最新記事

紀伊國屋書店新宿本店 『多様性のレッスン』刊行記念 安積遊歩さん×安積宇宙さんトーク(2019/1/24開催)ほぼ全文書きおこし! その2

(その1はこちらから)

安積宇宙さん お久しぶりの方もはじめましての方もこんばんは。安積宇宙(あさか・うみ)と申します。

 今の話を聞いていてみなさんどう思ったかわからないけれど、かなりの期待じゃないですか。自分の子どもを生んだのではなくて同志を生んだ、なんて最初からずいぶんハードルの高い人生と言えるなあって(笑)。はじめから期待度の高い人生なんですけれど、今は、そういうことを受けとめよう、と思える年齢になっています。

 

「宇宙といると差別される」

 私はいま22歳ですが、18歳くらいの時は、もっと悩んでいました。遊歩が思うような人生を生きたいと最初から思っていたわけではありません。

 いろんな人が出入りするシェアハウスみたいな家庭で育ったこととか、自分が車椅子に乗っていること以外にも、ずいぶん普通とちがう家庭で育ちました。だから中学生のころは、普通に対するあこがれがすごくありました。今ふりかえると普通になりたいと強く思うゆえだったのか、重度の障害をもつ人が家に遊びに来ると、「あんまりかかわりたくないな」と思っていました。

 中学3年生の時、同級生の女の子に「宇宙と一緒にいると差別されるから一緒にいたくない」と言われたことがありました。そんなにはっきりした言葉で言われたら、傷つくし、私は差別される存在なんだ、ということを初めて社会の中で認識したできごとでした。
 同時に、自分が重度の障害をもった人たちに思っていた気持ちは、彼女が私に対して思った気持ちとまったく同じなんだということにも、気づきました。そしてこれはやっぱりだめな気持ち。人の心を傷つけるような気持ちだとういうことにも、気づきました。

 自分の中に傷ついている気持ちがあるから、人を傷つける気持ちを生み出してしまう。自分が障害をもった人たちともっと関わることが、自分の生きやすさに本当につながると、その時に思いました。

紀伊国屋書店トークショー_遊歩さん宇宙さん

母との関わり

 高校の時は、ニュージーランドの高校に通いながら時々日本に帰る、という暮らしでした。ビーチがすぐ近くにある、人口4000人の小さな村みたいな町で、車椅子に乗る人と出会う機会も少なくて、アジア人も少数でした。しゃべるのは英語だけ。

 高校は知識を教えられるよりも、自分で調べてレポートを書く授業の方が多かった。もともと自分の意見を尊重される環境で育ったけれど、さらに自分の意見をもつ練習になりました。

 母は、本当に忙しい人で、母と過ごした記憶があまりありません。覚えているのは両親がよくケンカをしていたこと。母が父を責めているように思っていました。でも高校生の時、母とゆっくり対話する機会が毎晩あって、彼女が生きてきた経験や思いについて日々話す時間をもつことができて、母の見方がだんだん変わっていきました。

 私と母は骨が折れやすいという特徴をもっていて、早く亡くなる方も多いと言われています。母も3歳までは生きない、20歳までは生きない、などとずっと言われてきました。私も、私が20歳になるころには母はこの世にいないと思っていました。だから早く自立する道を見つけなければならないとずっと思っていて、自分で決めていたとおり、18歳の時から別々に暮らしています。

 いま私は22歳、母は62歳。母の還暦を一緒に迎えることができて、それからは一緒に余生を生きている気分(笑)。母のことは、生きているだけでいいよ、という思いです。

 

「普通」にも多様性がある

 今回、『多様性のレッスン』という本を出させてもらって、多様性というのは何なのか、考えました。

 多様性とは、多様な属性とはちがうと思います。

 私は今年からニュージーランドのオタゴ大学4年生になります。アジア人として、そして車椅子に乗った正規の留学生として、この大学を卒業するのは私が初めてのケースです。

 私が白人の男性の中に入ると、多様性みたいなものがいきなり広がります。私一人がいるだけで、「アジア人」、「車椅子」、「女性」と、チェックリストにいくつもチェックが入る。でもそれは、多様性とはちがうなって思うんです。

 同じ属性をもっていても、生き方はそれぞれです。多様性は、同じ属性の中にもあるはず。でも、同じ見た目や同じ性別、同じ人種の場合、その多様性が見えにくくなる上に、お互い同化しやすくなるから、むしろお互いの多様性を認めにくくなってしまうことがあるのではないでしょうか。

 先ほど、中学生のころは普通になりたかった、という話をしました。普通になりたいというその思いは、じつはずっともっていました。

 大学のあるクラスは少人数制で7人しかいなくて、全員、親が離婚していました。私の両親も別れているようなものだったので、私も含めて。

 日本の学校で、親が離婚していると驚かれると思います。でもそのクラスでは「うちの親は離婚していて、ステップファザーはこんな人で、ステップシスターとはこのあいだ旅行に出かけた」という話が普通でした。性の話や政治の話も、私の家ではいつも話題になっていたけれど、日本では、家の外ではタブーでした。でもニュージーランドでは、性や政治について、同級生とも平気で話すことができました。

 そこでは、私があこがれていた普通は、普通ではありませんでした。ニュージーランドで、普通も多様にあるんだなということを学びました。

 普通が多様にあるということは、同じ属性の人の中にいると、あまりわからないものです。多様な人たちがいたら、だれの普通に合わせていいかわからないし、「普通」という感覚にだんだんこだわらなくなっていくのかなと思います。

 多様性とは、多様な属性から見るものではなくて、一対一の関係の中にも、多様性があるということ。たとえば納豆が好きとかきらいとか。そんな小さな多様性でもいいと思うんです。属性ではない多様性を認めて、お互いを尊重できるような社会だったらいいのにな、と思います。

 

四番目の母

 小さいころから私のまわりには、本当にたくさんの人がいました。母親のような存在もたくさんいて、遊歩は四番目のお母さん、くらいに思っていました。
そうしてたくさんの人が、私を支えてくれました。でも、最前線でいつも闘っていたのはやっぱり遊歩だったと思います。

 私は先ほどお話しした中3の時まで、いろんな差別について、知ってはいたけれど直接には感じたことがありませんでした。小さいころに差別を感じたことがなかったのは、よかったと思っています。なぜなら成長して差別を受けた時、「これは私のせいじゃない」ってちゃんと判断できるから。私が差別されるのは私が悪いわけじゃなくて、あっちのほうに問題があるというか(笑)、この社会のあり方に問題がある。そう思えるくらい、自分の肯定感をつくってもらってきました。
ケンカの絶えない両親だったけど、私を幸せに育てようということだけは、二人は完全に一致してくれていた。夫婦関係というより、親子関係をすごく考えてくれていました。

 でもそんな子育ては、親子3人だけでは、決して可能ではありませんでした。たまに、親子3 人だけになると「3 人はいやだからだれかに電話して」とか言って、友人の家に3人でおしかけるという不思議な家庭でした。どうしていやだったかというと、3人でいて2人のケンカが始まると、私の逃げ場がないんですね。だれかと一緒にいるとその人と逃げることができるから、別にケンカしてもよかったのです。

 逃げ場があるということは本当に大切だと思います。大学生になった今、私は一つの世界だけにいることが本当に苦手で、いろんな活動にちょこちょこと顔を出しています。それが、結局全部がつながっていく手応えもあって、おもしろいなあ、と思っています。

(その3へつづく)

多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A

関連記事

ページ上部へ戻る