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6.102020
「第15回 多様性の難しさ」
理想と違和感
大学三年生になったとき、通っていた大学の学生会(Otago University Students’ Association, OUSA) の留学生代表役員になった(詳しい経緯は第14回「学生会への立候補」を参照)。
学生会の役員をするなんて、予想もしていなかったことだった。けれど、留学生の代表役員に立候補したとき、私には二つの思いがあった。一つは「障害を持った学生が、リーダーシップを取るようなポジションに就くのは珍しいからこそ、やってみよう」という思い。もう一つは、「学内で留学生が居場所を感じられる環境作りをしたい」という思い。
これらの思いは、なかなか難しい日々を乗り切る源であったのと同時に、私が感じていた違和感に向き合う足かせにもなった。
今回は、この違和感について掘り下げていきたいと思う。
役員としての任期は、その年の元日から始まる。だけど、もともと夏休み中(ニュージーランドの大学は一一月下旬〜二月中旬が夏休みだ)は日本に帰国する予定を立てていた私は、二月の頭に大学に戻ってきた。
そして、ダニーデンに着いた次の日から、学生会の合宿が始まった。大学の職員や、外部からのリーダーシップトレーナーを呼んで、大学のしくみや役員会のしくみについて改めて知り、自分達の役割、自分の目標を定めてそれを達成するための計画作りに取り組んだ。夜にはボードゲームをしたり、夜中まで語り合ったりして、大広間にマットレスを引いてみんなで雑魚寝をした。みっちり時間を過ごした二日間だった。
みんなと同じ空間を共有し、お互いについてもっと知っていく中で、これからの一年間、このメンバーと活動していくんだという実感が湧いてきた。それぞれの全く違った人生の話を聞けるのが面白かった。だけど、話している間にも、立候補すると決めてから学生会の選挙活動中に感じていたような違和感を再び感じた。
さらに、引け目を感じることもあった。たとえば合宿で使わせてもらった建物を最後に掃除する時。私は手の届く範囲の拭き掃除などはできても、机や椅子を動かしたり、掃除機をかけたりという肉体労働はできない。まだ知り合ったばかりのメンバーの中で、「同じように」働けないという思いも強く感じていた。
そういう時は、「障害を持ったアジア人の女の」私もこんな立場に立てるっていうのは、多様性を広めるためにいいこと。だから、ここに存在するだけでいいんだって思うことにして、自分を納得させていた。
学生会にとっても、私が一人参加しているだけで、「多様性を尊重している」団体だと宣伝できるので、お互いにとって願ったり叶ったりだと思った。
エレベーターがなかった事務所
あの一年を振り返って思うのは、学生会の事務所に行くまでの道のり。学生会本部の事務所は、大学の一角にある建物に入っていた。一階は一般学生向けの窓口になっている。そして、二階に事務所があった。
その建物自体にはエレベーターがなく、私は、事務所のフロアにつながっている別棟のエレベーターを使って二階まで上がり、屋外の渡り廊下を通って、事務所に行く。
エレベーターに乗ってから事務所にたどり着くまで、重いガラスのドアを三回通り抜け、少し急な短いスロープを降る。ほぼ毎日事務所に通っていたから、自分一人で行く時も多く、雨が降っている時には電動車椅子が滑ったりしないか、心配は消えなかった。他の役員の学生達が最初に私と一緒にその道を通った時は、「遠回りだね」と驚いていた。
アクセスの悪さは一目瞭然だったので、私が役員になってから早々に、学生会の建物の中にエレベーターを設置しようという計画が持ち上がった。だけど、エレベーターの建設は、時間もお金もかかるということで、見積もりが出たあと、できるのは早くて次の年ということになった。それでも、この建物がもっといろんな人にとってアクセスが良くなるのなら、とっても嬉しいことだと思った。
だけど、実際にエレベーターができたかというと、私の任期が終わってエレベーターを必要とする人が緊急にはいなくなったせいで、他の計画に埋もれてしまい、二年経った今も結局実現していない。
今思えば、「毎日の通勤のことが心に引っかかってるんだよね、ドアを開けたり、スロープ下るの心配だから、事務所に行く時一緒に来てくれない?」とか、もっと周りの人に声をかければ良かったのだと思う。でも皮肉なことだけど、「多様性を象徴できるから、それだけで十分」と自分を納得させていたせいで、自分の環境を改善しようと働きかけることをしなかった。
何かを達成する前から、車椅子に乗る私は多様性を象徴しているからと賞賛された。褒められることで私は、自分が感じていた困難に蓋をしていった。でも、多様性を賞賛しているわりに、私の困難に向き合おうとしない人たちに対して、違和感を感じていたのも事実だ。
そして、環境改善の働きかけに積極的でなかった私は、多様性が尊重される社会作りと逆のことをしているのではないか、と後ろめたく感じることもあった。
政府から表彰されて
ある時、同期で学生会の福祉役員になったアビーが、ニュージーランドの若者省による表彰に私を推薦したことがあった。
これは、国中の一二歳から二四歳の人で、様々な社会的活動をしている人たちに注目するために、毎年行われている。七つのカテゴリーに分かれていて、私は、「多様性とインクルージョン賞」を受賞した。障害を持ちつつも、留学生という多様なグループを代表し、また、ルーシー財団などの活動に関わっていることも受賞の理由だった。
表彰式は首都のウェリントンで行われ、他の受賞した人たちと交流する時間もあった。移民女性への暴力を止めるための活動を始めた一〇代の女の子や、一五歳でドローンを使ってビーチのプラスチックを回収する方法を発明した女の子など、刺激的な出会いがたくさんあった。
だけど、国から表彰されるというキラキラしたイベントの裏に、違和感と後ろめたさを、さらに封印していった自分がいた。周りからの私のイメージと自分に対して感じている気持ちが、どんどん離れていくように感じた。
この文を書いている今は、こんな風に頭の中でぐるぐる考え込まないで、もっと周りに自分の思いを話せばよかったのに、と思う。相手に理解されないのではないかと感じていたけれど、伝えることに挑戦できるのは、私だけなのだから。
同時に、こういう風に言葉にできるようになったのは、あれから一年以上経って、ゆっくり振り返る時間があったからでもある。私のこの気持ちは、当時一緒に役員をしていた人たちは今も知らない。
あの時、この思いを伝えることができていたら、彼らと本当の意味の「多様性」について考えるチャンスを作れたかもしれないのに、と今でも時々思う。
とは言え、留学生の代表だった一年間について、自分や周りを責めることはしたくない。あの時の経験が、多様性を実現することの難しさ、自分の声をもち、伝えることの大切さを教えてくれた。
今はこうやって言葉にできることで、前よりも周りを巻き込むことが、少しずつできるようになってきていると思う。
いろんな人の力が発揮されるような環境は、一年間で作れるようなものではない。もう学生会の役員ではないからと言って、本当の意味で多様な人たちが活躍できる社会を求めることは、終わらない。
私にとって、この闘いは一生続いていくものなのだ。
安積宇宙(あさか・うみ) 1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。 Twitter: @asakaocean
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