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1.312025
「第11回 きものふたたび」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

また、きものを毎日着始めた。竹富島に移住して半年が過ぎた7カ月目、2024年11月、世持御嶽(ユームチオン)で種子取祭(タナドゥイ)が行われた。種子取祭は“きのえさる”のトゥルッキから“みずのとみ”のムヌンまで、十日間にわたって行われる島で最も大きな祭りである。“かのえとら”と“かのとう”に当たる二日間が奉納芸能の日で、まる二日、踊りや狂言が披露される。一日目の夜はユークイ(世迎え)と呼ばれ、カンツカサ(八重山の神役女性)と公民館役員を先頭にして、根原家を始まりに、カンツカサの家、役員の家などを夜中まで回って祈願を続ける。二日目の朝は5時半にまた根原家に集まり、そこから世持御嶽まで参詣を続けるのである。参詣の後は、シドゥリヤニという静かで厳かな狂言が奉納される。
トゥルッキの頃からきものが着たくなった。祭りの間もずっと着ていて、きものがそれからも着たくなっている。琉球絣、夏大島……手に取る着物は紺地や黒の色の濃い着物で、琉球弧で織られたものばかり。帯を貝の口か、片花に結んでいる。帯は、那覇育ちの知り合いの明治生まれのおばあちゃんが毎日締めていたもの、という帯を3本もらった。なんとなくお太鼓は違う気がして、ずっとこの細めの帯を使っている。
2003年からきものを着始めた、というか、時々、きものを着る、のではなく、きもので暮らすことを決め、毎日着始めた。二十代から民族衣装に憧れ、きものも人生でいつか着て暮らしたい、と思っていたから四十代半ばにして、やっとその夢を叶えた、というわけである。以来、職場や公式の場ではずっときものだった。20年働いた女子大でも、ずっときもので教壇に立ち続けたから、そしてそんな人はあんまりいないので、私は学生の間でも、結構有名人だった。ほら、きもの着てる、あの先生……という感じである。お茶やお花など風流なことをやっているわけでもなく、家にたくさんきものがあったわけでもなく、着たい、という思いだけで着始めた全くの素人だったが、なんでも20年続けていると、ベテランになってくるものだ。普段着なら5分もかからず着られるし、正式な場に出ていくようなきものも難なく着られるようになった。
そしてそれから20年ほど経った2024年4月に、竹富島に移住した。亜熱帯竹富島なので、袷(あわせ)のきものを着る時期はほとんどなくなる。持っていたきものの多くを友人たちに譲り、冠婚葬祭用のきもの以外は、本当に気に入っているものを、夏物、単衣(ひとえ)を中心に持ってきた。しかし、なかなか、きものを着る気になれなかった。330人を切るような小さな島社会、内地からやってきて、新しい家を建てた、家族を連れてくるでもない、65歳の未亡人……というだけで、たいがい、あやしい存在であろうに、そこに毎日きものを着る、というのはどうにもやりすぎなように思われた。それと、すごく暑かったこともある。
夏のきものは暑いので、また手入れが大変なので、と、きもの好きの方にも敬遠されることが少なくないが、私は夏こそきもの、と思っていた。夏ものの軽やかさと涼しさは素晴らしく、わき、えり、すそが抜けているので体に風がよく通り、気持ちが良い。帯の下は汗をかくが、冷房などが効き過ぎていても冷えないので、むしろ、夏帯も良いものだ、と思っていた。そうは言っても、いわゆる「きちんとした洋服」(仕事に出ていけるような)よりも涼しい、ということであり、酷暑の夏には夏きものより涼しい衣類があることは当たり前である。竹富に来てからしばらくは、カンボジアで一緒に働いたことのある国立女性病院の職員さんに仕立ててもらったサンポット(第2回参照)という、深いひだのついたスカートに、涼しいTシャツを合わせて着ていて、ちょっとお出かけ、という時には、今や沖縄の正装であるかりゆしシャツを着ていて、きものを着なかった。つまりは島に来た遠慮と、暑さ、がきものを着なかった理由か、と思う。
来たばかりの種子取祭だが、庭の芸能と呼ばれる、御嶽(ウタキ)の前の庭で行われる芸能の一つ、「太鼓」(という演目)に出る小中学生と学校関係者男性十五名に袴を着せつけてほしい、と頼まれた。私は20年以上きものを着ているから、大体の着付けのポイントはわかる。
女性の袴は何度も着付けたことがあるし、男袴と女袴はつける位置以外はほとんど同じなので、できる自信はあった。今はなんでもネットに上がっていて、男袴の着せつけ方、というのを何度も見て、実際に練習してみて、行けそうだ、と思って引き受けたのである。で、引き受けるということは、私がきものを着るような人だ、といういわば宣言のようなものなので、もう、着ても良いか、あの人はああいうものだ、で良いかな、と思うようになったのと、そして、酷暑が和らぎ、亜熱帯竹富島でも気温が二十度前後になるようになったこともある。私は再び、毎日きものを着始めた。
種子取祭の始まる頃から毎日着始め、この「太鼓」の着付けも、着物に割烹着をつけて行った。男袴の着付けはけっこう力仕事であったが、やりがいがあった。ただ、袴とアイジシンと呼ばれる長着はそれぞれの身にあまりあっていなかったりして、袴が長すぎると帯は高めにしなければならず、男性なのであまり高くしてもおかしいから、ぎりぎりのところを攻める感じ。それでも、今年の「太鼓」の衣装姿は、安心してみていられた、と先輩女性方からおほめのメッセージをいただいた上、公民館からはお手当をいただいた。光栄である。
種子取祭奉納芸能一日目を終えたあと、各家を回るユークイを行う。男も女も白いハチマキ、男性は後ろで縛り、女性は前で独特なやり方で結び目を作り、世持御嶽でイバンカミと呼ばれるシークワーサーの葉をいただいてハチマキにつける。このイバンカミは、島の人でも外からのお客様でももらうことができるが、もらった人は最後までユークイに参加し、翌朝5時に世持御嶽にイバンカミを返さなければならない。ユークイこそが種子取祭の核心、と思っていたので、参加することを何よりも楽しみにしていた。最初から最後まで参加しようと思っていたからイバンカミももらうつもりでいたのだが、島の婦人会の人たち(婦人会は65歳で引退である。私は引退年齢に移住したので婦人会に入っていない)が忙しいから、生協の当番を交代して、私が担当していたので港まで生協の荷物をとりに行かねばならず、戻ってきたらイバンカミをもらう儀式は終わっていた。嘆く私に島のシニアの男性方が、大丈夫だよ、なくても参加できるし、ある方が大変だよ、自分ももらったことないよ、と言ってくださって、ユークイの行列について行くことにする。種子取祭を始めたきっかけであるという根原金殿(ネーレカンドン)と呼ばれる根原家に向かい、島の人たちに迎えられる。ツカサを先頭に、公民館役員、島民、島外の方が白い鉢巻を巻いて種子取の道唄を唄い、島の白い道を歩く。家に着いたら、巻唄を歌いながら、ぐるぐるとまわり、男と女に分かれてガーリと呼ばれる喜びの踊りを踊り、家に入って、拝みをして、お酒と塩をいただき、そこでイルガダニと呼ばれる唄やユンタをうたう。根原金殿を出ると、ユークイ集団は西、東、仲筋、と集落ごとに分かれて家を回ってゆく。
西集落、我が家の斜め向かいにお住まいの初子さんは竹富の6名のツカサの最高齢であり、波利若御嶽(バイヤーオン)のツカサをつとめる。何日か前に、「きちんときものを着ているからユークイは一緒に歩いてね」と言ってもらっていた。それは大変光栄なことである。ツカサはユークイの先頭を歩く。その列について行かせてもらうのは、夜の竹富の道を歩くユークイを何より楽しみにしていた私には、ただ、ありがたいことだった。根原金殿を出て、西集落に向かうときに、初子さんに呼ばれ、竹富に引っ越して最初の種子取祭のユークイでツカサについて歩かせてもらったのである。
私は単衣の紺地の琉球絣に、白の半幅のミンサー帯をしめた。こちらの皆様は対丈(ついたけ)のきものに細帯を前帯にして着ておられるが、私はいわゆる、ヤマトゥのきものに半幅帯を後ろで片花にしめた。岡本太郎の沖縄文化論の冒頭にある、高齢女性の琉球鬢にきらりとささる銀色のジーファー(琉球のかんざし)に憧れていたから、二十代半ばで那覇に住んだ時に、久高民芸品店で求めた。それから約40年、銀のジーファーをさしてきたが、八重山に来ると、これはツカサの証だと知り、遠慮して、さしていない。那覇の友人が買ってくれた黒木のジーファーで、鉢巻ができるぎりぎりの低さで髪をまとめた。
沖縄のきものへの憧れも、ジーファーへの憧れも、今まで私が歩いてきた道は、ここにつながっていたか。時空を超える導きに感謝するばかりで、そんなふうにして、私はまた、きものを日常的に着始めたのである。
三砂ちづる (みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。