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1.162019
【発売まであと9日】『多様性のレッスン』まえがきをご紹介
今日は『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』のまえがきをご紹介させていただきます。
まえがき 普通ってなんだろう
安積宇宙
「普通」ってなんでしょうか。
私は、車いすに乗った母と、彼女より一六歳年下の父のもとに生まれ、今で言えばシェアハウスで育ちました。そして、私自身、母と同じく骨が弱いというからだの特徴をもっていて、車いすを使って生活しています。
そんな私は小学校に入って、自分と自分の環境が、社会の「普通」とはいろんな意味でかけ離れていることに気づきました。それから一〇代後半まで、「普通」であることに強いあこがれをもっていました。でも今は、まわりの「普通」と一緒になろうとがんばらないで、自分の「普通」を大切にできるようになりました。そんな自分自身を居心地よく感じています。
そう思えるようになるまで、たくさんの出会いと心の旅がありました。
私が通うニュージーランドの大学は、さまざまなバックグラウンドをもった学生であふれています。八人テーブルに集まって、みんな国籍が違うこともよくあります 。
文化が違えば、「普通」の尺度も違います。毎日お風呂に入らなくても、着ている服が数日同じでも、人と意見がまったく違っても、ジャッジされることはありません。普通になりたいと思っても、その普通が一致していなければ、普通になれないのです。ニュージーランドは西洋的な社会なので、日本よりも、人に頼らず自立的であることがよしとされている傾向は、強いかもしれません。
私は小さいころ、自分がどうしてほしいか、人に正確に頼むことが得意中の得意でした。物心ついたときからまわりにいた大人たちに、言葉で道案内をして、好きなところに出かけていました。でも、電動車椅子を使うようになったり、自分でできることが増えてから、人に頼るのが下手になってしまいました。今思えば、どこかでまだ「普通」になりたいと思っていた私が、人に頼らないでいるほうが「普通」なら、そうしよう、と無意識に選択していたのだと思います。
そんなある日、私の電動車いすのタイヤが、大学から家に帰る途中でパンクしてしまいました。移動の自由が奪われたようで、一瞬、焦りと不安で気持ちがぐらぐらしました。
けれどよくよく考えれば、私は一八歳くらいまで、ほぼ電動車いすを使わず、常にだれかに車いすを押してもらって生活していたのです。それを思い出して、その日の夜、フェイスブックにタイヤがパンクしたこと、次の日から手動車いすを使って移動するので、助けてほしいということ、そして知っている人だけではなく、ヒッチハイクのように通りがかる人たちに声をかけて、バケツリレーのように移動することを決めた、と投稿しました。久々に手動車いすを使う中で、人に頼ることで築ける人間関係の楽しさを思い出しました。
人に頼ることで、相手の時間をとってしまっているのではないかな、と考える時もありました。でも多くの人は、私の車いすを押すことは、頼られているとさえ思わない。私と過ごす時には当たり前のこと、と言います。
悩みというのは、アドバイスをもらうことによって、薄れていくこともあるけれど、また戻ってくることもあります。「そのままでいいよ」というアドバイスもたくさんもらってきたけれど、私が「普通になりたい」という悩みから自由になるまで、時間がかかりました。
生きていれば悩むことは尽きないし、悩みを解決するひとつの答えがあるわけではないのかもしれません。
でも、私と母の、「普通」とちょっと違った人生から出てくる言葉が、これを読むみなさんにとって、日々の中の何かのヒントや、自分自身でいることが居心地よくなるきっかけのひとつになれば、このうえない喜びです。