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「第12回 海外暮らしのはじめの一歩〜障害をもつ人のビザ〜」

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世界一優位なパスポート

 留学するための最初の難関はなんと言ってもビザのこと。海外暮らしは、ビザを獲得しなければ始まらない。
 日本のパスポートは、世界一優位だと言われている。観光ビザを申請しなくてはいけないとしても、入国できる国数が一番多いのだ。そして、そのビザを取るのも、西洋圏のパスポートと同じくらい簡単だ。というのも、フィリピンやタイなど、「開発途上国」と言われる国の人がビザを申請すると、日本のパスポートの人がビザを申請するのよりも、取得するまでに時間が長くかかったりする。
 そうはいっても、ビザの申請は正直、面倒だ。長期滞在ビザの場合、初めて申請するときは、健康診断(血液検査、レントゲン、基本的な往診)と、無犯罪証明書というものが必要だ。一回それらを提出してしまえば、三年間は有効なので、初年度以降は楽になる。……はずなのだが、私の場合、車椅子に乗っているからと、大学にいた四年間、毎年医者からの健康診断書を提出するようにお達しがきた。
 ニュージーランドは、国民や長期滞在する人の基本的な医療費が安い。だから、「国の医療費の負担になりそうな人」に対しての審査が厳しいのだ。
 この健康診断、日本で受けても一万円以上するが、ニュージーランドで受けると、総額$650(だいたい日本円で四万五千円)ほどにもなる。他の人は、そんなことをする必要がない中、それを求められることは金銭的にも精神的にも、苦痛だった。
 大学一年生の夏休みが明けて二年生の講義が始まる前の二月中旬、日本からニュージーランドに戻ってきたときのこと。大学の留学サポートセンターの人がビザ手続きを手伝ってくれると聞いていたので、ニュージーランドに戻ってきてからビザの申請をすることにしていた。前年からの学生ビザが切れるのは三月三十一日。期限まで一カ月半あれば、新しいビザに更新するには十分だと思った。私と同じように考えている留学生ばかりで、サポートセンターは、ビザを申請したい人で長い列ができていた。
 私の大学は、ほぼすべての建物がバリアフリーだった。でも皮肉なことに、私が使う留学生のサポートセンターと、私の学部には、階段しかなかった。ビザの手続きをするための事務所に行くために、私はみんなと列に並ぶのではなく、事前にスタッフの人とメールをして、階段を降りてきてもらって対応してもらっていた。
 申請のための書類は、簡略化されており、あっという間に終わった。このときは、健康診断も無犯罪証明書も、去年提出したから必要ないと思っていたので、簡単に終えたことに安心していた。

どうして私だけ?

 ところが、数日もしないうちに、移民局から、「健康に異常があるため、あなたが大学のコースをちゃんとやりきれるかどうかを判断する必要がある。レントゲンを撮って、その結果を提出してください」というような連絡がきた。
 私の障害は、骨が折れやすいというもので、確かに骨折をしてしまうと、その間は、大学に通えなくなるかもしれない。でも、骨折しない限り他のところでは健康だ。その前の年も無事に大学生活を送ることができたのだから、今年もやり通せるだろうと、自分自身を疑うことはなかった。しかも、その時点では、もう十年間骨折をしていなかった。だからこそ、私に会ったこともない人に、自分のキャパシティーを疑われるのが、悔しかった。
 私は幼い時から、「自分がおかしいと思ったことにはおかしいと言っていい」と育てられていた。診断書の提出を求められて、嫌な気分になったので、提出する前に、移民局ともう少し会話してみようと思った。でも、一人だけでそのような連絡を始めるのは不安だった。

拡声器で話す宇宙さん

これは違うと思ったこと、声を出してみる

 そんな時、一年の頃にお会いした、当時博士課程にいた女性のことを思い出した。彼女の名前は、ロビーさん。オシャレな柄の義足を使っている。
 私たちは、政府が障害を持った人の条例を見直すために、ニュージーランドの様々な地域で当事者からの聞き取りをするというミーティグで、出会ったのだった。別れ際に、彼女が「何かあったら私のオフィスを訪ねていいからね」と言ってくれていた。診断書の問題を一緒に考えてくれる人は、障害についてなにかしらの理解がある人だと思い、彼女のオフィスを訪ねることにした。
 突然、彼女の研究室に押しかけたのにもかかわらず、ロビーさんは私の話を聞いてくれた。そして、入管局に手紙を書いてみよう、ということになり、手紙を書くのを手伝ってくれた。
 でも入管局の対応は遅かった。ビザの更新期限が迫っていたので、返事を待っていられなくなり、結局、移民庁から言われた通りにレントゲンを撮って提出した。でも、嫌な思いを感じた時に、そのままやり過ごすのではなく、自分で考えて行動できたこと、そして、サポートを得られたことは本当によかったと思っている。それに、この出会いがきっかけで、その一カ月後から彼女が立ち上げた団体でインターンをさせてもらえることになった。嫌なことから、チャンスが生まれてくることもあるんだなと改めて思う出来事だった。

二度目のためらい

 しかし、三年生になった時もまた、今度は「健康診断をもう一度受けて、医者からキャパシティーがあると証明する診断書を提出してください」という通達がきた。その時もまた、一年前と同じような気持ちになった。
 前回の手紙は効果がないかもしれないと思ったので、今度は、国会議員の方に力を借りてみようと思いついた。でも、将来的にもニュージーランドに滞在できたらいいなと思っているので、抗議して名前が残ったら、と心配になった。それで、この年は結局おとなしく健康診断を受けた。診断は、二万円くらいかかるのにもかかわらず、身長と体重を測り、日常生活をどう過ごしているのかという簡単な質問に答えて一〇分で終わり。つくづく意味がないように感じた。
 無事、三年目のビザが下りた。それと同時に、「次の年からビザを申請する時は毎回、健康診断証明書かレントゲンを提出するように」との手紙が同封されていた。一度提出すれば三年間有効なはずなのに、わたしのコンディションもちゃんと知らないで、毎年の提出を義務づけられることがショックだった。それに対して、また手紙を書こうと思い立ち、周りの人の力も借りて手紙を書いた。けれど、やっぱり記録が残ることで悩み、出さずじまいで一年近く過ぎてしまった。
 そして大学の最終学年。また、ビザを更新する時期になって、去年、入管局から届いた通達のことを思い出した。今年こそ、レントゲンも健康診断書も、どちらも提出したくない。そう決心して、手紙を出すことにした。
 でも、システム側から言われたことをやらないということは、勇気が必要だ。ビザを申請する時、外国人である私のニュージーランドでの立場は圧倒的に低く、何かがあれば、強制送還されてしまう身でもある。ニュージーランドが好きだし、ここに住んでいたいと思えば思うほど、それはとっても怖いことだ。ビザのためのいろいろな書類を作りながら、そんな思いが頭をぐるぐる回っていた。

夕日の景色

好きな景色があるから、ここにいたいと思う

三度目の正直!

 重たい気持ちで、留学生サポートセンターに書類を提出しに行き、「例の書類の提出を求められているけれど、今回は提出したくないので、手紙を書きました」と伝えたら、笑顔で「そしたら手紙を同封する、とだけ書類に書いておいてね」という答えが返ってきた。てっきり、「入管局から言われているのだから、その書類は提出しなければいけないよ」と言われることを予想していたから、意外な答えで、びっくりした。そしてとても嬉しい気分になった。思わず「柔軟な対応をありがとう」と伝えたら、「学生たちのためにできることをするのが、私たちの仕事だから」と答えてくれた。改めて、ニュージーランドのこの柔軟さが好きなんだなと、感じた瞬間だった。
 システムに従うことよりも、個人の状況やその人にとってベストなことを優先して、柔軟な対応をする。それは、画一的なシステムが、すべての人には当てはまらないし、システムは人のためにならない時もあるという考えが、人々の中に共有されているからできることだ。
 三度目の正直と言えるだろうか、ビザの申請書類に入管局へ書いた手紙をやっと同封し、それから、私が住む街から選出した国会議員で、厚生省の大臣にも手紙を出すことにした。その大臣の事務所がなんと大学から徒歩三分のところにあるので、事務所まで手紙を持って行った。受付の女性に「この手紙はいつ大臣に届くでしょうか?」と聞いたら、「今日これから彼とミーティングをするから、その時に手渡ししておくわ」と言ってくれた。大臣との距離の近さに驚いた。

垂れ落ちそうな雫

わたしの声は、この一雫くらい小さいものでも、大切なもの

 私一人の問題で、大臣に手紙を書くなんて、という思いが少し頭をよぎったけれど、これは私一人の問題ではない。実際に、健康状態がみんなと違う知り合いも、毎年健康診断を提出するよう移民庁から言われて困っているという話をしていた。そして、これから留学をしたいと思っている、障害を持つ人たちもいるだろう。その人たちが、留学をする時に、少しでも困難が少なく、来れるようになったらいいと思うからこそ、私は手紙を出す。
 そう思えるようになるまで、実に三年経ってしまったけれど、一回も手紙を出さず大学生活を終えてしまうことにならずに、よかった。
 結局、厚生省の大臣には立場上の制約があって、できることはないと言われてしまった。そして、移民局からも、今度はレントゲンと健康診断証明書、両方を提出するように通達がきた。
 ここで勉強を続けるためには、ビザがないことには始まらない。できる限りのことは手を尽くしたという思いもあったし、他にもう選択肢がないから、レントゲンと健康証明書を提出した。そのあと、ビザは認められて、おかげで、今もこの国にいることができる。
 今、ブラジルから七年間前に移住してきて、ずっと働いてきた障害をもつ女性が、永住権の申請を拒否されて、また、判断を考え直してもらえるよう交渉している。障害を持っているといろんなハードルがあるけれど、これは、私一人だけの問題ではない。それを知っているから、移民庁に手紙を出したり、大臣にまで手紙を書くことができた。
 システムに対して柔軟性を求めるのは、正直大変なこと。でも声をあげていくことで、もっと人間的な社会ができるのだと思う。

安積宇宙プロフィール画像_ニット帽
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean
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