずは、ついていけていないのである。

 それは前提として認めるものの、やっぱり、ネット上に書かれたことを、意識して見ないようにする、というのは、ある程度訓練だろう、と思うのだ。訓練だから、この時代、難しいとは思うけれど、見ないようにしなさい、自分について他人が言うことを気にしないようにしなさい、と言いたいのは、私にそう言ってくださった方があったからだ。

 2004年に『オニババ化する女たち』という本を出した。「女性の身体性を取り戻す」という副題のこの本は、産む性としての女性(結果として産むことも産まないこともある。もちろん)が、自分のからだを大切に生きてもらいたい、ということを書いた本で、かなり話題にもなり、売れもした。確かに、タイトルは挑発的であるが、書いた内容については、今も書き直したいと思うことは、ない。女性が自分のからだを愛で、受け止め、丁寧に付き合うことが、今も本当に大切だと思っている。

 売れた本なので仕方がなかったのだろうが、『オニババ化する女たち』は、ひどい叩かれ方をした。海外で15年くらい暮らして、女性の保健について仕事をしてきたし、前回前々回の連載に書いたように、妊娠中絶の調査もしていたから、海外でフェミニストの皆様とも近しく働いてきたし、自分もフェミニストだと思っていたのだが、マルクス主義フェミニズム中心で、「産む」女性たちとの連帯にまで広がっていなかった日本のフェミニズムとは全く相入れなかったようで、少なからぬ雑誌に反論が寄せられたりしたし、中には、赴任したばかりの勤め先の「恥」、と書かれたり、研究会だから来てくれ、と言われて、実際にはほとんど、つるしあげ、のような場に立たされたこともあった。

 もう20年近く前になるので、S N Sなどまだ存在しなかった頃であるが、インターネット自体は十分に普及しており、多くの人がネットを通じていろいろなことを書き込める状況になっていた。ブログとか、コメントとか、S N Sほどの気軽さはないにしても、多くの人はすでに多くの書き込みをネット上で気軽に行っていた。それだけ話題になった本だから、ネット上には多くの文章があげられ、まっとうな批判や議論もないわけではなかったが、ほとんどは読んでもいないのに、批判したり、「悪口」の範疇に入りそうなことも、少なくなかった。

 そういう状況になった時に、友人から忠告された。研究者でもありあまたの著書のある方だったのだが、「ネット上で自分について書かれたことを読まないようにしなさい」と言われたのだ。匿名で気軽に書き込めるネット上には、まともな議論というより、いっときの感情で、書かれているものも多いし、相手を傷つけるだけが目的にものもあるのだから、とにかく、見てはいけない。見ないように習慣づけよ、何か書いてあると思ったら、読まずに、すぐに画面を閉じなさい、と言われた。ほんとうに、何か言いたいことがある人、議論したい人、反論がある人、返事が求められるようなことは、別の経路で自分の元に届くから、不特定多数を前提としているネットの書き込みを、とにかく、見るな、と言われたのである。

 自分について、あるいは自分の作品について、何か書かれていると、つい読みたくなるのだが、そういうことに関わっていると書けなくなるからやめなさい、という忠告であった。

 時代遅れ、と言われようと、それから今まで、手紙をいただけば返事は書いているが、ネット上の書き込みは見ないようにしている。何か書いてある、と思うと、すぐ画面を切り替える。とにかく、あえて、見ない。それは過去20年近く、自分の精神衛生上の健康を保ち、書く、という仕事を続けていくために、とても大切なことであったことがよくわかるし、忠告してくれた友人に感謝している。そういうことを習慣にしてS N Sの時代を迎えたから、当然、自分でも参入していないし、見てもいない。なんという時代遅れ、と言われることか、というのは、何度も書いた。何度も書いたが、やはり、見れば傷つくと思うものに近寄らない、そういうことが書いてあると思えば、読まない、見ない、スマホのスイッチを切る、アカウントを閉じる、原始的な対応だが、やっぱり言っておきたいように思うのである。

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三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第3回  生活という永遠』はこちら

「第12回 からだにわるい」ケアリング・ストーリー

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