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「第17回 スディナ・カカン(中編)」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

 前回の冒頭に戻るが、私は27歳で大学院に進むことになった。私は学部をふたつ出ている。元々、薬学部で学び、当時は4年間で薬剤師免許が取れたので、薬剤師免許を使って働くことにした。しかし薬学部の3、4年生の頃から、いわゆる国際協力、国際開発の分野の仕事をしたいと考え始め、なんとか自分の専門性も活かせないか、と考えたが、ほぼ専門学校に近い技術教育を行っている薬科大学の中ではうまく考えることができない。4年生の時に受講した一般教養科目としての経済学を担当してくださっていたのが京都大学を退官したマックス・ウェーバーの大家、出口勇蔵先生だったこともあって、私は社会科学に目を開かれ、これは開発だの国際協力だのいう前に、理論武装をしなければならないと思って経済学部で再度学び直すことにしたのだ。
 働きながら学びたいのであるし、せっかく一度大学を出ているのだから、学士入学させてくれるところがいいし、学費は安い方がいいので、勤め先となるであろう神戸から通える範囲の、国公立の経済学部の夜間部を探した。1980年前半、まだ大学には「夜間部」が存在していたのである。神戸大学経済学部と大阪市立大学経済学部がその条件に合うものの、大阪市立大学はかなり大阪も南の方にあるので、夜には神戸から通うのは難しいと考えて、神戸大学のみを受験したのである。
 当時の神戸大学夜間部は神戸大学第二課程と呼ばれていた。4年間の昼間の学部と異なり教育課程は5年間、最初の2年は当時は教養課程、その後3年間で専門課程を学ぶ。他の大学の学部を卒業してから受験する学士入学の場合は専門課程からの入学になる。3年間、神戸の夜景を見下ろす神戸大学六甲台キャンパスの歴史ある建物で、地方公務員などの同級生たちと、夜のとばりの降りた神戸の高台で学んだ日々は忘れがたい。専門学校のような薬学部からやってきた私には、経済政策、開発経済学、国際関係論など社会科学の学びは文字通り目を開かれるような経験で、ああ、こういうこと知らないままに、というか、こういう学びを重ねるやり方を知らないままに、国際協力の現場などに出ていかないでよかった、と思った。別にこう言うことを知っていても知らなくても現場の仕事は変わらないのかもしれないが、その現場の仕事に向かう私自身のありようが全く異なる。それは、その場では見えなくても、私と私の周辺に静かな影響を及ぼすようなものだっただろうと今になれば思う。本質的な学びは、人類の集合的無意識に近づこうとするようなプロセスの一つであり、それは必ず、学ぶ人の根底を支え続けてくれるものだ。「すぐには役に立たないように見える学び」こそが、人間を鍛えるのである。
 二つ学部を出た後に、さらに二つ目の学部に行っている間は、薬剤師として働いた3年間でもあったので、この後、青年海外協力隊に参加して、ザンビアの薬剤助手学校で教える経験を重ねる。その後に、この国際協力、国際開発の分野で働き続けていこうとするならば、修士課程での専門教育がどうしても必要である、と考えるようになり、その時点で、私は、はて、私は何の専門性をつけていくのが良いのだろうか、と考えた。学部は薬学部と経済学部を出ている。薬学部を基礎とした医療系の学びを重ねてこの分野で仕事をしようとすれば、学ばなければならないのは公衆衛生であることはザンビアでの経験から痛感していた。集団の健康を相手とする公衆衛生は、発展途上国における健康格差の問題を扱う国際保健という分野の屋台骨のような学問体系である。1980年代は、日本においても国際保健という分野が学会活動を始めた頃で、私自身も興味があった。経済学部で学んだことを活かすとすれば、開発経済学を学びながら、地域研究などを重ねるのだろうか。
 大学院で何を学ぶか、によって、その後の専門性が決まる。それは明確に感じてはいたのだが、その時何を学びたいかは自分でははっきりしていなかったのに、琉球大学保健学研究科に進むことになることは以前の連載でも書いた。ものすごい積極性というよりも、当時の人間関係と環境の結果、公衆衛生研究への一歩を沖縄で踏み出すことになったのだ。それがその後、約40年にわたる職業人生の基礎となる一歩だったことは、後になればなるほどはっきりわかってきたし、それが沖縄であったことは大変幸運なことであったと言わねばならない。
 で、前回の冒頭に戻るのだが、私はすでに27歳、大学院修士課程を始めるには、若い、とは全く言えなかった。多くの人の場合、大学院は学部を出てすぐに入るものであり、早い人では、20代で修士課程、そしてその上の博士課程を修了し、博士も取るのだから、随分なスロースターターである。しかし、公衆衛生、国際保健という分野は学部からすぐにこの分野での修士課程取得に進むというよりは、何年かの現場経験を積んでから修士課程、さらにまた現場に戻ってから、博士課程、というように現場の経験を挟んで学ぶ人の多い分野だから、27歳修士課程入学はスロースターターとはいえ、この分野では珍しいことでもない、ということも結果としてわかるが、それはもっと後のことである。
 さらに、沖縄、というところが、学ぶこと、新しいことを始める、ということにおいて、あまり年齢を気にしていないようだ、ということにも助けられていた。私は27歳の大学院入学生だったが、当時一緒に住んでいた私のパートナーは、32歳で医学部の一年生に入学しようとしていた。それまでのことは別として、沖縄について家を探し始める時点で、双方、いい歳をしているのに無職であり、学生になる、と言っているのであるが、不動産屋さん、大家さんをはじめ、家を探すときに、この「いい歳をしてこれから学生をやると言っている男女」について、特に何の疑問も呈されず、奇異な目を向けられることもなく、まあ、ナイチャーであるから、その分、まあ、変な人たちだという事は織り込み済みであったのかも知れないが、それにしても、ご近所さんも、引っ越し関係者にも、誰にも、ええ、それはそれは……みたいな、反応を受けていない。みな、あ、そうですか〜、学生さんなんですね〜、ということで、我々が学生であることも、また、学生同士で一緒に住むことも、全く珍しがられはしなかった……ことに結構驚いていた。

 この大学院生時代に、琉球大学の部活である八重山芸能研究会(通称八重芸)に入れてもらった。1967年から2019年にかけて活動していたサークルなのだが、私が入れてもらったのは1986年で、八重山出身者で始まった民謡同好会としての始まりから20年足らず、やや息切れも感じられてきた頃で、部員不足に悩んでいたので、大学院生のナイチャーも入れてもらえたのである。そこで唄を習い、踊りを習い、先輩たちの芸能を見て、八重山芸能に魅せられた。とりわけうっとりするくらい憧れたのが、衣装であった。
 スディナ・カカン、と呼ばれる女性の衣装がある。先輩が祖納岳節を踊るときにつけていた衣装で、本当に素敵だった。カカンは裳のことで、琉球の正装にも使われる白いプリーツ様の半分下着、半分見えてもいいロングスカートである。裾を引き摺るくらいの丈で着付ける。その上にカカンを羽織る。カカンは膝くらいの丈の着物で帯は使わず、打ち合わせて紐でとめるものである。簡単に言えば、「上っぱりの丈の長いもの」という感じか。先輩は、その時黄色のかすりの着物をしたに着て、カカンを片袖脱いで下の黄色のかすりを半身見せて着付けていた。頭には紫の、鉢巻をしめる。八重芸では、現地で取材してきて舞台にあげて良い、と言われたものを舞台にあげている。祖納岳節にはいろいろな踊りのバージョンがあるようだが、八重芸の舞台では四つ竹を持って踊っていた。
 ゆっくりとした音楽に四つ竹で踊る姿は本当に美しくて、いつまでも心に残った。高松塚古墳の壁画の壁画に残っている女性の衣装とそっくりなのである。7世紀の末から8世紀にかけて作られたと言われる高松塚古墳、そこに残っていた色鮮やかな壁画に描かれている女性の衣装は、まさにスディナ・カカンである。下にはいている裳は、色とりどりの明らかにプリーツに見える長いスカートで、プリーツの一筋ごとに違う色が描かれている。白ではないが、明らかにカカンと同じ感じ。上に着ている長着も、袖は、長く、折り返していて、手が見えないように着付けているが、打ち合わせといいシルエットといい、スディナはこれと同じものである。文献を見ても、古墳時代から奈良時代にかけての人々は、上下に分かれたツーピースのようなものを着ていた、と言われているので、ある意味典型的な衣装であったか。日本本土には、このスディナ・カカンスタイルは残っていない。八重山の正装としてこのスディナ・カカンが残っているのは、なんとも印象深いことだ。八重山には日本の古語が言葉としても残っていると言われているが、衣装の上でも残っていると言えるか。(続く)

 

三砂ちづる三砂ちづる (みさご・ちづる)  
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

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