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「第24回(最終回) 言わないこと」ケアリング・ストーリー

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 ある新聞の投書が話題になっていた。もう人生の晩秋を迎えようとしている年齢のご夫婦らしい。妻の方からの投書である。夫の学生時代の彼女だった女性が、末期がんになった。そのことを夫に知らせてきて、心のよりどころになって欲しい、と頼んだらしく、夫は、もう、死を目の前にしているその女性を支えたいのだといい、頻繁にメッセージのやり取りをしたり、電話で話したりしているらしい。死を目前にして、この関係が、家庭を壊すはずもないのだから……、と、ご夫君は説明しておられるのだとか。妻たる女性の投書の文章は、短いなかに、慎みと節制が十二分に感じられる、よく練られたものだった。怒りなどではなく、当惑と、さびしさ、がひしひしと伝わる良い文章だった。

コスモス畑のアップ

Photo by Heiko Stein on Pixabay

 いやあ、この夫、ほんとにどうしようもないな、と、人のご夫君に失礼だが、思ってしまった。何を考えているんだろう。関西弁で言えば、あほちゃう? あんた、というかんじ(関西弁の「あほちゃう?」は、ばかじゃないの、みたいな人を見下す言葉ではなく、やれやれ、困ったことやね、なんということでしょう、程度のことで、ごく頻繁に使われる)。
 団塊の世代あたりを境に、学生時代の恋愛や同棲はごくふつうのこととなり、結婚する前にいくつかの深い感情の行き交いを経験することは、まれではなくなった。仲のいい人もいただろうし、思いが残ることもある。若いころの思い出を携えて、今一度会いたい、と思うことも、人生終盤になればなるほど、出てくるものかもしれない。若い頃に心を通わせた人でなくても、婚外恋愛の機会など、いまどき、いくらでもあるだろう、とも、思う。そういうこと自体を、あれこれ言いたいのではない。生きている、ということは、誰かと思いを通わせることだし、結婚、という制度がそういう思いを押しとどめる力になりうるか、というと、はなはだ心もとないことを歴史は示している。だから、このご夫君が、昔の彼女が末期がんになってその心の支えになりたい、と思われた、ということ自体をあれこれ言っているのではない。どうしようもないな、と思うのは、それをご丁寧に、妻に説明しているからである。
 そんなこと、していいはずが、ないだろうが。夫たるもの、妻はまもらなければならない。男女平等の世の中だから、逆も言っておこう。妻もまた、夫をまもらなければならない。夫婦は、おたがいを、おたがいの心を、まもりあわなければならない。自分の恋愛ごとや、思いのあれこれで、配偶者を不要に苦しめるようなことは避けなければならない。それは、相手の心をまもらず、多くの不安と苦しみにさらすことになるからである。何でも、包み隠さず、相手にすべて伝えることが信頼の証ではない。配偶者が聞きたくないようなことは、言わないでいること、配偶者が不安に思うようなことはなるべくさとられないようにすること、よしんば、なにか、露呈してしまっても、これはぜったいまちがいである、と主張して、配偶者をまもること。たとえ、たとえ、だれかと裸で抱き合っている現場に、配偶者に踏み込まれても、これはぜったいに何かの間違いである、と、すぐ服を着て、配偶者に縷々説明すること、であろう。いや、そんなドラマチックなことって、実際に起こったりすることはあまりないと思うけど。
 何が言いたいのかというと、この、投書を書かれた方のご夫君は、妻に何でも正直に言っているように見えて、じつは、ちっとも妻をまもる気はなく、単に、妻に甘えているのだ、ということだ。学生時代に付き合った人だっているだろう。その人に、心が残っていることもあるだろう。相手の気持ちが、何十年経ってもまだ、自分に向かっていることもあるだろう。人間だから、そういうことだってある。たった一度の逢瀬を胸に秘めて、生涯を生き続ける人もいるのだから。ましてや、若い頃にきらめくような出会いをして、それなりにお付き合いもして、初めてのセクシャルな経験もしたような人のことは、忘れることはできない。学生時代に恋愛経験に基づいてだれかとつきあう経験を持つくらいの人は、だいたい、その後の人生でも同じようなことをすることが多いから、その女性も、学生時代以降も、それなりのパートナーがおられた人生だったのではないかと想像する。しかし、何らかの理由で、自分が末期がんとなり、人生の終わりが射程に入ってきた時、支えて欲しいと思ったのは、この他人の夫になっている、「元彼」だったわけだ。病気になったり、最期を意識したりすると、人間、気持ちの上では、やりのこしたことは、やりたい、と思うようになる。この末期がんとなった女性が最後に心を通わせたいのはこの方だったわけで、それを告白されたほうも、その思いを受けて、おたがいの気持ちがもりあがったのだろう。それをどうこういうつもりはない。そういうことは、まま、ある。長い人生なのだから。
 でも、それは、配偶者には、隠し通さなければならない。さとられてはいけない行動なのだ。自分の配偶者が、自分ではない、ほかの人との恋愛感情と思われるような深い心の通い合いを経験していることの詳細など、聞いて嬉しい配偶者など、いないのである。性関係があるとかないとか、は関係がない。セックスしなければいい、というものではない。配偶者には、全部を受け止めてもらいたいと思って、相手に甘えて何でも言っていいわけではない。配偶者は、母親や父親じゃないのである。いや、母親や父親になら何でも言って受け止められるのか、というと、それはまた別の問題ではあるけれど。
 それって、婚外恋愛を認めた上で、嘘をつけというのか、と言われるかもしれないが、嘘、というのは違うと思う。嘘をつけと言っているのではなく、とにかく、黙っていろ、と言っているのだ。人によっては、それは、同じことです、とおっしゃるかもしれないが、全く違うことを言う「嘘」と、あったことを「言わない」ということは、相手の尊重の仕方において、方向性が異なると思う。何があっても夫婦というものは、配偶者が一番優先されるべきであるというたてまえを守ること、離婚したくないなら、詮索しないこと。複数の恋愛相手と同時に付き合う、とか、時代を経ては、試されてきたようだが、そういうことは、人類の歴史では、所詮長続きはしなかったことがわかる。結婚とはなにか、とか今さら、説明する気はないが、人類の大多数が生殖を前提とした穏やかな関係性の基礎として、一夫一婦の結婚という制度をえらんできたことを、あだおろそかにはできない。相手の婚外恋愛を追求するのは、離婚したくて慰謝料を取ることが前提のときにすることだろう。相手に疑いを持たれている時点で、おそらく、配偶者を尊重していない。まもれていない。他人の恋愛ごとにあれこれ言うようで、誠におせっかい極まりないのだが、夫婦、というのはお互いをまもり合う気がなければ続かない。一夫一婦制の世の中は厳然として変わらない。妾制度や側室制度など(悪くないところもあったものだったと思うが)許されていないのだから、婚外恋愛は、存在しても、黙っておくしかない。結婚とは、一対の人間が最後までお互いをまもりあうための制度だと思う。そうであってほしい、という願い、でもある。

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三砂ちづる (みさご・ちづる)

 1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『昔の女性はできていた』『月の小屋』『女が女になること』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

▼ケアリング・ストーリー『第1回  早くしなさい』はこちら

「第1回 早くしなさい」ケアリング・ストーリー

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