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『わかな十五歳』の著書わかなが、核の最終処分場で講演した際の心境を綴りました

『わかな十五歳』の著者、わかなが7月に核の最終処分場の候補地・寿都で講演しました。
その際の心境をFacebookに投稿しており、当社サイトでも紹介させていただきます。


【寿都の旅🐟】

7月22-24日、寿都(すっつ)に行ってきました。初日、札幌から寿都に向かいました。これまでたくさんの講演会をしてきましたが、今回は私も思い入れが強くありました。

『わかな十五歳』は2021年3月11日に出版されました。この本を書くことになった発端は、寿都と神恵内(かもえない)で核のゴミの引受の話がメディアで取り上げられたことでした。

当初は私の講演会を現地で行うということを考えていましたが、コロナの影響や他の様々な理由により実現することが難しくなってしまったのです。
そこで、チェルノブイリへのかけはしの方からの提案で、私の講演会の内容を文字起こしをしてA4の冊子にまとめることになり、配布してもらうことになりました。
それが旭川のミツイパブリッシングの編集者の方の目にとまり、『わかな十五歳』を執筆することになりました。
皮肉にも、核のゴミの引受の話がなければ、私の本はあのタイミングで出版することは無かったのだろうとも思います。

この2年、「いつか寿都に行く」と思いながら過ごしていましたが、ようやくそれが実現しました。
正直、現地は福島の「あの頃」を彷彿させるような状況なのがわかりました。危険なのに、怖いのに、おかしいのに、それを大きな声で言えない。放射能の「ほ」、原発の「げ」の字を言っただけで白い目でみられ、放射「脳」といわれ、非県民と言われ、非国民といわれたあの時のことを。嫌なら出ていけ、お前が行くと風評被害が広まる、社会のことも分からないくせに黙ってろ、といわれたあの時のこと。
「戦時中」
のような、あの雰囲気、沈黙の中にある圧力と抵抗、そして、「生きる」ことへの疲労を静かに、たしか(確実)に感じました。

「想定内」に時間オーバーした講演会でまだまだ伝えきれなかったこともありますが、話の主軸である「生きること」の覚悟と希望の光はほんの1ミリでも伝えられたかなと自分を励ましながら帰路につきました。何よりも、私もまたこの社会とシステムのおかしさに愕然としながらも、改めて「諦めなければ道は開ける」という恩師の言葉を噛み締める時間になりました。

神様は乗り越えられる人にこそ、試練を与える
のであれば、私は私を励ましながら、エンパワメントしながら、生きていこうと思うのです。
寿都の町と海は核のゴミが似合わないほど美しく、食べ物も美味しく、人生で食べた魚の中で1番美味しいと思えました。

生きてるって素晴らしい

そのことを感じさせてくれるこの町に、核のゴミはいりません。
寿都は日本でもはじめに風力発電を始めたところです。風力発電といいながら、何十メートルというプロペラと無機質な白い巨塔は私には恐ろしくみえました。歴史を紐解けば、やはり、反対した人達が沢山いました。しかし、「経済難」ということを理由に風力発電をすすめてきてしまったのです。
美しき自然を壊して「自然エネルギー」とうたい、核の未知数の健康被害を無視して「未来の明るいエネルギー」とうたう。
金を得るなら魂を売れ、とでもいうように。
それこそ、戦争を終わらせるために核(原爆)は必要だったとでも言うような。
既視感。
肌感覚で、とユルっとヌルッとした感覚論で、危険なものを選んでしまう町長。そして、そのヌルッと感覚を信じてしまう人達。その違和感と抵抗し続けることは物凄く労力のいることです。
得体の知れないヌルッとしたものと対峙する訳ですから。

私が避難後、山形駅前で「頑張ろう福島」とか「頑張ろう東北」というのぼり旗を見てガックリとしたあのときのことを思い返しました。あのとき「これ以上何を頑張ればいいんだ」と、あののぼり旗の「他人事」の「肌感覚メッセージ」に愕然としたのです。絆、という言葉もそうでしたが。その言葉の真意を考えさせられてきました。

他人事として言ってるのか、
自分事として言ってるのか、
それぞれ全く違ったニュアンスになります。

一緒にこのシステムを変えていく必要があります。もう、いい加減に、「本当に大切なもの」を見失わせられる生き方からは脱出しなければなりません。

私もそのために、これからも諦めずに声を上げ続けていこうと思います。
寿都の皆さん、講演会に足を運んでくださった皆さん、思いを寄せてくださった皆さん、ありがとうございました。

 

わかなのFacebookページより転載(元記事はこちら


わかな十五歳 中学生の瞳に映った3・11

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