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「第3回 ブラジルの民族衣装(前編)」グローバルサウスの片隅で/ 三砂ちづる

 アジアの民族衣装が好きだった。アフリカのものも好きだ。とにかく民族衣装に心奪われてきた。国際保健、という仕事を選んでいたから、いわゆる現在グローバルサウスと呼ばれており、一昔前は第三世界と呼ばれていた国々に出かけることが多かった。いつも民族衣装を見たり、市場に出かけたりすることは一番の楽しみだった。
 30歳になってすぐの頃、長く住んだのはブラジルである。国際保健研究の一環として、そして当時のパートナーがブラジルの人だったので、ブラジル北東部と呼ばれるラテンアメリカ大陸のちょうど右肩あたり、ほぼ赤道直下のあたりで仕事をすることになった。ブラジルには、ないのである。いわゆる、伝統衣装が。というか、伝統衣装に限らず、なんというか、エスノグラフィックな香りのするものが極端に少ない。例えばアジアの市場に出かけて見かける伝統衣装や伝統工芸品がならぶ、という光景がないし、伝統衣装をつけて街を歩く女性たちもいない。みんな何を着ているのかというとTシャツに短パンにジーンズに……そういう光景が延々と続く。サンパウロやリオデジャネイロといった都会のみならず、私が10年住むことになった北東部セアラ州のセルタンと呼ばれる延々と乾いた大地の続く内陸部に入っていっても、人々の服装は基本的にTシャツに短パンにジーンズに……。それがだんだんと古びてきてみすぼらしくなるだけである。
 あのね、伝統衣装に興味があるんだけど……と言うと、ああ、バイアにあるよ、という。バイア州とは私の長く住んだセアラ州と同じ北東ブラジル(ノルデステという)にあり、州都サルバドルはブラジルの首都が置かれたこともある古い街である。ここには真っ白なバイアーナと呼ばれるドレスのような衣装がある。「バイアーナ」というのは元々「バイアの女性」のことである。それが衣装の名前にもなっている。
 ブラジルは、アマゾン先住民以外はほとんど移民で構成されてできた国である。ブラジルに一度住んだことがある人なら誰でも、このあたりは、どこかから移住してきた人が多い、ということがわかってくるものである。サンパウロ近辺にはイタリア系移民が多かった。アラブや日本からの移民も多く、ブラジル人口の1%を占めると言われる日本からの移民のほとんどはサンパウロやクリチバといった南西部に住んでいる。最南端のリオグランデドスルあたりには、ドイツ系、ポーランド系の人も多い。リオデジャネイロ、バイアなどは黒人系の移民が多く、背格好も大きく、スタイルも良い人が多い。私が住んでいたセアラ州はポルトガル人とインディオと呼ばれる先住民との混血がほとんどだったので、人々は小柄で親しみやすい風貌で、日本人がいても、あまり目立たない感じの地方だった。
 で、バイア州は黒人文化が色濃く残っているところで、バイアの民族衣装バイアーナは、アフリカ黒人の衣装が残ったものだといわれている。西アフリカあたりの影響なのであろう。白いレースをたくさん使ったたっぷりとした袖やスカートは、なかなか美しい。民族衣装フリークとしては、バイア州に出かけた時に早速手に入れて着てみたが、悪くないけど、なんだかウェディングドレスみたいというか、たいそうな服になりすぎて、ちょっとこれを着て街に出る、という感じにはならない。要するに東洋人にはあまり似合わない。
 バイア州でも皆さんがこれを着ているわけではなく、アカラジェというバイアの伝統スナックを露店で売っている女性たちがいつも着ていることで、知られている。体格の良い黒人系の女性がバイアーナを着ると、それはそれは迫力があって、よく似合う。頭にも白い布などを巻いて飾り、我々の感覚からすると、そんな真っ白いドレスで揚げ物とかしていたら汚れて大変じゃないか、と思うのだが、彼女たちはこのバイアーナで揚げ物アカラジェを作るのである。
 アカラジェとは黒目豆で作った揚げパンである。黒目豆、と一言で書いても、日本では馴染みがない。ヨーロッパ、ラテンアメリカに住んだことがあれば、よく見かける。小豆よりも若干大きく、金時豆よりも小さい白い豆で、文字通り、真ん中の胚芽のところが黒い。英語ではブラックアイビーンズと呼ばれていたし、ブラジルではfeijão-frade、直訳すると「修道士の豆」と呼ばれていた。ロンドンに何年も住んでいたのだが、ロンドンのどこのスーパーに行っても売っている、ごく平凡な食材だった。息子たちの父親である元夫のブラジル人ウォルターと一緒に住み始めたのはロンドンで、彼は料理上手だったので、いろいろな料理を覚えた。このブラックアイビーンズを茹でて、ツナ缶と小口ネギ、オリーブオイル、塩胡椒で味付けしたサラダは食卓の定番で、よく食べた。なぜかこのサラダを作ると同時にマカロニとハム、パイン、パセリを小さく切って、サウザンドアイランドドレッシングであえる、というのを作っていた。これ、両方、伝統料理というわけではないが、ブラジルの家庭で普通に作られていたサラダだったに違いない。日本ではブラックアイビーンズは通販とかでは買えるようだが、普通にスーパーでは売っていないので、ひよこ豆のサラダにしたりしていた。
 黒目豆をすりつぶして玉ねぎを刻んだものを混ぜ、デンデ油と呼ばれるヤシ油で揚げて揚げパンにしてアカラジェを作る。デンデ油は、色がとても濃いので、初めて見た時は、単に古い油にしか見えず、この色の油で揚げるのか、大丈夫なのか、と思ったがそもそもこういう色の油なんだそうである。揚げパンの真ん中に切れ目を入れて、バタパとカルルとヴィナグレッチを挟む。といってもなんのことかわかるまい。バタパはアフリカ由来と言われていて、干しエビ、カシューナッツ、玉ねぎなどを刻んで煮込み黄色いペースト状にしたもの、カルルはこちらも干しエビを使い、オクラの刻んだものを入れてキャッサバの粉でペースト状にしたもの、要するに両方ペーストになっているものを挟む。それに玉ねぎ、ピーマン、きゅうりなどを刻んで酢であえてマリネのようにしたビナグレッチというものを添える。一目で見たら一体何が入っているのかわからないと思うが、たいへんおいしい。ブラジルでよく知られたストリートフードである。ブラジルの料理はあまり唐辛子を使わず一般には辛くないが、バイアの料理は辛いものがあることで知られており、このアカラジェも唐辛子ペーストを使ったりして、好みでかなり辛くして食べる。
 ブラジル北東部のストリートフードはバイア州ではまずこのアカラジェであるが、これは読んでいても想像がつくか、と思うけれど、かなりボリュームがあり、スナックというより、お昼ごはんになる。スナックや朝ごはんとして北東ブラジル全域に広がっているのは、タピオカである。日本でも定期的に流行する台湾由来のコロコロしたゼリー状のタピオカが飲み物に入っている、あれ、と原料は同じであるが、厳密には、あのゼリー状タピオカは、タピオカパールと呼ばれるものであり、ここで取り上げている北東ブラジルのタピオカ、とは原材料は同じだが、違うものである。キャッサバを毒抜きして粉砕して粉だけにしたものがブラジルの主食の一つ、ファリーニャと呼ばれるキャッサバ粉となる。粉砕したあと水で濾してしぼり、沈殿した白い澱粉が粉になったものがタピオカであり、沈殿した白い粉のかたまりみたいなタピオカを、ザルなどを使ってある程度熱したフライパンの上にパラパラと一様にまいて、低音で熱すると真っ白く薄いパンケーキ様の物が出来上がる。これにマーガリンとかを塗ったりチーズを挟んだりするのが北東ブラジルの朝ごはんの「タピオカ」と呼ばれるものだ。白い粉の塊のタピオカは冷蔵庫で保存できるし、毎朝作りたてのものを提供できて、少しもちもちして淡白なパンケーキのようで、大変おいしい。ブラジル北東部に住んでいた頃は、朝、よく作った。
 街角でもこのパンケーキ様タピオカも売っていないことはないが、ストリートフードとしてタピオカ、と呼ばれているのは、この白い粉のかたまりを日本で言う回転焼というか、今川焼きというか、あの手の形、つまりは円柱を輪切りにしたような形にして焼き上げるものである。その真ん中に今川焼きのあんこの代わりにコンデンスミルクなどが入っていたり、単にコンデンスミルクを上からかけたりして食べる。こちらも外はカリッとして中はもちもちとしたタピオカ特有の食感が独特のもの。夕方大西洋を望む海岸を散歩しながらタピオカを食べるのは至福の時間で、これ、書いていると、今も食べたい。タピオカはブラジルのソウルフードの一つだな、と思う。
 キャッサバは日本では馴染みが薄いが、世界で米や麦と並んで主食として食べられている重要な食物であり、ジャガイモ、サツマイモと並ぶ世界の代表的なイモ類でもある。世界の多くの主要作物の原産が中南米であるように、このキャッサバもブラジル、メキシコあたりの中南米が原産であり、広く世界に広がった。アフリカではキャッサバを主食にしているところが多い。アフリカに行った人はよく聞く、タンザニアやケニアのウガリ、ザンビアのシマ、ガーナのフーフー、などこれらは全てキャッサバで作る。
 ブラジルの主食はまず、米ではあるが、キャッサバを粉にしたファリーニャも主食である。ファリーニャの方が安価なので、貧しいと米が食べられなくてまず、ファリーニャ、のようにいわれていた。ファリーニャはお腹で膨れて、腹持ちが良い。ブラジルのファリーニャは、粉の状態で玉ねぎのみじん切りなどと炒めてファロファ、にして食べることが多い。ブラジルではほぼ毎日、フェジョンという豆を塩味で煮たシチュー様のものを食べるのだが、このファロファをフェジョンに混ぜると、豆のシチューの水気をファロファがいい感じで吸ってくれて、食べやすくなる。キャッサバの粉ファリーニャはまずファロファとして食べられることが多い。2024年現在、返り咲いてブラジル大統領を務める労働党のルーラが最初に大統領になった時、収入の低い国民向けに「セスタ・バーシカ」と呼ばれる「基本食材のバスケット」ともいうべきものを配布したが、中身は「米、ファリーニャ、豆、砂糖、粉ミルク」であったという。
 キャッサバは戦中戦後に奄美や沖縄で栽培されていたこともある。でんぷん工場も稼働していたことがあるが、採算が取れず、定着しなかったようだ。キャッサバ自体は、暑さと乾燥に強く、土地が痩せていたり酸性土壌であったり条件が悪くても生育する。害虫がつきにくいことでも知られ、他の作物と比べ手入れの手間が楽であることはよく言及されている。甘味種と苦味種があるようで、タピオカが取れるのは甘味種のほうで、アフリカでは苦味種が好まれている、という記述があるから、ブラジルで多く作られていたのは甘味種の方ではないかと思う。キャッサバは水に浸したり乾燥させたりして毒抜き作業が必要なのだが、甘味種の方が毒は少ないらしい。ブラジルではゆでたキャッサバや下茹でしてフライにしたキャッサバをよく食べた。マンジョカ・フリタとかマンジョキーニャ・フリタと呼ばれるキャッサバのフライは、じゃがいものポテトフライよりもちもちしていて大変美味しい。北東ブラジルでは、どこの食堂でも注文することができたのを覚えている。
 現在竹富島に住んでいて、100坪の屋敷に25坪の家が建っている。庭には白い砂が敷き詰めてあって大変美しいので、毎日草取りしながらその美しさの維持に努めているが、そろそろ畑を始める時期かと考えている。現在の竹富島は観光の島で、畑はほとんど残っていないが、ほんの一世代前まで耕作できる土地は全て耕されていたのだ。現在はすべての食料品の調達を石垣島に頼っていて、島の人も皆、船に乗って石垣に買い物に行くのであるが、昨今の食糧事情、国際事情を考えるとある程度の自給体制は欲しいと思う。この乾燥と暑さの中ではキャッサバが良いのではないか、と考えている。

(つづく)

 

三砂ちづる三砂ちづる (みさご・ちづる)  
1958年山口県生まれ。兵庫県西宮育ち。津田塾大学名誉教授、作家。京都薬科大学卒業、ロンドン大学Ph.D.(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『ケアリング・ストーリー』『六〇代は、きものに誘われて』『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』『少女のための性の話』『少女のための海外の話』、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』、共著に『家で生まれて家で死ぬ』他多数。

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