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特別鼎談★内田樹×寺脇研×前川喜平 公共とは何か〜学術会議任命拒否問題から考える≪前編≫

日本学術会議の新会員を菅新政権が任命拒否した問題は、日本社会に波紋を広げています。思想家・武道家の内田樹さん、元文部官僚で映画評論家の寺脇研さん、元文部科学事務次官の前川喜平さんが、この問題の核心に迫りました。(2020年10月7日収録)

内田 相当怒っていますよね、インターネットを見ていると。僕は「安全保障関連法に反対する学者の会」のメンバーなんですけれど、学会からの抗議声明が先ほど段階(10月7日時点)で80を越したと言っていました。これからも自然科学・社会科学を含めてどんどん学会が声明を出して、最終的には200くらいの学会が声明を出すそうです。

前川 ひどい話です。僕はそんなに愛国者ではないんだけど、やっぱり日本の恥だと思う。

内田 本当に日本の恥です。

前川 恥ずかしいですよね。もし僕が今現職の文部官僚で科学関係の国際会議に行ったとしたら、うちの政府はこんなに遅れた政府なんです、と弁解して回らなくてはいけなくなる。考えられないですよ、アカデミーの人選に政治が首を突っ込んでくるなんて。

内田 6人の任命拒否の理由を説明したと言いながら、全く説明していない。任命は形式的であるという過去の政府答弁と法解釈は変えていないって。変えてるじゃないですか。

前川 変えていますよ、明らかに。

内田 諏訪哲二さんが書いた『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ、2005年)という本に、80年代くらいから子どもたちのようすが変わったと書いてあります。昔は、学校の中で問題行動をしている子どもを見つけて注意したら、「すいません」と子どもは謝っていた。それがある時期から、行動自体を否定するようになったそうです。トイレでタバコを吸っている子どもを見つけて、「こら」と叱ると、タバコを踏み消して、「吸ってねえよ」と言うようになった(笑)。授業中に「私語をやめろ」と指摘すると「してねえよ」と言う。事実として明らかに喫煙し、私語しているにもかかわらず。それまでは、不良たちも事実関係については争わなかった。それがある時期から目の前にある事実そのものを「ない」と言い張るようになった。そうすることによって、少しでもペナルティを軽減できるのでは、とディール(取引)することを子どもたちが学んだらしい。

当事者全員がそこで起きている事実を知りながら、交渉を少しでも有利に進めるために、とりあえず否定してみるというしぐさが広く日本の高校生の中に広がっていった、と。諏訪さんの本にはそう書いてありました。僕は女子大勤務だったから、そういうような問題行動に出会う機会はなかったんですけど、ある世代から下では全国的な現象だったみたいです。今も、法解釈を変更したのに「していない」、説明していないのに「説明した」と言う。

前川 説明になっていない説明ですからね。「あいちトリエンナーレ2019」のときもそうでした。「表現の不自由展・その後」への文化庁の補助金問題があったでしょう。「あいちトリエンナーレ」全体の、7800万円の補助金を一括して不交付にした。あとで、減額したかたちで交付したんですけれど、いったん、全額不交付と決めたんですよ(注1)。その理由は、もう誰の目から見ても「平和の少女像」とか、「遠近を抱えて PartⅡ」という作品(編集部注:昭和天皇の肖像を燃やしていると批判を受けた)に対する不快感だったというのはもう間違いないと思うんだけど、それを、いや展示の内容は関係ない、手続きに瑕疵があったとかいう説明しかしなかった。文化庁の審議官どまりの決裁でやっているんですよ。だから文化庁長官も私は関係ありません、決裁していません、と。文部科学大臣も、事務的にやったことだと言いました。

内田 どうして説明責任を回避しようとするんでしょうね。政治的な確信をもってやっていることだったら、はっきりと言えばいいじゃないですか。うちの政府はそういう反権力的な芸術活動は許さんぞとか(笑)。金が欲しかったらもう少し権力に対して敬意を示せとか。本当にそう思っているなら言えばいいのに。自分たちのプランを明らかにして、説得して同意を取り付けるということをしない。

前川 話が通じない相手ですからね。

内田 ロジックが通じないわけだから、説得できない。議論というのは、論理的な思考ができる者同士がやるというのが前提です。相手もまた論理的思考ができるはずだから、然るべき論拠を示して、論理的に推論すれば同じ結論に達するはずだ、と。そういう前提が共有されていない。世論がそういう流れを作らないといけないんですけど。

前川 一般の人々に関係ない、というような感じがありますね。

内田 そういう方向に世論を誘導しようとしていますよね。これは「象牙の塔」の話なんだから、一般市民には関係ない、と。でも結構もめると思うんですよね。このまま官邸が押し切ることができるかどうか。

前川 押し切るでしょう。

内田 国内外の学会が、一斉に抗議声明を出したという場合でも。

前川 それでも国民はついてくる、と。

寺脇 押し切る気は十分でしょうね。押しきれるかどうかは、まあ。

内田 与党内部はどうなんでしょう。

前川 問題だと思っている人はいるでしょうね。

寺脇 船田元さんが、1983年、会員を任命制に変更したときの文教委員だったと言っていますね(注2)。そのときに「形式的な任命制」という解釈をして、それが引き継がれているんだと。

前川 自民党にもまともな人はまだ何人か残っていますから。村上誠一郎さんとか。

内田 どう見たってこれは無理筋でしょう、と言う人が与党内にもいるわけですね。内閣法制局が全然機能していないですね。

前川 安保法制が成立する前、集団的自衛権を憲法上認めるという判断をしたあたりから、内閣法制局が独立性を失いました。「黒を白と言え」と言われたら「はい、白です」と言ってしまう。

内田 内閣法制局がだめになったというのが、この間の出来事ではいちばん大きいんじゃないかな。

前川 そうですね。

内田 法解釈の一貫性がなくなってしまいましたから、もう法治国家とは言えないです。

前川 黒川検事長の定年延長も、本来適用できない国家公務員法を適応できる、ということにしちゃったわけですから(注3)。もう内閣法制局は無茶苦茶ですよ。とにかく屁理屈を作れ、と言われたら作るようになってしまった。

内田 筋を通すための役所だったのに。

前川 そうなんですよ。法案を作るときなんかね、内閣法制局は厄介だったですよ。簡単に「うん」と言わないんですから。法制局は本当に厳密に、議論する場所だったんです。

内田 法学部の学生にしてみたら、法体系の整合性って最優先事項じゃないですか。そのために知的なトレーニングをしてきた人たちが、今どんな顔をして仕事をしているんでしょうね。

前川 内閣法制局というのは、内閣に属しているけれども独立性をもっていたのです。各省と本当に厳密なやりとりをしていました。憲法9条に関しては、「個別的自衛権は認められるけれども、集団的自衛権は認められない」という見解をずっと維持してきました。

内田 伝統的な見解ですよね。

前川 内閣法制局の人事というのは、長官は必ず内部登用だったんです。法制局では採用しないんですよ。法務省や財務省から法律に詳しい人間が法制局に入って、そこからルートが変わる。参事官は各省からの出向で、参事官の中から部長になり次長になり長官になる。そのように法制局内で上がっていくという人事が慣例化していたので、法制局長官は全員、法制局の中からの生え抜きだったんですよ。それを2013年に、いきなりトップだけ首をすげ替えましたね(注4)。集団的自衛権を憲法上認めるための、きわめて異例の人事だったんです。できないことではないと言われれば、そうなんです。内閣法制局長官の場合、任命権は内閣総理大臣がもっていますから。だけど、それまでの人事の慣例を崩してしまった。今回も、そのときとつながっている問題ですよ。任命権があるんだから俺の勝手だろう、という考え方です。

寺脇 任命権があると言ったって、それは前川さんも言われたように、内閣法制局は長官を自由に任命する権限を総理大臣がもっているわけだけど、学術会議の場合はそうじゃないですからね。

内田 「推薦に基づいて」ですから(注5)。

前川 法律の明確な根拠がありますからね。学術会議については。

寺脇 単純に「法律違反、以上終わり」なんですよ。訴えたら裁判所だって、いくらなんでもこれは法律違反だと言わなきゃいけない。

内田 法律の専門家たちを任命拒否しちゃったんだから(笑)。

前川 すごいですよね、憲法、刑法、行政法と。弁護士、裁判官、官僚などを育てている先生たちですよ。

内田 たぶん学者のことをすごくバカにしているんだと思います。大学人をずっとバカにしてきたから。教育行政を通じて、大学人というのはヘタレだというてごたえを得てきた。どんなに理不尽なことを命じても、助成金を削ると言うと黙って従う。そういう様子を四半世紀見てきたわけですから。

でもね、大学人として一大学の教育や学務に関わっている場合と、一学者として学術共同体に属している場合では、同じ人間でもありようが違うんですよ。学者として属しているのは大学ではなくて、学会ですから。大学人として動いたり判断するときは、組織人なんです。いわばサラリーマンとしてことの是非を判断している。でも、今度の学術会議の問題については学者たちは独立した、自営業の学者としての問題として受け止めている。大学人としてだったら、文科省から何か言われたら、「理不尽だな」と思っても、自分がごねると大学に迷惑がかかるからもしれないと思うと引っ込んでしまう。僕でさえそうでしたから。でも、そんな人たちでも、今度は一学者として政治権力と向き合っている。だから、かなり原則的な対応ができると思います。大学人を見くびるのはかまわないけれど、学者を見くびってはいけない。

寺脇 役所の人間だけじゃなくて、社会の中で、文化人や芸術家や、学者に対する敬意が薄れていると思います。それはある種、戦後民主主義教育の成果なのかもしれないけれど、要するに権威というものを認めない、という考え方ですね。私の考え方では、人に権威をもたせるのは止めなければいけない。しかし、業績に権威をもたせることは、それとは別の問題です。その整理ができていないんじゃないですかね。つまり、ある人が学術会議の委員だからという理由で、その人を敬う気は全然なくていいけれども、その人の学識には敬意を払うべきだということです。

私の父は九州大学医学部の講師から、鹿児島大学医学部教授になった人でした。とにかく権威が欲しくてたまらなくて、病院長になりたい、学部長になりたい、と。学長になるのが生涯の夢だった。でも私はなんで? と思っていました。学者なんだから自分の研究の成果がノーベル賞をとるとか、そういうことをめざしてがんばるのはよくわかるけど、学長なんてめざしてもしょうがないと。まあ大学行政だと、そこへまたつけ込む人たちがいて、学長選びなんかでもいろんなことがありますけど。ただそういうときに、尊ばれるのはその人の肩書きではなくて、業績でしょう。

内田先生は学園紛争にお詳しいじゃないですか。あのころ、たとえば丸山眞男を吊し上げろという雰囲気がありましたね。東大教授だから、という権威は認めない。それはわかりますが、その人がいい本を書いているとか、いい学説を唱えているとか、そういう業績、仕事の中身と切り離して考える必要があるんじゃないでしょうか。

内田 切り離すも何も、全共闘の学生は丸山眞男を読んでなかったんじゃないですか。ただ一人の東大教授としてしか見ていなかったわけで、丸山眞男の学問的業績を内在的に批判していたわけじゃない。それだけの見識も判断力もありませんから。ただ、一大学人として見た場合には、執行部の側に立って、学生たちを弾圧している、そういう体制側の一員にしか見えなかった。学者としてではなく、組織人として見て、それを批判していた。それは簡単にできるんです。だって、大学人というのは本質的にサラリーマンだから。ほんとうは一人の知識人をその人の「一番低い鞍部」で乗り越えて、批判し切った気分になってはいけなかったんです。でも、そうやって僕らの世代は象牙の塔の知的威信をたたき壊してしまった。

寺脇 象牙の塔が行き過ぎていた部分も、強くあったわけで。それこそ医学部の大名行列のような、白い巨塔の世界ですよ。私は九州大学の構内で育ったんです。九大医学部の官舎があって。昭和30年代ですけれどね。そういった白い巨塔的な、肩書きだけの権威を打破することについては、必要性があったと思うんだけど、それを混同してしまった弊害が、今回のことにつながっているんじゃないですかね。

(後編はこちら

 (注)
1 美術手帳2020.3.23 https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21560
2 朝日新聞デジタル2020年10月5日 https://digital.asahi.com/articles/ASNB55FZXNB5UTFK008.html 
3 東京新聞ウェブ 2020年5月16日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/14122
4 毎日新聞 2019年9月20日 https://mainichi.jp/articles/20190920/k00/00m/010/305000c
5 日本学術会議法7条2項 https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC0000000121

*肩書きは当時。
*本鼎談は『どうなる日本の公教育(仮)』として2021年に小社から刊行予定です。

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