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「第13回 コーヒー豆でつながって」

なつかしい未来の国からバナー_青空と一本の木

ニュージーランドとメキシコがつながる

 ルーシー財団(The Lucy Foundation、以下TLF)との出会いは、前回書いたロビーさんとの出会いがきっかけだった。ロビーさんはおしゃれな義足を使っている女性で、二〇一四年に、TLFを立ち上げた。TLFは、「持続可能でエシカルな貿易を通じて、田舎の障害を持った人たちをエンパワーする」という目標の下、南メキシコの山奥のプルマイダルゴ村に住むコーヒー農家に生まれた障害を持った人たちと活動をしている。
 コーヒーの木は山の斜面に生えているため、障害を持っているとその栽培や収穫の過程になかなか参加できないのが現実だ。だけど、コンポストの肥料を作ったり、収穫した後の豆の選別など、できることはたくさんある。

木に生ったコーヒーの実

コーヒー豆は、「豆」というけれど、実はさくらんぼのように甘い実の「種」である

 ロビーさんが最初にプルマイダルゴを訪れた頃は、障害を持った人の多くは一日中家の中にいるだけの生活を送っていた。メキシコから遠くはなれたニュージーランドで共に活動しようとしても、文化も何もかも違う中で行うのは難しすぎる。そこで、このプロジェクトを立ち上げるために、ロビーさんの友人家族が、ニュージーランドからプルマイダルゴに引っ越した。そして、家族たちとゆっくり関係を築いていく中で、一緒に何ができるかを考えてきた。
 私がビザのことで、ロビーさんに相談しに行ったとき、ロビーさんはちょうどTLFを日本の団体に発表したいと思っていた。そこで、活動の内容を日本語に訳すのに協力してくれないかと、ロビーさんは私に声をかけてくれた。TLFの活動に感銘を受けていたし、新しいことを始めるのは大好きなので、二つ返事ですぐに請け負った。
 翻訳する中で、世界の障害を持った女性の識字率がたったの1%であることを知った(注)。大学院にまで進んだロビーさんは、自分のケースがいかに珍しいことなのかを痛感した後、障害を持って大学院で学ぶ女性が珍しいままであってほしくないという思いから、TLFを立ち上げたのだった。それは、「私だけがラッキーでありたくない」という私の思いにも、とても似ていると感じた。

「世界中の障害を持つ人とつながりたい」

 きっかけは、ロビーさんが二二歳の頃。メキシコの障害者施設に人権団体の監視委員として視察に行き、その現状のひどさに言葉を失ったそうだ。
 小さな部屋にぎゅうぎゅうに人が詰められていたり、自分では動けない人たちが、廊下などに体に良くない体勢で放置されていたり、おしっこもそのままだったり。ロビーさん自身が、障害に対して肯定的になれない時期も長かったけれど、自分の経験がいかに恵まれていたのか、気づいたそうだ。それ以来、自分の障害をもっと受け入れるようになって、障害があるために、学ぶ機会も得られないような環境にいる人たちの支援をしたいと思うようになった。
 そして、世界中の辺鄙な地域へ宛てて、「障害を持った人たちとつながって、コミュ二ティーの中で共に生きられるあり方を模索したいと思っている」と連絡をして、返事がきたのがプルマイダルゴ村の、このコーヒー農家だったという。その地域はコーヒー栽培が有名で、ロビーさんはコーヒーが大好きだったので、とてもよいマッチングだった。
 そこの地域のコーヒーの木々は、二〇〇〇年の初めにきた大きな台風によってダメージを受けた。その影響で収穫量が下がり、地域全体の人たちの生活も苦しくなっていたという。そんな状況下で、農家さんたちに障害を持った家族をサポートするような余裕はなかった。
 そこで、コーヒーの木々の回復をオーガニックな手法を使って、障害を持った人たちと一緒に取り組むプロジェクトが始まった。
 TLFの活動を日本語に翻訳するというタスクは、もう一人の日本人との共同作業で、あっという間に終わってしまったのだけれど、そのあとも「インターンとしてTLFに残らない?」とロビーさんが声をかけてくれた。翻訳するうちに、さらにTLFの活動に惹かれていたので、もちろん二つ返事で関わっていくことを決めた。

コンクリートに敷き詰められたコーヒーの種

コーヒーの種を、コンクリートの上で乾燥させている

 

南メキシコの山奥にある村へ

 たまたまその年、TLFの話がある前から、夏休みには南米に行こうと決めていた。そこから、プルマイダルゴを訪れることも、あっという間に決まっていった。
 私たちのニュージーランドでの活動は、助成金を申請したり、カフェにプルマイダルゴのコーヒー豆を使ってもらえるよう売り込みに行ったりすることだけれど、活動のメインはやはりプルマイダルゴ、現地での活動だ。参加して間もないのに、現地を訪れる機会がやってきて、とてもワクワクした。
 私がプルマイダルゴに着いたのはその年の一二月の上旬だった。メキシコだけれど山奥だから、朝晩はひんやりする。一〇年前までは車道も舗装されていなかったというその村には、おだやかな時間が流れていた。

村の中心部を結ぶ道

お世話になっていたお家から村の中心部を結ぶ道

 道路ができて若者が都会へと流れ、家族単位で自給自足が可能だった生活は崩れていった。自分たちは飲むことのないコーヒーなどの栽培によって外貨を稼ぎ、また、外から運ばれてくる野菜などの食料に頼らなければいけないという生活は、危なっかしい。道路が地震などで封鎖されてしまうこともあり、そういった時は食料の流通が止まってしまい、栄養失調になってしまう人もいたと聞いた。外資が稼げることは、いいように思えて、逆に生活を不安定にしてしまうこともあると知った。
 稼げる外資も別に多いわけではないので、生活が楽ではないことは一目でわかった。それでも、どの家の人たちのドアも空いており、外から中が見える。通りすがりながら、「やあ」と声を掛け合ったり、時にはそのまま家に上がってお話したり。仕事をしている時に誰かが来たとしても、その手を止めて、お客さんと一緒にお茶を飲んで話す。都会に住む人たちが求める「ものの豊かさ」ではない、「心の豊かさ」があった。
 朝日が上る少し前から、コーヒー農家のお隣のお母さんは、土釜に火を入れて、近所から買いに来る人の分までトルティーヤを焼く。この辺りの主食は、とうもろこしでできた粉から作るトルティーヤにチーズや野菜を乗せたものだ。メキシコに来て初めて知ったけれど、私が知っていた硬い皮のトルティーヤチップスはアメリカで作られたもので、本場のメキシコのトルティーヤは、皮が柔らかいのだ。たくさんの豆と野菜とトルティーヤのご飯は、シンプルだけど飽きることはなかった。

幸せのかたちはいろいろ

 コーヒー農家の人たちにとって、コーヒー栽培は何代にもわたって続く家業だ。山の斜面を歩きながら胸の前にぶら下げたカゴにコーヒーの実を収穫する作業は、体への負担が多い。滞在中、この仕事を、農家の人たちが本当に心からやりたいかどうかは、わからないと思ってしまう時もあった。そして、私の語学力では、それを尋ねることもできなかった。
 けれど、コーヒーの実について質問をした時に丁寧に教えてくれる姿や、もくもくと作業をこなしていく姿は、とてもかっこよかった。自分がしたいことをするとか、自分の幸せを求めて暮らすことが一番いい、というのが現代の経済的に豊かな人たちの価値観になっているように思うけれど、そんな生き方が幸せの唯一の形ではないのだと、感じさせられた。
 私たちが関わっている障害を持った人たちは、最初の頃はコミュニケーションをとることもなかなかチャレンジだったと聞いた。でも私が行った頃はプロジェクトの開始から二年経っていて、身振り手振りで会話をすることができた。彼らは、コーヒーの栽培だけではなく、ニュージーランドから現地に引っ越した家族のお父さんと、村の人たちの家に行って、家の修理の方法を学んだりして、自分たちにもできることがたくさんあることに、気づいていった。
 何ができるか、できないかなんていう生産性では人間の価値は決まらない。でも何もする機会がなかった彼らが、いろんなことをできるようになっていく姿は、素直にわくわくするものだった。
 プルマイダルゴの人々の間では、障害者への差別があるというよりも、一緒に作業をしたり、何かをすることが可能だという理解がないだけ、という印象だった。家族の一員として自然に過ごしている様子がみえて、それも、私の心を温めた。
 メキシコというと、実際に訪れる前は治安が悪かったり、水でお腹を壊すなどというイメージがあった。でもプルマイダルゴでは、井戸から引いてくる水道水が飲めるし、夜まで近所の子供達が道端で遊んでいる。夜道を歩いても、まったく危険を感じさせない穏やかな場所だった。世界中どこでも、都会と言われる場所は危ないことが多く、田舎は穏やかなことは変わらないのだなと思った。

ローストした豆を手にすくう宇宙さん

コーヒーにできる豆を選んだ後、ローストしたお豆

 村の人たちにとって、アジア人と出会うこと自体初めての人が多かっただろう。そして、さらに車椅子に乗っている私は、最初は驚きの目を向けられた。だけど、歩いていたら「どこから来たの?」と声をかけてくれる人たちもいて、二週間滞在するうちに、打ち解け合える人もいた。もちろん、山の上にある村なので、村外と人の行き来も少なく、見知らぬ人への警戒心は強い。それでもコミュニケーションがある程度とれたのは、もともとプロジェクトを進めるためにニュージーランドから来ていた家族の努力のおかげだったと思う。
 また訪問できる機会があるかはわからないけれど、思い出すと心が温かくなる、穏やかな時間を与えてくれたプルマイダルゴの人たち。彼らのことは、ずっとこれからも大好きだ。
 TLFの活動は、今も続いている。農家の人たちが働ける土地も広げていこうとしているところだ。ただ、このCOVID-19の状況の中でニュージーランドは、最低一カ月のロックダウン下にある(四月一〇日現在)。その間、プルマイダルゴのコーヒー豆を使ってくれているカフェも全て休業しまっているため、これから活動を進めていくのがなかなか大変になってしまう見込みだ。また、プルマイダルゴ村自体への食料の流通も厳しくなってきているということだった。
 私たちの活動だけではなく、村の人たちの生活自体が心配で、穏やかではいられない。この未曾有の状況を、どうか切り抜けられますように。

注)Rousso, Harilyn, 2003, Education for All: a gender and disability perspective. 

安積宇宙プロフィール画像_ニット帽
安積宇宙(あさか・うみ)
1996年東京都生まれ。母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱く車椅子を使って生活している。 小学校2年生から学校に行かないことを決め、父が運営していたフリースクールに通う。ニュージーランドのオタゴ大学に初めての車椅子に乗った正規の留学生として入学し、社会福祉を専攻中。大学三年次に学生会の中で留学生の代表という役員を務める。同年、ニュージーランドの若者省から「多様性と共生賞」を受賞。共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
Twitter: @asakaocean
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