- Home
- [Webマガジン]宇宙のニュージーランド日記 なつかしい未来の国から
- 「第20回 仕事までの道」
最新記事
11.102020
「第20回 仕事までの道」
卒業半年前から始めた就活
大学三年生の時に受講していた「コミュニティーとオーガニゼーションについて」という授業に、「ストッピング・バイオレンス・ダニーデン(SVD)」という団体の代表をしているシナモンさんという方がゲスト講師として来てくれた日があった。その団体の目的は、名前の通り、暴力を止めること。暴力の連鎖を断ち切るため、主にサイコドラマという方法を使って、家庭内暴力を振るってしまった側や、暴力を受けた側の人たちのグループセラピーをしている。授業の前に彼女が書いた論文を読んでいて、お会いする前から、ガッツのあるかっこいい人だなと思っていた。実際にお会いして、一瞬で彼女の誠実で温かい雰囲気に引き込まれた。
彼女は「人をサポートする仕事をするということは、自分のことをサポートしてくれる人たちも作らなくてはいけない。そうして、コミュニティーとしてサポートしあえるネットワークを作っていくのが大切だ」という言葉で授業を始めた。そして、サイコドラマを使ったグループセラピーとはどんなものかを、私たち学生を引き入れてロールプレイで見せてくれた。
サイコドラマでは、実際に過去に起こったことについて、関わっていた人全員の視点に立って再演する。その中で、自分が感じてた本心を語ることで、記憶の中のわだかまりに、違う現実を与えることを試みる。授業でやったロールプレイはとてもパワフルなもので、学生たちの感情や考えをするすると引き出してくるシナモンさんのスキルに魅了された。そして、いつかこんな仕事をしてみたいと思った。授業の後に、直接お礼を伝えに行った。一対一で話せたことで、より彼女を身近に感じた。
シナモンさんとお会いしてから一年くらい経ったころ、だんだん実際に就職のことを考えなくてはいけない時期が迫ってきた。卒業は、半年後くらいに控えていた。
ニュージーランドの就職活動は、日本のように一斉に始まる就職活動と違って、求人が出る時期もいろいろで、それぞれが求人サイトなどを通して、履歴書を送る。会社によって面接だけだったり、筆記試験があるところもあったりする。もう一つの日本との大きな違いは、新卒に向けた仕事というのは限られていて、経験がある人が好まれることだ。
特にソーシャルワーカーは経験が重視される専門職なので、募集条件に「二年以上の経験があること」と書いてあったりすると、履歴書を送ってもほぼ望みがないのがわかる。
また、ソーシャルワークの仕事では、自分で運転してクライアントの家まで行かなくてはいけないことがよくある。当時は、仮免許は持っていたけれど、車椅子の私は一人で行動するのは難しいから、家庭訪問ができないとなると、できる仕事が限られるのがわかっていた。それでも、大学に入る前からの、「若い人たちと関わる仕事をしたい」という思いは変わらず、SEEKというニュージーランドの大手の求人サイトを見ては、なかなか私の状況でできる仕事が少ないことに、焦りを感じていた。
初めはボランティアから
ニュージーランドは人口が少ない国なので、仕事を見つけるときに、人とのつながりがあると有利だと聞いていた。そんな中、シナモンさんのような仕事をしたいと感じたことを思い出して、シナモンさんに直接、SVDのような仕事をできる職場をどのように探せばよいか、聞きに行ってみようと思った。連絡先は知らなかったけれど、LinkedInという仕事のネットワークを広げるためのSNSで、彼女のプロフィールを見つけることができた。早速、一年前の授業で会ったことを伝えて、「今仕事を探し始めていて、お話を聞きたい」とメッセージをしてみた。そしたらすぐに返事をくれて、「会いに来ていいよ」と伝えてくれた。
彼女のオフィスは、当時私が住んでいた家や大学とは反対側の街外れにあった。バスに乗って、最寄りの停留所からさらに少し歩いていく必要があったので、電動車イスで一人で行くのは不安で、いつもファーマーズマーケットに一緒に行くベルが来てくれることになった。ダニーデンのバスは車内放送も電光掲示板もない。だから、新しいところを訪れる時は、スマートフォンの地図で自分の位置情報を確認しながら、どこで降りるかを判断しなくてはいけない。面会時刻は朝九時半で、ドキドキしながら初めての場所に向かった。
降り立った先は、大きめの建物が並び立つ工場地帯で、こんなところにオフィスがあるのかとハラハラしながら進んでいくと、それらしきビルが見つかった。ガラス越しにオフィスの中が見えて、シナモンさんがこちらに気づいてくれた。そして、手を振って建物内に招き入れてくれた。
いざ、彼女と向かい合うと、緊張がこみ上げてきた。だけど、気を取り直して、シナモンさんの仕事に興味があって、彼女の団体と似たような団体が、ニュージーランドの他の地域でもいいからあるかどうか、そして、この団体には他にどんな人が働いているか、といった質問をした。私がシナモンさんの団体に関わりたいと思っているのは彼女にとって一目瞭然だったようで、ボランティアをしてみないかと提案してくれた。そして、その場でボランティアをするための書類にサインをした。
帰り際、「授業で会った時から、あなたとはもっと関わる気がすると思っていたのよね」とシナモンさんは言った。その台詞を聞いた時、心臓がジャンプしちゃうくらい嬉しく思ったのを覚えている。
ボランティアの内容は、週に一回、中学生から高校生の学生向けの放課後のグループに、補佐役として参加するというものだった。グループでは、絵を描いたり、ゲームをしたり、それぞれの経験を語り合ったりして、とても楽しかった。
三カ月間このグループに参加させてもらった後、男性たちのグループに参加させてもらうことになった。そのグループでは、シナモンさんがファシリテーターをしていた。一二月で卒業式が迫っており、就職はまだ決まっていなかった。このまま、SVDに留まりたいと思いつつ、もし、仕事をもらえたとしても、週に六時間ほどで、生活を支えるほどの勤務時間にはならないことはわかっていた。
今のニュージーランドの制度では、短大以上の学校を卒業したら、就学後のワークビザというのが、三年間もらえる。でも、その三年間の間に、それ以降もビザを申請するのを支援してくれる職場に就職しないと、ワークビザも伸ばせないし、もちろん、永住権も申請できない。私は、永住権を目指しているので、時給$25.50(約1800円)以上で、フルタイムの仕事に就かなければいけない。だから、他の仕事を探すため、求人サイトを使って三箇所に応募してみた。一つは審査に通らなかったと返事をくれて、もう一つは少しやり取りをした後、返事が途絶え、もう一つは何も連絡がなかった。
人とのつながりを築く
仕事を探していると話していたら、知り合いが、主に知的障がいを持った人たちと共に研究を行っている研究所が、研究アシスタントを探しているから応募してみてはどうか、と提案してくれた。
私は長いこと、障がいに関わる仕事をするのは避けたいと感じてきた。それは、「障がいを持っているから、他の仕事を見つけられず、障がい分野にしか進めない」と思われるのが嫌だったからだ。でも、大学三年生の時に、知的障がいを持つ人たちのサポート団体で研修を受けたことがあった。その団体は、人々が地域で周りとの繋がりを築くのを手伝う団体だった。そこで、私は、当事者として自分の経験を通して、他の障がいを持つ人たちといい関係を作れることの楽しさに気づいた。それ以来、障がい分野で働くことへの抵抗感がなくなっていった。
知り合いが紹介してくれたこの研究所の代表のブリジットさんのことは、研修している間に、遠目から見かけたことがあった。そして、いい感じの印象の人だというのを覚えていた。
この仕事も、週二十時間で、永住権が申請できる条件は満たしていない。でも、日本も最近は同じみたいだけれど、ニュージーランドは終身雇用という考え方は少なく、短期間で転職する人が多い。ニュージーランドは小さな国だし、人とのつながりによって仕事が決まることも多く、とにかく、働き始めたら次の道が開くだろうという思いもあった。そして、自分の経験を仕事に有効に使えるかもしれないという願いから、ブリジットさんに履歴書を送ることを決めた。
数日後、研究所からメールで返事がきて、面接を受けることになった。面接の日の朝、少し早めに家を出て、オフィスに向かう前に少し時間を作った。すっきり晴れた日で、駅前で、ぼーっと空を眺めた。面接の結果は、正直どうなるかわからなかったけれど、ここから違う日々の始まりになるかもしれないと思ったら、わくわくした。そして同時に、変わらない和やかな景色を見て、落ち着いて面接に向かうことができた。
面接は、ブリジットさんをはじめ研究所のスタッフ三名が対応してくれた。落ち着いて臨むことができたので、自分としては満足のいく面接だった。
ニュージーランドでは、自分の履歴書に、推薦人の連絡先を書くことが主流だ。連絡先を書かない場合でも、推薦人へ連絡可能ですと書くことが大切だ。私は、学生団体で働いていた頃の同僚や上司に推薦人になってもらっていた。面接から一週間経った頃、推薦人のうちの一人から、研究所から電話があったという連絡を受け取った。まだ結果はわからず、不安もあったけれど、その電話はきっといい知らせだろうと思った。
そして、数日後に、ブリジットさんから研究アシスタントとしてのポジションに受かったとのメールが届いた。面接した時点で、私の勤務時間は週二十時間だから、シナモンさんのSVDでの活動も続けていい、と言ってもらっていた。面接から三週間後には、両方の団体で働く生活が始まっていた。
私は、障がいを持っているという点で、就活のプロセスではいろいろ不利になるだろうと感じていた。だから、大学に入った頃から、積極的にいろんなボランティアに参加したり、人とのつながりを築いてきた。今の仕事は、そうして自ら関係性を作ってきた延長にあるとも思う。知らない人たちの中に飛び込むのは勇気がいることだけど、どこでも、温かく迎え入れてくれる人たちに出会ってきた。これから先、海外で仕事を探す人たちには、自分の直感を信じて、関係性を築くことが大切だと伝えたい。
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean
あなたにおすすめ記事はこちら!
「なつかしい始まり / 宇宙のニュージーランド日記 なつかしい未来の国から 」
日本が冬の間、私の住むニュージーランドは夏。大学生の夏休みは長いので、毎年その間、日本に帰ってきている。そんなわけで一年中ほぼ冬の生活をして、はや四年がたとうとしている。私は今、ニュージーランドの南島の南、ダニーデンのオタゴ大学で、ソーシャルワーカーになるべく学んでいる。今年の二月から大学四年生の新学期が始まった...... https://mitsui-publishing.com/gift/column_04/umidiary01
安積遊歩さん、安積宇宙さんの共著『多様性のレッスン』 聞いてもらって、人は元気になる。障がいをもたない人、もつ人関係なく寄せられた47の質問に、障がい当事者ピアカウンセラーの母娘が答えます。だれもが生きやすい社会をめざしたい人に贈る、ココロの練習帳。 https://mitsui-publishing.com/product/tayoseinolesson