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「第9回 子どもに選ばせる」ケアリング・ストーリー

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 子どもをまもる、ということには、非常に困難な自己決定の場から子どもをまもる、ということもあると思う。いったいどこまでなにをまもらなければならないか、の線引きは難しくて、やりすぎると文字通り、パターナリスティックな対応になってしまうし、だからといってなんでも子どもに聞いて子どもの意見を尊重しています、というのもまた、子どもをまもれていないところが出てきたりもすると思う。
 もちろん、それぞれの子どもによってちがうし、また、子どもと親との関係によってもことなるから、とても、一概に、何歳までは、大人が子どものために必要なことを決定して子どもをまもってあげるのがよい、とか、いうことは言えないので、マニュアル化は、とうていできない。
 それでも、この、「子どもの自己決定を大切にする」ということについては、やっぱりよくよく考えてみる必要がある。なんでも、自分の子どもに、どうしたいの? と聞いて、本人がこう言ったから、と言って、自己決定を尊重した、とは簡単に言えない。子どもはやさしくて、結構、親の方向性を理解していて、親が喜ぶように答えてくれていることも多くて、それを自己決定、と呼んでよろしいものかどうか。
 例えば、予防接種をするかどうか、ということについて、中学受験をするような年齢(12歳、であろう)の子どもが親に強制されるのは、どうかと思う、といったことが、ニュースで語られていた。周りの大人がまず、予防接種を打ち、そのあと、子どもがいざ打つかどうか、ということになったとき、親が自分が打ったのだからあなたも打ちなさい、と、強制したりせず、子どもの自己決定権を大切にしなければならない、ということが、報道されていたのである。
 おっしゃるとおりで、中学受験というのはかなりのハイレベルの準備を要求され、生活リズムも自らで律していけるような子どもでないと困難なことであるから、トップ校を受験するような12歳は、かなりしっかりとした子どもと言えるし、12歳くらいで意見を言える子も確かにいるだろう。
 しっかりした子はもちろんいるだろうと思うが、それでもなお、中学受験、ということそのもの、を考えてみるに、中学受験は、子どもの入試ではない。親の入試である。中学入試をするかどうか、を決定するのは子どもではない。親である。いや、うちの子は、自分からやりたいといって、受験する学校も、受験のための塾も、自分で選びました、という方もおられるかもしれない。しかし、そういうケースのほとんどは、親も中学受験をしていて、私立あるいは国立の中学に自らも通ったため、子どもが幼い頃から、中学受験が当たり前のように家庭環境にあり、そのように常に会話しているか、あるいは、小学校のクラスの多くが中学受験するような学校に通っているので、自分もやりたい、と思うか、どちらかだと思う。
 親や親戚まわりで、誰も中学受験経験がなく、小学校のクラスでも中学受験する子どもがいないような環境にいれば、子どもの頭に中学受験、ということは、うかぶまい。義務教育として、地元の中学校に行くまでである。
 まことにそれぞれの子どもで成熟具合が違うわけだから一概には言えないが、自分でたとえば、学校を選択する、ということに意識と実態がともなってくるのは、高校受験からだと思う。
 15歳、というのは、人間が長い歴史を通じて「大人になる」と考えてきた一つの区切りである。元服の儀式もあったし、15歳で社交界デビュー、というところもあるし、16歳から結婚できる、というところも少なくないし、世界中でだいたい義務教育というのは15歳までなのである。15歳はいかにも、自分のことを自分で決める、にふさわしい、心身ともに大人の入り口、という年齢である。この年齢で自分の進む学校を決める、あるいは決めない、というのは、理解しやすい。だから、高校受験、というのは、子どもにとって重要な一つの関門であり、高校は自分で選ぶに値する、と思う。中高一貫校の良さは十二分に知った上でなお、15歳のときに、自分で進路を選ぶ経験をすることは重要なことではないか、と思っている。
 再度繰り返すが、子どもはそれぞれちがい、12歳で驚くような成熟をたたえている子どももいるわけだから、そういった高校受験におけるような経験を12歳でやりたい、という子どもがいることを否定しない。それでもなお、中学受験は親の受験である、というのは、よしんば、非常に聡明で早熟なので、親や親戚に中学受験者もおらず、小学校のクラスでも中学受験など話題にならなくても、自分だけで国立なり私立なりの中学校の情報を得て、自分にふさわしいと思うので、自分でこの学校に行きたい、という子どもがいたとしても、その子どもだけで中学受験はできず、親に相談して、親に了解してもらわないと中学受験はできないからだ。親の方で、中学校は義務教育であろう、なぜ、違う中学に進まねばならないのか、と考えていれば、いくら子どもが受験したくても、できないのが中学受験であろう。
 回りくどい言い方をしてきたが、要するに言いたいことは「中学受験をするような年齢の子どもは自己決定できる」かどうかには、疑問がある、ということだ。12歳はたとえば、予防接種をするかどうか、ということを迫られても、親が喜びそうな答えしか、そもそもできまい。それを自己決定と言ってよいのか、と思う、ということだ。

 ではどうすればよいのか。
 たとえば、「もう大人になったんだから」、は、きびしい言葉である。それは、子どもをほめるためにつかわれる言葉ではない。そこには、こちらの期待ほどに成熟していない子どものありようへの婉曲な非難と、もう自分は君の面倒をそんなにはみたくないんだよ、自分でやってくれよ、という大人の側の事情、が、ほの見えている。同様に「あなたが決めたんだから」という言い方もまた、子どもをほめたり、受け入れたりするために使う言葉ではない。大人にとって都合が悪いことを「あなたが決めたんだから」と、子どもに責任を押し付ける時に使う、きびしい言葉である。
 そのように思えば、重要なのは、子どもがいくつであろうが、何かを本人に選択させるのかどうか、ということそのものにあるのではない。もしも子どもに選ばせたとしても、のちのち、「あなたが選んだんだからね」という言葉を子どもに、吐かないのなら、子どもに選ばせてもいいだろう、ということだ。
 どういうことか、というと、「選べて、えらかったね」、「選んでくれて、ありがとうね」と、とその子どもの決定を、のちのち、ずっと、ほめることにしか使わないのなら何を決定させてもよい。その時の子どもの決定を「あなたが自分で選んだのよ」という語り口で、要するに大人の責任をのがれるために「子どもが選んだ」ことを使うような可能性がありそうならば、子どもに選ばせてはいけない、選ばせることによって「あなたが選んだんだから」という言い方を、将来にわたって、ゆめゆめ使ってはいけない、使いそうならば、選ばせないことが子どもをまもる、ということである、ということだ。
 子どもの話は聞く、子どもの意見は聞く、そのうえで、親は子どもをまもってやる。子どもに選択をさせるのなら、その選択を尊重し、ほめる。のちのち、自分が子どもの選択をほめられないかもしれない、と思うような選択は、子どもには、あえて、させない、自分が責任をもって決定する。そう思えば、先述の予防接種に関する決定も、自ずとその家庭で決まっていくのではないか。要するに家族間の雰囲気がおだやかで、お互いの話を聞くようになっているかどうか、ということが、まずは、試される、という、ごく平凡な結論に落ち着いてしまうのであるが。

三砂ちづるプロフィール画像 三砂ちづる (みさご・ちづる)  1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第1回  早くしなさい』はこちら

「第1回 早くしなさい」ケアリング・ストーリー

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